Chapter 09 『LIGHT MY FIRE』
SIONの歌の残響が、まだ図書館の空気をビリビリと震わせていた。
「……次」
その、芽衣子からのたった一言の宣告。
ユリナの喉がひゅっと鳴った。だが、彼女の知性は恐怖を瞬時に分析し、最も合理的な結論を導き出す。
彼女は恐怖を隠すために眼鏡のブリッジを押し上げ、サディスティックな笑みさえ浮かべた。
「へえ…なかなか面白い“物理エンジン”ですね、転校生さん。ですが、アルゴリズムは単純。単体での処理が無理なら、複数で並列処理するまでです」
瓦礫の中から、獣のような呻き声が聞こえた。
カオルが、ゆっくりと立ち上がる。頬は裂け、唇から流れる血を舌で舐めとりながら、その目は純粋な怨念と痛みによる狂気で赤く濁っていた。
「調子に……乗ってんじゃねえぞ、クソ転校生がァ……!」
彼女はもはや、ただの卑劣な小物ではなかった。痛みによってリミッターが外れた、手負いの狂犬だ。
「さあ、始めましょうか。二対一でのデバッグ作業を」
ユリナの合図と共に、二人は左右から、同時に芽衣子に襲いかかった。
カオルは手近にあった椅子を武器に、脳天めがけて振り下ろす。ユリナは分厚い美術全集の硬い角を、芽衣子の膝関節を破壊するためだけに、的確に突き出した。
ガンッ!
芽衣子はユリナの攻撃を紙一重でかわすが、背中にカオルの椅子が叩きつけられ、火花のように緑の炎が散る。
ドンッ!
体勢を崩したところに、ユリナの“凶器”が腕を掠め、骨に響く重い衝撃が走った。
「っ……!」
初めて、芽衣子の身体がよろめき、膝がわずかに折れた。
その瞬間、今まで沈黙していた周囲の生徒たちの間に、獰猛なざわめきが広がった。獣たちが、強者の負傷を見て興奮の声を上げる。
「二人がかりならいけるぞ!」
「やっちまえ! 竜胆の洗礼を、その身体に刻んでやれ!」
その下劣な声援に煽られるように、二人の攻撃は苛烈さを増す。
カオルの拳、ユリナの蹴り。
連携の取れていない、ただの暴力の連打。だが、その物量は確実に芽衣子を押し込み、ついに彼女の背中が巨大な本棚に叩きつけられた。
バサバサと、無数の本が彼女の頭上に降り注ぐ。歴史の本、哲学の本、物語の本。人類の叡智が、今はただの紙の礫となって、一人の少女を打ちのめしていく。
埃の匂い。血の匂い。
そして、ヒトミの心臓を焦がす、絶望の匂い。
(いや…いやだ…!せっかく、あの歌を歌って、何かが変わると思ったのに…!結局、何も変わらない…!私のせいで、反町さんが…!)
――そのときだった。
「――燃えろ」
か細く、しかし、確かな意志を宿した声が、静寂を裂いた。
カチッ。カチッ。カチッ。
ヒトミだった。
涙でぐしゃぐしゃの顔のまま立ち上がり、ポケットから取り出した緑の100円ライターを、狂ったように何度も何度も鳴らしていた。
だが、火はつかない。ヤスリが空回りする、虚しい音だけが響く。
SIONの歌が、脳内でリフレインする。
――Burn the silence, set the dark alight.
(沈黙を焼き払い、闇を燃やし尽くせ)
(私の沈黙を、今、ここで焼き払わなきゃ…!)
「燃えろ…! 私の臆病を、私の絶望を、全部…燃えてよ…ッ!」
それは祈りであり、呪いであり、生まれて初めての、ヒトミ自身の“魂の歌”だった。
ユリナがその姿に気づき、心底から侮蔑したように嘲笑う。
「無駄ですよ。そんな安物のライターで、何ができると――」
その瞬間。
ゴウッ!!!
ライターから放たれたのは、小さな火種ではなかった。
ヒトミの怒りと絶望と、そしてほんの少しの希望を燃料にしたかのように、緑色の炎が巨大な柱のようになって、図書館の天井まで燃え上がったのだ。
図書館中の空気が一変した。
全員が、そのありえない光景に
――ヒトミという“ノイズ”が生み出した、緑の太陽に
――目を奪われた。
その、永遠にも思えるコンマ数秒の隙。
本棚にもたれかかっていた芽衣子は、見逃さなかった。
彼女は、ヒトミが灯した炎を見て、初めて、この竜胆学園に来て初めて、獰猛に、そして心の底から美しく笑った。
緑の炎が彼女自身の髪から迸り、その拳を、その魂を照らし出す。
「私の火(My fire)? ……いいや」
芽衣子は、炎の柱の向こうで呆然と立ち尽くすヒトミを見つめて言った。
「――私達の火(Our fire)だ」
ドガァッ!
芽衣子の姿が消えたかと思うと、次の瞬間にはカオルの顎が下から突き上げるような拳に捉えられていた。顎を砕くごとき衝撃。カオルの体は重力を無視して宙に舞うと、背後の本棚へと弾丸のように叩きつけられた。 本の雪崩と共に崩れ落ち、今度こそ、その獣の喉は沈黙した。
ユリナの眼鏡に、巨大な緑の炎が反射して揺れる。
「エラー…エラー…!? 数値が…ありえない…! 私の計算に、こんな変数は…こんな熱量は定義されていない…ッ!!」
彼女の指が痙攣し、分厚い眼鏡が鼻梁から滑り落ちる。
芽衣子は、静かに一歩踏み出す。
緑の炎が、恐怖に歪むユリナの顔を、まるで最後の審判のように照らし出した。
「お前の分析は終わりだ、ユリナ」
芽衣子は、絶対零度の声で告げた。
「――次は、お前の分解だ」
(to be continued…)




