Chapter 11 『私は主人公じゃない』
その図書館は、音の墓場だった。 数分前まで空間をレイプしていた暴力的な爆音は、いまや悪夢の残滓となって壁の染みに成り果てている。
あるのは絶対的な「無」。 耳の奥で鳴り続ける金属的なキーンという耳鳴りだけが、この世界がまだ動いていることを証明する唯一のノイズだった。 机は巨人の玩具のようにへし折られ、本は撃ち落とされた鳥の死骸のように床を埋め尽くす。 カオルは糸が切れたように崩れ落ち、ユリナは壁のシミと同化するように震えている。
そして――
世界から色が、消えた。 あの鮮烈な、燃えるような「緑色」。芽衣子は、もういない。
彼女の存在が消えた世界は、色も温度も失い、ただのモノクロームの背景画に成り下がっていた。
この廃墟じみた静寂の玉座に、残されたのはヒトミひとり。
その震える手の中には、彼女が自身の存在理由としてすがりついてきたノートと、芽衣子が残していった、彼女の魂の色を宿す緑色のライターが握られていた。
カチ、と無機質な音が響く。
空気を打つだけのヤリの音が、心臓の鼓動よりも大きく、鮮明に聞こえた。
(ジョバンニは、銀河鉄道に乗った。きらめく天の川を走る、あの美しい汽車に。彼の隣には、いつもカンパネルラがいた。ザネリにいじめられた彼を庇い、一緒に星祭りの夜を歩いた、たったひとりの友達が。だからジョバンニ の旅は、決して孤独ではなかった。カンパネルラのために苹果を差し出すこと、その小さな優しさこそが、彼の物語の、たったひとつの、そして絶対的な意味になったんだ)
カチ、カチ、と虚しい音が、途切れ途切れに続く。まるで吃音のように。
(でも私は、あの銀河鉄道の列車に乗れなかった。ううん、違う。そもそも私の前には、停車場すら現れなかった。私のために敷かれた線路なんて、最初からどこにもなかったんだ。もし目の前で蒸気の匂いと共に扉が開いて、車掌が銀色の切符を差し出してくれたとしても、私はきっと、その場から一歩も動けずに、ただ首を横に振って断っていた。だって、私の隣には誰もいない。私が隣に座るべき、たったひとりの人なんて、最初から、どこにもいなかったんだから)
ぽつり、と熱い雫がノートのインクを歪ませた。懸命に書き連ねてきた言葉たちが、黒い涙のように滲んでいく。それはまるで、彼女自身の視界そのものだった。指先の震えが止まらない。ライターは空しく、まるで嘲笑うかのように、一瞬だけ光る幽霊のような火花を散らすだけだ。
(罪と罰。ラスコーリニコフは、金貸しの老婆を斧で殺した。その血を浴び、熱に浮かされ、彼は人間性の最も暗い淵を覗き込んだ。罪を犯した。その消せない事実こそが、彼を苦悩させ、ソーニャという光に出会わせ、神の前にひざまずかせる物語の“権利”を与えた。彼は罪人だからこそ、苦しみながらも、前に進むことができたんだ)
カチ。ヤスリが、滑る。
(……私は違う。このか細い腕で、誰かを殴ることすらできない。誰かを殺すなんて、想像することさえおぞましい。そんな勇気も、覚悟も、狂気さえも、私にはない。ただここで膝を抱えて震え、大切な誰かが理不尽に砕かれていくのを、声も出さずに、黙って見ていることしかできなかった。そんな空っぽの私には、きっと神様も“罰”すら与えてはくれない。有罪の判決を受けることさえできず、無罪のまま、意味もなく、ただの背景に響く雑音みたいに、誰にも知られず消えていくだけなんだ)
ヒトミは強く唇を噛む。じわりと広がる鉄の味だけが、今この瞬間の、唯一の確かな感覚だった。
(太宰は書いた。“恥の多い生涯を送ってきました”と。その一文を、私はどうしても、ただの文学として客観的に読むことができなかった。あれは彼の物語で、彼の痛みで、私の人生じゃない……そう思いたかった。そう線を引くことで、自分の心の安全を守ろうとしていた。でも、ページを閉じるたびに、あの言葉が胸の奥でこだまし続ける。まるで魂に直接押された烙印みたいに、私の心にじりじりと焼きついて、決して離れない。結局、私は最初から“主人公失格”の烙印を押された、誰かの物語の惨めな脇役を、ただ忠実になぞって歩いているだけなんじゃないか)
カチ、カチ、カチ。 ライターが酸欠の魚のように喘ぐ。火はつかない。当然だ。この指先には、世界を焼く熱がない。
(芽衣子は違った。彼女の魂は、あの髪色と同じように、鮮やかな緑色の炎となって燃えていた。怒りで、悲しみで。彼女だけが、この冷たい世界で唯一の熱源だった。その彼女の象徴である緑色のライターを、私はただの玩具としてカチカチ鳴らしている。おままごとだ。これは、私の物語じゃない)
ヒトミはゆっくりと瞼を落とす。重い断頭台の刃が落ちるように。 網膜の裏で、あの緑のツインテールが鮮やかに揺らめいて
――プツン、と消えた。
「……さらわれたのは私じゃなかった。この物語の主人公は、私じゃない」
それは悲嘆ではなく、ただの確認作業だった。 どこからか吹き込んだ隙間風が、床のページを捲る。
――ぱらり。
誰かの溜息のようにめくれたページ。そこには見えないインクで、こう書かれている気がした。
(to be continued... but not for you.)




