最終話:エミリー・ランベーヌは幸せになる
「ふあぁぁぁ……。あ、アメリ、おはよう~。早いわね」
「お姉さま、先に行ってまいります」
目が覚めきらずによたよたと歩いていたら、妹は登校の支度をばっちり済ませていた。
はは~ん。
さては、またアレクシス様を偵察しに行く気ね。草むらに潜んで。
「アメリ。前にも言ったでしょ。シノビ行為はいけないわ」
「えへへ」
「……ん?」
よく見ると、今日の妹は擬態用の緑色の傘を持っていなかった。
もうアメリったら。
武器や防具は装備しなければ意味がありませんことよ。
「実はニンジャは卒業しましたの。覗くだけはもうやめて、今はアレクシス様と一緒にトレーニングをしておりますの」
「は?」
山が躍動するかのように激しくスクワットをするアレクシスの横で、小さな妹が一緒に上下運動しているイメージが浮かぶ――。
わたしは こんらん した。
「ほら」
唖然とする私に向かってアメリがお腹を突き出してくる。そっと触る。
「ん……ん!?」
そこには腹筋の確かな手触り。
愕然とした。
「お姉さまも運動したくなったら、お声がけくださいね!」
アメリは元気に家を出ていった。
「……」
そっと自分のお腹を触る。
ふにふにだ。
ちょっとお腹に力を込めてみる。
ぐぅう~。
胃が「今日の朝食はなんでしょうね? 楽しみですね! ご主人様!」と言わんばかりに聞き慣れた音を立てた。
「私も筋トレ、参加しようかな……」
「ふーふふ、ふっふっふー♪」
「ねえメグミ」
「はい、何でしょう? お嬢様」
今日も謎ソングを口ずさみながら髪を整えてくれているメグミに、鏡越しに声をかけた。
「殿方って、細身な体型の方が魅力的に感じるのかしら?」
「う~ん。どうでしょうねぇ。たぶん千差万別かと……。男性ごとに好みは違うと思いますよ」
……フェル様って何派なんだろう?
スレンダー派なのか。
ふにふに派なのか。
もしくは、ぽよんぽよん派なのか。
それが問題だ。
場合によっては派閥変更も検討しなくてはならぬ。
「まあ、フェルナン様はお嬢様にすっかりメロメロだから、今のままで大丈夫ですよ」
「そ、そう?」
「無理に痩せようとして、ヤバい外国産のハーブとか見つけてこないでくださいね」
「……」
メグミとは、いつもこんなしょうもない会話をしているなぁ。
鼻歌を再び口ずさみ始めた彼女をじっと見つめた。
子どもの頃からずっと一緒にいてくれて、色々なことを教えてくれて、どんなときだって助けてくれる人――。
「ねえメグミ」
「はい?」
「……いつもありがとう」
「え!? な、なんです、急に!?」
「ううん。なんでもない!」
学院の帰りに、メグミの好きなお菓子を探してこようっと。
「あの、お嬢様。実はご相談が……」
家を出ようとしたら、メグミがおずおずと口を開いた。
「どうしたの?」
「今度、休暇の申請をさせていただこうかと」
「あら、めずらしいじゃない。いいわよ。どこかに行く予定でもあるの?」
「えっと、その……。海に行くことになりまして……」
メグミは顔を真っ赤にしていた。
はは~ん。
アランめ。
やるじゃん。
「――エミリー先輩」
学院を歩いていたら、急に声をかけられた。
「え? あら」
セルジュが女子たちに囲まれながらこちらに手を振っていた。
「みんな。悪いけど俺はエミリー先輩と話があるから。またね」
「えー!」
「そんなぁ!」
女子たちは一斉に不満の声を上げた。相変わらずモテモテだ。セルジュはいま二年生だけど、シャルル会長たちが卒業したら、学院の女性人気は彼一強になりそうな気がした。
