Chapter 12 『sukekiyo』
校庭は、まるで放課後の血のような赤に染まっていた。
金属バットがボールを捉える甲高い叫びと、土埃に混じる汗の匂い。そんな暴力的なまでの“生”の気配が満ちるグラウンドの隅で、ヒトミはまるで世界から切り離されたかのように、静かにベンチに腰掛けていた。
膝の上には、読み古した文庫本と、何も書かれていないページが目立つノート。
芽衣子が図書館から連れ去られてから数日、ヒトミの胸の奥には巨大な空洞が空いていた。その虚無を埋めるように、彼女は以前にも増して、印刷された活字の森へと逃げ込んでいた。言葉の壁を築き、その内側で息を潜める。それが、今の彼女にできる唯一のことだった。
だが、その脆い城壁は、あまりにもあっけなく破壊される。
キィン!
鼓膜を突き破るような打球音が、すぐ近くで炸裂した。
乾いた音と共に空を裂いた白い硬球は、まるで銃弾のようにヒトミの足元へ転がり、砂煙と共に、巨大な影が彼女を飲み込んだ。
「おーい、真面目女」
野球帽を後ろ被りした少女が、バットを王の杖のように肩に担いで、そこに立っていた。
オーバーサイズのパーカー、全てを睨みつけるような鋭い目つき。
竜胆学園女野球部の暴れん坊――アヤネ。
彼女は、ヒトミが最も苦手とする、純粋な“現実”の化身だった。
「キャッチボールしてやるよ。……顔面でな」
ヒトミが身を竦ませるのを見て、アヤネはボールを拾い上げ、わざとヒトミの開いた本の上に、ドスッと音を立てて落とす。ページに、泥のついた縫い目の跡が刻まれた。
「なに読んでんだ? また小難しいやつか? お前さあ、そういうの一番ムカつくんだよ」
アヤネの声は低く、苛立ちに満ちていた。
「文学とか哲学とか…さも高尚なフリしてんじゃねえよ。結局それって、現実から逃げてる腰抜けの言い訳だろ? 生きるための筋肉にもなりゃしねえ、ただの暇つぶしだ」
バットの先端で、まるで墓穴でも掘るかのように砂をえぐりながら、アヤネは続ける。
「走れって言われたら走る。殴れって言われたら殴る。そういう単純なことの方が、ずっとマジだろうが。本なんかで世界が変わるかよ。てめえが変われるかよ」
アヤネの言葉が、放課後の赤い空気をさらに熱く焦がしていく。
ヒトミは膝の上の本をぎゅっと押さえ、俯いた。文字の群れが揺れ、意味が砂粒のように指先から零れ落ちていく。
「あの緑頭が消えてから、お前、マジでただの置物だな」
アヤネが鼻で笑い、ベンチの反対側に腰掛けた。その挑発的な視線が、ヒトミの心をじりじりと焼く。
「あいつがいた時は、少しは面白い顔するようになったかと思ったのによ。結局、守ってくれる奴がいなきゃ、泣いて本読んでるだけか? 満足か、それで」
ヒトミの胸の中で、自覚したばかりの無力感が、黒い波紋となって広がっていく。
声が出ない。声を出すたびに、自分が“主人公ではない”という事実を、この現実の化身に肯定してしまうようで、喉が焼け付くように痛んだ。
「お前さ、本の中でしか戦えないんだろ?」
アヤネは、ヒトミのその無抵抗な様に、さらに苛立ちを募らせる。
「現実はページじゃねえ。痛みがある。血が出る。悔しさも、喜びも、全部この身体で覚えなきゃ、わかんねえんだよ。お前のそのノートは、お前を守っちゃくれねえ。ただ夢を見せて、現実から目を逸らさせてるだけだ」
(私は——本の言葉にしか縋れない。芽衣子の炎は、私の皮膚を焦がすほど遠い。私が触れられたのは、いつだって、物語の端っこだけだ)
ヒトミは、やっと顔を上げた。
その表情は、能面のように、何の感情も浮かんでいなかった。
アヤネは、その反応のない顔を見て、心底から侮蔑したように嗤った。
「ああ、そうかよ。読んでろよ。その代わり、見せてやる。世界ってやつの、本当のページをな」
アヤネは立ち上がり、バットを肩に担ぎ直した。
そして、宣告するように、言った。
「お前はまるで……sukekiyoだな」
ヒトミが顔を上げる。その言葉の意味を、彼女は知っていた。
「知らねえのか? 犬神家の助清だよ。あの不気味なゴムマスクの男。湖に逆さに突き立てられて、水面から足だけ出してバタバタしてる、あの無様で、滑稽な死体」
アヤネの言葉は、バットの一撃よりも重く、正確にヒトミの心を打ち砕いた。
「結局お前も同じだろ? この竜胆学園っていう澱んだ湖の底で、逆さにぶら下がって、本を読んで足掻いてるつもりでも、その声は誰にも届かねえ。ただ、物語の外から笑われて、それで終わりだ」
ヒトミの指が震え、ノートを強く抱きしめる。
頭の中に、湖面から突き出した二本の白い足のイメージが、鮮明に焼き付いた。
それは、彼女自身の存在そのものと、完全に重なって見えた。
「見てろよ、sukekiyo」
アヤネは最後にそう吐き捨て、グラウンドへと戻っていく。
「てめえがそのインクの海で溺れてる間に、こっちは血と汗の海で、てっぺん獲ってやるよ」
夕陽が二人の影を長く伸ばし、校庭をさらに深く、赤く染め上げていく。
その赤の中、ヒトミの指先で、ポケットの中のライターが小さな音を立てた。
カチ、と。
火はつかなかった。
だが、その乾いた音だけが、逆さに吊るされた彼女の魂が、まだこの世界に繋がっていることを示す、唯一の証だった。
(to be continued…)




