PROLOGUE『銀の龍の背に乗って』
気づいたら、またこれ
──落ちている。
ずっと前から、ずっと同じ場所へ。
誰にも気づかれず、誰の祈りにも触れないまま。
堕ちて、落ちて、墜ちて──。
どこまで続く?正体のわからない“誰かの視線”まで鮮明に写す、この堕落のフル解像度のパノラマ。
落ちていく途中で、耳鳴りだけがずっとついてくる。
空から零れ落ちたのか。
大地から追い出されたのか。
それとも、最初から居場所なんてなかったのか。
言葉をひとつ手放すたびに、
記憶をひとつ置き去りにするたびに、
私は落ちる深度を増していく。
暗さに慣れれば、闇は少しだけやわらかい。
孤独に馴染めば、孤独は少しだけやさしい。
けれど、底はまだ見えない。太陽は昇らないし、月は益々輝きを増す。
無限に堕ちていく線路のように、
ただ音もなく加速するだけ。
『そして、今日も過呼吸が薔薇の花束を持ってくる』
ならば──。
それが生きる限り続くというのなら──。
じゃあ……いっそ、この “落下”ってやつを “乗りこなして” みようか。
地獄の底まで、誰より速く、誰より優雅に。
人が指さして笑うなら、その指ごとへし折るくらいの笑顔で堕ちてやる。
落ちる側が、見上げる連中を嘲笑ってたら──最高に愉快じゃない?
笑える地獄ならきっと楽しいはずだ。
『銀の龍の背に乗って』
ヒトミは薄暗いカラオケボックスの狭い部屋に、一人で腰を下ろしていた。
床は誰かがこぼしたドリンクで微かに粘つき、消毒液と安い芳香剤が混じった空気が肺を満たす。業務用の冷蔵庫が低く唸る音だけが、やけに耳についた。
壁に貼られた色あせたポスター、安っぽいソファの革の軋み。
画面に映るのは、どこか場違いなほど壮大な空の映像。
『水槽の魚に空は見えない。…ま、見えたところで、単にここが窮屈な箱だって絶望するだけか』
マイクを握る彼女の指は少し震えている。
(……大丈夫。この曲は、私だけの聖域。誰にも汚させない)
「よし……いけるかな」
独り言のようにつぶやいて、何度も聴き慣れた、お守りのような、呪いのようなイントロに身を委ねた。
イントロのピアノが流れ、ヒトミは小さく息を吸った。
マイクを通った声が、密閉された空間を揺らす。
切実さと、どこか諦めを孕んだようなその歌声は、
機械的なスピーカー越しに響きながらも、なぜか生々しかった。
“銀の龍の背に乗って 届けに行こう――”
彼女は目を閉じる。
白い雪原を駆ける龍の幻影が、頭の奥に浮かぶ。
その背に乗る自分を想像した瞬間、胸の奥が熱くなる。
曲の盛り上がりに合わせて、ヒトミの声も力強さを増していく。
だが同時に、何かに必死で抗っているようにも聞こえた。
――孤独。
――諦め。
――誰にも見せられない叫び。
歌いながら、彼女は自分の中の“何か”を押し出している。
まるで、この小さな部屋からどこか遠くへ飛び立とうとするかのように。
曲が終盤に差しかかり、ヒトミは目を開く。
画面に映る龍雲の映像と、自分の声が重なった瞬間、
ほんの一瞬、現実の天井に“何か”がうごめいた気がした。
それは、影とも違う、空間そのものが僅かに歪んだような黒い揺らめき。まるで、歌声に呼び寄せられた巨大な何かの鱗が、一瞬だけこの部屋の次元に触れた残滓のようだった。
「……また始まった。しつこいな。……でも、記録だけはしとくかね、 また“アレ”だ。まあいい、今日の座標はここ、と」
(スマホに何かを打ち込みながら)
……それはまだ、誰も気づかない物語の始まりだった。
いや、気づいたのはたった一人だった……




