Chapter 14 『帰還』
校庭に吹く風は、鉄と血の匂いがした。
夕陽は、まるで巨大な傷口のように赤く空に広がり、舞い上がる砂埃がその光を乱反射させ、世界全体が燃え上がっているかのようだった。
野球部の声も、他の部活の音も、もうここにはない。
残されているのは、砂の上に崩れ落ちた少女と、その亡骸を見下ろす処刑人だけ。
ヒトミは砂に倒れ込み、胸を押さえた。
息が苦しい。
アヤネに打ち据えられた脇腹は、呼吸のたびに内側から灼熱の鉄の棒で抉られるように痛む。口の中に広がる血の味で、正常な思考が麻痺していく。
だが――その胸の奥では、肉体的な痛みとは比較にならないほど、燃え盛るような衝動があった。
「……やめろ……!」
掠れた声。
それは、蚊の鳴くように細く、震えていた。
けれど、確かにそれは、絶対的な暴力の化身であるアヤネの動きを、一瞬だけ止めた。
アヤネは片眉を上げ、まるで初めて見る珍しい虫でも観察するかのように、ゆっくりと振り返る。
「……今、何て言った? 聞こえねえな、sukekiyo」
ヒトミは膝に手をつき、よろめきながら立ち上がった。
脚は生まれたての小鹿のように震え、喉はガラスの破片でも飲み込んだかのように張り裂けそうだ。
それでも、彼女は言った。血の味の混じる唾を飲み込み、もう一度、はっきりと。
「……やめろって言ったんだ… それは……私の……生命なんだ!」
空気が一瞬、張り詰めた。
夕暮れの赤が、ボロボロになったヒトミの小さな体を、まるで後光のように照らしていた。
アヤネは、数秒の沈黙の後、腹の底から笑った。
「へぇ……立ち上がったか。sukekiyoが、陸に上がった。反撃のつもりか?」
その笑みには、侮蔑と、ほんの少しの好奇心が入り混じっている。
「でもな――」
金属バットが、空気を切り裂く唸りを上げ、再びヒトミの肩に叩きつけられた。
ゴッ!という鈍い音。
「ぐっ……!」
声にならない悲鳴が喉に詰まる。
身体が弾かれ、まるでボールのように、再び砂の上へ叩きつけられた。
アヤネはバットを肩に担ぎ、心底呆れたように吐き捨てる。
「弱えな。てめえの言葉なんざ、風に飛ばされる砂と同じだ。何の重さもねえ」
ヒトミの視界が滲む。
砂と涙と血が混ざり、世界がぐにゃりと揺らぐ。
それでも――
彼女は、這いながら、指を砂に食い込ませながら、再び立ち上がろうとした。
「違う……!」
声は掠れていたが、その震えは、もはや恐怖ではなかった。確かな意志だった。
「言葉は…世界を…変える…。私が、それを……証明する…」
アヤネは、その姿を見て、初めて笑みを消した。代わりに、その目に純粋な殺意が宿る。
「へぇ……証明、ねぇ。だったら見せてやるよ」
彼女はヒトミのポケットから奪った緑のライターを、まるで戦利品のように掲げた。
「てめえのその“生命”とやらが、どれほど簡単に、無価値に消えるかをな」
アヤネは、燃えさしが残るノートを高く掲げる。
カチ、と乾いた音。
再び灯された炎が、ヒトミの言葉と祈りが刻まれたページを、赤黒く舐めていく。
ヒトミは、残された最後の力を振り絞り、駆け寄った。
「やめろッ!!」
伸ばした手は震え、しかし、燃え盛る炎には届かない。
アヤネは、その無様で、しかし必死な姿を、愉快そうに見下ろした。
「ほら見ろ。これが現実だ。火ひとつで、てめえの“生命”なんざ、ただの灰になる」
火は紙を侵食し、インクが黒い涙のように溶け落ちる。
灰が風に舞い、夕暮れの空を汚していく。
ヒトミは声にならない声をあげ、必死に手を伸ばした。
「返して……! それは……!」
だが、あと一歩届かない。
ページが燃え尽き、ノートの最後の断片が、黒い蝶のようにひらひらと落ちかけた、その瞬間――
世界が、止まった。
ふっ、と炎の燃える音が消えた。風が止んだ。砂埃が、空中に静止した。
まるで、誰かが再生ボタンを停止させたかのように。
アヤネの動きが、ヒトミの絶望が、時間の流れそのものが、凍りついた。
その、絶対的な静寂の中。
まるで最初からそこにいたかのように、誰かの手が、燃えるノートをひょいと掴んでいたのだ。
「……勝手に燃やしてんじゃねえよ、ゴリラ女」
どこまでも涼やかで、どこまでも低い声。
止まっていた時間が、再び動き出す。
ヒトミの目が見開かれる。心臓が、止まる。
アヤネの顔から、表情が凍りつくように消えた。
夕陽を背に、緑の炎が揺れる。
燃えるノートを掌に収めたその姿は、まるで何事もなかったかのように、そこに立っていた。
芽衣子。
傷ひとつない、涼しい顔。SIONに連れ去られた時と同じ、竜胆学園の制服。
彼女は、まるで時空を飛び越えてきたかのように、そこに帰還した。
風が一度、校庭を駆け抜けた。
散った灰が舞い上がり、夕陽の赤と、彼女の髪の緑に照らされて、美しくきらめく。
ヒトミの胸に、太陽が昇るような熱が走った。
アヤネは言葉を失ったまま、ただ目の前の“ありえない存在”を睨みつけ、バットを握りしめる。
芽衣子は、燃えさしのノートを軽く振り、火の粉を散らしながら、ニヤリと笑った。
そして、呆然とするヒトミに、優しく、しかし力強く告げた。
「お前の声、聞こえたぜ、ヒトミ」
「……え…?」
「アンタが諦めない限り、この物語は終わらない。……続きは、ここからだろ?」
(to be continued…)