「ほらほら。エミリー先輩だってお忙しいんだからさ、ね」
セルジュは女の子たちを追い散らした。前もこんな事あったような。しかし――。
「ランベーヌ先輩、失礼いたします」
「先輩、ごきげんよう」
「え? あ、はい……」
前は「お前誰だよ?」と言わんばかりにえらく睨まれたのだけど、彼女たちは私に丁寧にお礼をして去っていった。
「エミリー先輩はいま大丈夫?」
「うん」
「最近忙しいですか? もう落ち着きました?」
「そうね。落ち着いたわ。生徒会の引き継ぎ作業もほとんど終わったから」
「生徒会、お疲れ様でした」
セルジュは屈託のない笑みを浮かべた。輝くように美しいその顔立ちは、以前にも増してローラに似ていると思った。
「……ねえ、セルジュ」
「何です?」
「どうしてグラヴィエ侯爵家の爵位を返上したの?」
ずっと気になっていたことを口にした。
「……俺の家じゃなかったからです」
「……」
「そんなもの、いらない。まあ、俺のもともとの家はとっくの昔に無くなってますけどね」
「……」
ローラたちの過去を知っている私は、返す言葉が出てこなかった。けれど、セルジュの表情に暗さはなかった。
「侯爵家の肩書なんてなくても、俺は稼いでみせますよ。自由なままでね。そしていつか、自分の家を作るんだ。……目標ができるっていいもんです」
「そう……」
「本当は、この学院だって辞めるつもりだった。でも、卒業までいることにしました。人脈だってできるし。こう見えて、勉強は結構真面目なんですよ」
姉のローラに似て成績優秀らしいセルジュなら、貴族の肩書がなくてもきっと逞しく生きていけるだろう。
そう思った。
「あ、そうだ」
「うん?」
「今後の勉強のために、エミリー先輩の家で働かせてくれません? ランベーヌ家といえば、輸入事業でとても有名じゃないですか?」
「ええっ!?」
彼の傾国の美貌を前に、つい躊躇ってしまう。わが家の従業員にはご婦人方も多い。そんな職場に彼を放り込んだら、その……何かしらのトラブルが起きるような気がしてならなかった。
ええと……。
こういうタイプのことを、メグミはなんて言っていたっけ……。
そうだ。
さーくるくらっしゃーだ。
「う、う~ん。お父様に相談できなくはないと思うけど、どうかなぁ……」
「ふふっ! 冗談ですよ。フェルナン先輩に殺されちゃうかもしれないしね」
「……」
密かに安堵しながらセルジュを見ると、彼はいつの間にか真面目な顔になっていた。
「エミリー先輩。……あの時は、ありがとう」
「あ、うん……。私なんて何も。シャルル会長がご寛容だから」
セルジュが言っているのは、夜会の前に彼がローラと口論した時のことだ。なおカトリーヌ様とは違い、彼はまったくの不問とされた。
「いやいや……。あの時のシャルル会長は、あの場で本気で俺を手討ちにしかねない殺気に満ち溢れてたよ」
「あはは……」
「先輩――」
セルジュは頭を深く下げた。
「俺の大切な姉さんのこと……。これからも頼みます」
「……もちろんよ」
私はうなずいた。
――とうとう三年一学期の最終日が来てしまった。
「フェル様、ご卒業おめでとうございます」
「ありがとう、エミリー」
私たちは、旧校舎のバルコニーの手すりに手をかけ、佇んでいた。
「王宮にはいつからご出仕される予定ですか?」
「再来月だね」
「なら、来月はお休みできそうですね」
彼はあの夜会の後から今日まで休む間もなく動いていたから、少しホッとした。
「休めはするけど……。もっと大事な用事がある」
フェル様は何か言いたそうだ。
何だろう?
