私は山芋になれなかった
カーテン越しに陽が差し込み、朝の空気が部屋をやさしく満たした。
片目を開けアラームを止めて、眠気に抗いながらベッドを抜け出した。
そして顔を洗い、歯を磨いた。
眠気覚ましにテレビをつけると、青白い光が部屋に広がり、アナウンサーの弾んだ声が響いた。
ニュースで特集されていたのは、
空前の「山芋ブーム」だった。
「これが最先端っすよ!」
女子高生が山芋のストラップを振りながら、カメラに無邪気な笑顔を向けている。
「山芋は体にいいですから、毎日食卓に出していますね」
主婦が元気よく話す。その言葉が、やけに軽く耳に残った。
世でまたそんな妙な流行が始まったのかと鼻で笑った。
テレビを見つつ、仕事へ向かう憂鬱を抱えながら朝ご飯を頬張った。
そして重い腰を上げ会社へ向かった。
「おはようございます」
「はようます」
私の挨拶に返るのは、いつも通りのか細い声だけ。
まともに挨拶を返せない人たちに、正直興味はない。
「おはよう〜。ねぇ、流行ってる山芋知ってる?」
「おはようございます、あぁ、朝のニュースで見ましたよ。」
「おっ、じゃあほら見て!これとろろ、昼ごはん用に持ってきたの。」
「おお、いいですね。」
先輩の言葉に私は半笑いで適当な返事をした。
流行りに潔く乗れるのは羨ましくもあり、同時にあんな妙な流行に巻き込まれずに済んだことに、どこか安堵していた。
数日後のいつも通りの朝、テレビを付けると、
ニュースでは山芋不足が話題になっていた。
しょうもないことで品薄になるものだと、同情しながら画面を眺めていた。
会社に向かおうと外に出ると、風が不気味にザワザワと鳴っている気がした。
そして出社した私は息を呑んだ。
社員全員が山芋を手にしていた。
誰一人として例外がない。
それは街に出ても同じだった。
男子女子高生も、くたびれたサラリーマンも、主婦も、子どもも。
視界に入るすべての人が、何かを抱えるように山芋を握っている。
私は立ち尽くし、胸の奥がざわついた。
こわい。
なんだか世界の輪郭が、じわじわと私を外へ押し出してくるようだった。
指先が冷え、足の裏が地面を拒む。
恐怖に飲まれ私は慌てて自宅へ帰った。玄関で靴をぬいだそのとき、スマホが震えた。
それは友人からの一通のメッセージだった。
ーお前、どうせ山芋ブームに乗れてないんだろ?
冷静そうな連絡に泣きそうになった。
ーそうだよ。どうしたの?
ーこれ。見てみろよ。これで山芋ブームに乗れるよ。
それはゾッとする連絡だった。
携帯を落としそうになったその時、着信が鳴った。
「みたか?」
「みてない。」
「そうか。内容としたら、山芋美味しいよ。山芋を摂取するとこういう健康なことが起きるよ、というものだ。」
「こわいよ。取り憑かれたみたいだ。何がそんなにいいの?」
「ええ。皆良いって言ってるから良い物だろ。」
その声は友人のものなのに、どこか遠く、別の何かのように聞こえた。
「おかしいよ。人間は違うからこそいいんだ。」
プツンと切れた音がした。
玄関の静けさに怯え、私は慌ててリビングへ行き、テレビをつけた。
だが部屋に残ったのは、延々と流れる山芋特集の青白い光と音だけだった。
窓の外では、人々が山芋を抱え、笑顔を浮かべて歩いていた。
でもその中に入っていけなかった。
受け入れられないのは自分なのに、孤独が体の奥まで染み込む感覚が広がっていく。
胸の奥の空洞が、心を圧迫する。
温もりも、誰かの気配も、ここにはない。
耳に届くのは、群れのざわめきだけ。
そのざわめきが、まるで鎖のように胸を締め付けた。
気づくと、群れの視線が一点に集中しているような錯覚に襲われた。
誰も私に触れていないのに、私の存在を見透かされ、胸の奥を覗き込まれているような気がした。
心臓が跳ね、背中に冷たい汗が流れた。
目の奥まで視線で満たされ、虚無と孤独に押し潰されながら、私はただ息をしていた。
そのとき、背後でかすかに動く気配を感じた。
振り返ると、誰もいなかった。