Chapter 10 『Jesus and Mary Chain』
図書館は、暴力の後の奇妙な静寂に支配されていた。
本棚に叩きつけられたカオルは汚れた雑巾のように動かず、床には彼女が流した血と、無残に破られた本のページが醜く混じり合っている。
芽衣子は、荒く肩で息をしながらも、その身に纏う緑の炎はまるで勝利を誇るかのように、音もなく揺れていた。
「……さて、と。一匹目、清掃完了。……しかし、なんだこの空気は。この図書館、冷房は壊れてんのか」
彼女は、まるで取るに足らないゴミでも払うかのように手を振り、凍りついたままのユリナに視線を向けた。その目は、もはやユリナを人間として見てはいなかった。ただの、次に排除すべき“エラーコード”として捉えている。
周囲の生徒たちが、恐怖と興奮の入り混じった声で囁き合う。
「やべぇ……カオルが、一撃で……」
「信じられない…あれが、転校生の実力…? まるで怪物じゃないか…」
その中で、ユリナだけが眼鏡のブリッジを押し上げた。その指先は僅かに震えていたが、彼女の知性は恐怖を瞬時に分析し、それを隠すための冷笑という仮面を完璧に作り上げた。
「ふん…単細胞を一人排除したくらいで、調子に乗らないことですね。単純な暴力は、いつだって、より大きな暴力によって駆逐される。それがこの世界の、揺るぎない法則ですから」
芽衣子は、心底面倒臭そうに顔をしかめた。
「まだやる気か、インテリ・モブ。お前のその理屈っぽい喋り方、聞いてるだけで頭痛がしてくる」
「ええ、もちろん。頭を使う人間は、いつだって最後まで生き残るものですから」
ユリナは、床に落ちた『罪と罰』のページを、見せつけるように足元で踏みつけ、ゆっくりと芽衣子に近づく。
「拳で殴る? 原始的すぎて笑えます。私は違う。あなたの“存在”そのものをハッキングし、あなたの過去を暴き、あなたのトラウマを刺激し、言葉で抉り、二度とその精神が立ち直れないように汚染する。これは脅しではありませんよ、転校生。あなたを社会的に“分解”するんです」
「……うるせえな。根暗の長広舌は聞き飽きた」
芽衣子の拳に、再び緑の炎が激しく凝縮される。床板に、彼女の溢れ出す怒りによってビリビリと亀裂が走った。
「――Fin. R.IP.(終わりだ、安らかに眠れ)」
ユリナの顔面に、緑の拳が彗星のように迫った――その瞬間。
――ギュイイイイイイイイインッ!!
それは、ただのノイズではなかった。
Bang On the Strings ― Grotesque Install
学園のシステムをジャックした、あの音だった。
空間そのものを引き裂くような、凶悪で、それでいてどこか神聖なギターのハウリング。
芽衣子の拳が、ユリナの鼻先数センチでピタリと止まる。彼女は忌々しげに舌打ちし、音の発生源である天井のスピーカーを睨みつけた。
「……チッ、あの時の亡霊か」
ヒトミにとっても、その音は忘れられるはずのないものだった。脳内で、SIONの歌声がリフレインする。
――Burn the silence, set the dark alight.
生徒たちがざわめき、恐怖と興奮でその名を口にする。
「この音……まさか…!」
「“SION”……本物…!?」
夕闇を背に、割れた窓枠の中に、その女は立っていた。
黒いジャケットに、十字架のピアス。そして、まるで戦友のように抱えられた、傷だらけのエレキギター。
伝説のOG、SIONが、皮肉げな笑みを浮かべて、眼下の惨状を見下ろしていた。
「ガキが……勝ち誇ってんじゃねえよ。ヒステリックになりすぎだ」
その声に、芽衣子は戦闘態勢を解かないまま、SIONを睨みつける。
「……アンタか、さっきの放送の主だろ。何の用だ」
「この学園の、古くてしつこい亡霊だよ。それ以上は、今はまだ教えてやれない」
SIONは、まるで猫のように軽やかに、窓枠から図書館の床へと飛び降りた。ガラスの破片が、彼女の足元で美しい音を立てる。
「ただ一つ言えるのは――お前、ひどく“チューニング”がズレてるよ」
芽衣子は、口の端に滲んだ血を舐めとり、獰猛に笑った。
「……知るかよ、そんなこと。伝説気取りの“ヒステリックグラマー”野郎が」
図書館に、一瞬、凍てつくような沈黙が走る。
それは、強者だけが放つことができる、殺意と敬意が入り混じった濃密な緊張感だった。
SIONは、ふっと息を吐くように笑った。
「その口の悪さ、嫌いじゃねえよ、芽衣子。……だがな、私はヒステリックは否定しないが、グラマーじゃねえ。そして、“気取り”でもないってことを、今から、この弦がお前に教えてやる」
SIONが、ただピックで、ギターの六弦に軽く触れた。
それだけだった。
――ドゴォンッ!!
指向性の音響兵器。
そうとしか思えないギターの爆音が、不可視の壁となって芽衣子の身体だけを正確に捉え、吹き飛ばした。
彼女を包んでいた緑の炎が、まるで水をかけられたかのように、一瞬で掻き消される。
芽衣子の身体は無防備なまま床に叩きつけられ、受け身も取れずに激しく咳き込んだ。
「……ぐっ……ぁ……!」
SIONはゆっくりと歩み寄り、気を失いかけた芽衣子を、まるで壊れ物でも運ぶかのように、しかし軽々と横抱きに抱え上げた。
「まだ青いな、反町芽衣子。だが…お前をここで潰すわけにはいかないんでね」
そして、SIONはヒトミの方をちらりと見た。その目は、全てを見透かすように、優しくも厳しかった。
「そこのお前。さっきの火、お前が灯したんだろ。……その火、決して消すなよ」
壁際で震えていたユリナは、命拾いした安堵と、理解不能な存在への恐怖で、ただ息を荒げることしかできない。
ヒトミが、絞り出すように叫んだ。
「待って! 反町さんッ!!」
SIONに抱えられた芽衣子の緑の髪が、まるで磔刑から解き放たれた聖者のように、夕暮れの光の中でたなびいた。
だが、ヒトミの声は虚空に吸い込まれ、返ってくることはない。
割れた窓の向こうに消えていく二人のシルエット。まるで、聖母が傷ついた救世主を抱きかかえて昇天していくかのような、冒涜的で神聖な光景。その構図が、あまりにも非現実的で、恐ろしく、そしてひどく美しく見えた。
『……き、きれい…』
残されたのは、為すすべもなく、ただポケットのライターを強く握りしめるヒトミの手と、床に飛び散った血痕、そして、消え残る緑の炎の匂いだけだった。
(to be continued…)