そう思ったら、バルコニーに柔らかな風が吹いた。
髪が頬にかかり、くすぐったくて指先でかき上げた。
「あ、エミリー、気をつけて!」
「え?」
「君は何もない所でもたまに転ぶし……。ここからまた落ちちゃったら、大変じゃないか」
「もう、フェル様ったら!」
去年ローラを助けようとして、ここから落ちたことを思い出す。
あの時はもう死んじゃうかと思った。
そしたらフェル様が助けてくれて……。
それから生徒会に入ることになって……。
本当にたくさんの出来事があった。これまでの思い出が、頭の中を駆け巡っていく。
そして私は今――。
大好きな人と笑い合っていた。
「……ねえ、エミリー」
「はい」
透き通るような美しい碧眼が私を見つめていた。
艶やかな黒髪が風に揺れていた。
「――君が僕を変えてくれた」
「フェル様……」
彼が私の髪にそっと触れる。恥ずかしくて俯いてしまいそうになるけど、何とか言葉を続ける。
「……私からもよろしいですか?」
「うん」
「あなたが私を変えてくれました」
「……」
「この学院でのこと……一生忘れません」
「僕だって、もう、忘れないよ……。でもね、エミリー。僕たちの人生はここを出てからもずっと続く。だから――」
青い瞳が湖の水面のように揺れる。
「これからもずっと、僕の隣にいてほしい」
彼の両手が私の頬を包む。
「来月、家に来てくれないだろうか? 僕の両親が、君に会いたがっている」
「……!」
胸がいっぱいになり、今度こそ言葉に詰まりそうになる。それでも声を絞り出す。
「はい……!」
「ありがとう」
蕩けるような彼の笑顔に見とれながら、ふと気づく。
「あっ!?」
「どうしたの?」
「実は、フェル様のことをまだ両親に話してなくて……」
や、やってしまった……。
ずっとフェル様の御両親に会うことばかり気にしていて、自分の家のことをうっかり忘れてしまっていた。
「エミリーのご両親に、僕が怒られちゃうかな?」
「いや、そうではなくて……」
筆頭貴族のヴァレット公爵家の嫡男にして、次期宰相候補のフェル様がわが家に来たら……。
両親、というかお父様がその重圧に耐えられる気がしない。きっと大変なことになるだろう。その約束された未来の混沌を無意識のうちに恐れ、彼のことを両親に言い出せなかったのかもしれない。
「たぶん……泡を吹くか、ぶっ倒れるか、『夢だー!』とか叫んで現実逃避しながら部屋中走り回るか、はたまたそれらの複合技が発動してしまうんじゃないかと……」
「なんと。それはどれが起きても大変だ……。うむ、君の家の攻略方法を考えねばな……」
エミリー・ランベーヌという一人の人間を完全に攻略してしまったその人は、何やら考え込んだ後に長い指を一本、上に立てた。
「一つ、名案を思いついた」
「名案?」
「わが家のかかりつけの医者も一緒に連れて行く。父が最近健康で元気いっぱいだから、すぐに連れていける」
「あら! なら私は、ベッドや水を用意して万全の体制にしておきますわ!」
「……くっ!」
「ふっ!」
どこの貴族が、婚約の話をするのに医者を同行させるというのだろう? おかしくて吹き出してしまった。
「そうやって君はすぐ、僕の腹筋を狙ってくる」
「……!」
彼の整いすぎた顔に浮かぶ、柔らかで美しい笑み――。
それは、私が求めてやまないもの。
自分が本当に求めていることがわかるだけでも。
奇跡みたいなことなのに。
形になって、目の前に本当にあるなんて。
とんでもなく幸せな気持ちに胸を震わせながら、言葉を紡ぐ。
「フェル様」
「なんだい?」
「私がいたら、これからもあなたは――笑ってくれますか?」
「……」
笑っているような、泣いているような――。
彼の瞳にある湖に、今にも溢れそうな煌めく光が差す。
その光の粒が零れたのかどうか――。
わからなかった。
なぜなら、私の視界はふさがれてしまったから。
「フェル様……」
きつい抱擁を全身で感じながら、彼の背に腕を回す。
「――愛してる」
やわらかな感触が、そっと唇をふさぐ。
風に揺れる大樹が奏でる優しい音。
それだけが、私の耳に静かに鳴り響いていた。
最後までお読みいただき、本当にどうもありがとうございました!
芯が強いヒロインが最後に幸せになるお話が書きたいと思って、この連載を始めました。もし楽しんでいただけたら、本当に嬉しいです! 下の☆やブックマークをいただけましたら、とても嬉しいです!
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