Chapter 13 『砂上のバッテリー』
夕暮れのグラウンドは、まだ日中の熱を帯びていた。
照り返す砂がじりじりと頬を刺し、遠くでカラスが世界の終わりを告げるかのように鳴いている。
放課後の喧騒はすでに死に絶え、ここには二人の影だけが、血のように赤く、長く伸びていた。
アヤネは帽子の向きを変え、能面のような表情のヒトミを見下ろした。
「なあ、sukekiyo。私が、てめえみたいな文学かぶれを、心底嫌う理由、知りたいか?」
その声は低く、乾いた砂を這うような響きだった。
ヒトミは膝の上のノートを、まるで自分の心臓であるかのように抱きしめている。言葉は喉の奥で、コンクリートのように固まって出てこない。
アヤネは、その沈黙を肯定と受け取り、口角を吊り上げた。
「ウチのオフクロ、本ばっか読んでた。詩だの、小説だの、小難しい言葉ばっか並べて、現実から逃げてた。飯も作らず、掃除もせず、ただ紙の上のインクを追うだけの、生きた亡霊だった」
一歩、また一歩と、アヤネはヒトミとの距離を詰める。その足元で、砂が悲鳴をあげた。
「そんなオフクロを見て、オヤジは呆れて出ていった。家は壊れた。後に残ったのは、何の役にも立たねえ古紙の山と……生き残るために、泣きながら磨いた、私のこの腕力だけだ」
バットの先端が、砂の上に無慈悲な一線を引く。
「本で何ができる? 殴られたら助けてくれるか? 金がなくて腹が減った時、ページを食って満たされるのか? 違うだろ。現実は、走って、投げて、殴って、勝った奴だけが、立って息してんだよ」
ヒトミの耳の奥で、その言葉が何度も反響する。
彼女の世界を支えてきた「文字」という名の脆い骨が、一本、また一本と砕かれていくようだった。
「そのノート、大事なんだろ?」
アヤネは一気に手を伸ばし、ヒトミの腕からノートを奪い取る。
抵抗する間もなかった。ノートは、まるでゴミのように、砂の上へ叩きつけられた。ページが弾け飛び、風に弄ばれる。
「ほらよ。お前の“魂”なんだろ? 守れよ。命懸けでな」
ヒトミは、声にならない叫びをあげて駆け寄る。
だが――ドンッ!!!!!!
バットの先端が、ノートの真ん中を打ち据えた。乾いた鈍い音と共に、紙片が舞い上がり、夕焼けの赤い空に吸い込まれていく。
「見ろよ。文字なんて、こんなに簡単に散る。お前の命も、同じだ」
ヒトミの頬に砂が張り付き、目尻に涙が滲む。
それでも彼女は震える指先で、散らばったページを一枚一枚、必死にかき集めようとした。
「何やってんだよ。そんなもん守って、何になる?」
アヤネは、ヒトミが集めたページごと、ノートを踏みつけた。ブーツの裏で、インクの文字が汚れ、擦り切れていく。
「お前は結局、立ち上がれない。逃げて、紙切れにすがってるだけ。……それが、てめえみたいな人間のクズの正体だ、所詮は紙くず同然」
ヒトミの胸が激しく脈打つ。
言葉を吐き出したいのに、声が出ない。
ただ、頭の中では必死に叫んでいた。
(違う…違うんだ…! 私にとっては…この文字だけが、私を生かしてくれる…唯一の光なんだ…!)
その時、アヤネの足が、砂を蹴り上げてヒトミの脇腹を捉えた。
「ぐっ……!」
ヒトミの体はベンチに叩きつけられ、肺から空気が全て搾り出される。
アヤネはバットを肩に担いだまま、無表情で言った。
「ほらな。これが現実だ。殴られりゃ痛え。蹴られりゃ血が出る。本じゃ、誰も助けちゃくれねえ」
ヒトミは唇を噛みしめた。涙と砂と、口の中に広がった鉄の味が混ざって、視界が滲む。
それでも、その手は、震えながらも、汚されたノートを探して伸びていた。
アヤネは、その姿を見て、初めて、心底から面白そうに笑った。
「命、ねぇ……」
彼女はノートを拾い上げると、ヒトミのポケットから緑のライターを奪い取った。
カチ、と音が響く。
乾いた火花が闇に瞬き、赤い舌がページの端を舐めた。
「や、やめろッ!!!」
ヒトミの絶叫が、夕暮れの校庭に響き渡る。
だが、アヤネは構わない。火は、ヒトミの言葉を、祈りを、魂を、ゆっくりと黒い灰へと変えていく。
「見ろよ。言葉なんざ、火に当たれば一瞬で消える。これが現実だ。残るのは、灰と煙だけだ」
ヒトミの膝が崩れ落ちる。
それでも、彼女は燃えるノートへと手を伸ばした。
「それでも……私は、守るんだ……」
ヒトミは、激痛が走る脇腹を押さえることも忘れ、獣のように砂を掻いて身をよじった。 伸びた細い指が、燃えるノートを踏みしめるアヤネのブーツに喰らいつく。爪が硬い革に食い込み、ギチギチと不快な音を立てた。
「返せ……! 私の……私の世界を、焼くなッ!!」
今までアヤネの暴力の前に縮こまるだけだったヒトミが、初めてその足にしがみつき、睨み返したのだ。涙でぐしゃぐしゃになった顔には、懇願ではなく、明確な敵意の炎が宿っていた。
一瞬、アヤネの動きが止まる。
その必死な抵抗が、アヤネの中の何か——良心か、あるいは憐憫か——に触れたかに見えた。
守るだけだった言葉が、初めて“戦うための意思”に変わった。
だが、その意思は、アヤネの次の言葉によって、根源から否定される。
アヤネは、燃え落ちるノートを見下ろしながら、静かに、しかし絶対的な真理を告げるように、口の端を歪めた。
「……なあ、ヒトミ。勘違いしてんじゃねえぞ」
赤い目が、ギラリと光る。
「てめえをぶちのめすのに――理由なんざ、いらねえんだよ」
ヒトミの胸が凍りつく。
その言葉は、暴力に理屈を、意味を、物語を求めていた彼女の世界を、根こそぎ破壊した。
アヤネはバットを肩に担ぎ直し、乾いた声で笑う。
「NO REASON。全てはその一言だ。気に入らねえ。ムカつく。だから、私は殴る。ただ、それだけ。てめえの物語なんざ、知ったこっちゃねえんだよ」
夕暮れの校庭に、二人の影が交錯する。
砂上に散ったノートの灰が、風に舞い上がり、赤く焼けた空へと吸い込まれていった。
(to be continued…)




