32. 攻略対象フェルナン・ヴァレット7
僕とシャルルは、険しい山道を進んでいた。
「もう少しで山頂です。ご辛抱を」
「ああ、大丈夫だよ」
先導する魔術師が振り返って声をかけ、シャルルが答えた。
――まもなく夕暮れを迎える。
隣国への視察の途中、僕とシャルルは国境沿いの山で足を止め、今はその山を登っていた。実は今回の視察は表向きの理由にすぎず、真の目的は星の観察だった。もっとも、天文学の勉強をするために来たわけではない。
先日シャルルから告げられた、王国の聖乙女にまつわる「瑞兆」の訪れ。
それは、国家魔術師たちが在籍する特殊機関によって観測され、国王陛下へ極秘裏に報告されたものだった。
伝説によると、その兆し――普段は見ることのできない星とされる――と共に、「聖乙女」と呼ばれる女性がこの世界に顕現するらしい。
国王陛下は、国の未来をも左右する兆しを確認するため、王太子シャルルを僕とともに、星が最もはっきりと見えるこの地へと向かわせたのだ――。
「こちらでしばらくお待ちください」
静謐な空気に包まれた山頂で、しばし佇んだ。
「――フェル。瑞兆はな、夕暮れから夜にかかる、わずかな時間にのみ出るらしい。話が本当なら、ここではっきりと見られるはずだ」
「ああ」
「それにしてもいい場所だな……。アレクのやつも、連れてきてやりたかったな」
優しいシャルルは残念そうに言った。
僕たちの眼下には雄大な山々の風景が広がり――王都とは異なる清浄な空気は、体の隅々に染み渡っていくようだった。
「……そうだな。アレクはいつも鍛錬し過ぎだ。たまには休むべきだ」
「だがな。こんなに良い場所だと、あのアレクのことだ。『空気が美味いと言っておるのだ! 私の筋肉が!』とか言い出して、この場で筋トレをし始めてしまうかもしれんぞ」
「ふっ」
シャルルによるアレクシスの口真似に、軽く吹き出してしまった。けれど、僕たち全員でヴェルナーサ学院を留守にするわけにはいかなかった。
我々には生徒会がある。
それに僕には使命も。
……使命?
使命とは、何だ……?
強い違和感が脳をよぎった。その感覚に、今の心地良い気持ちが汚されたような気がした。
「フェルは息抜きできたか?」
「いい気分転換になったよ」
「……お前は最近、元気が無いように見えるぞ」
「……」
元気が無い、か。
今朝も目覚めと共に押し寄せた虚無の感覚――シャルルにそれを悟られているような気がした。
「ところで……。シャルルは伝説を信じているのか?」
「さあな。大昔のおとぎ話を急に持ち出されても、信じるほうが難しい」
「本当だとしたら、聖乙女とは一体誰なのだろう?」
瑞兆と共に現れるという「聖乙女」。その存在は、神に祝福されたような力を持ち、国に幸運と癒しをもたらすという。
「ふさわしい女性が本当にいるのなら、国を挙げて保護したいと父は考えていた。そういえば、父はグラヴィエ嬢の名をこぼしていたな」
「……」
――カトリーヌ・グラヴィエ侯爵令嬢。
ヴェルナーサ学院で「学院の聖純姫」と称えられる彼女の名声は、王宮にも届くようになり久しかった。
「聖乙女が現れるならそれはグラヴィエ嬢かもしれない、父はそう思っている気がしたよ」
「……」
うまく説明のつかない、もやもやした気持ちに黙り込んだ。
「ん? フェル。もしかしてお前、カトリーヌのことが嫌いなのか?」
「……」
確かに彼女は有名だし、端から見ている限り正しい振る舞いをしているように見えた。
自信に溢れ、信奉者に囲まれた学院の華やかなシンボル。
しかし……。
「別に嫌いではないよ。ただ、胡散臭いと思っているだけだ」
「はっはっは! こら!」
答えが予想外だったのか、シャルルは爆笑しながら僕を咎め始めた。
「そもそもだ。カトリーヌがお前の婚約者になる話が出てもおかしくないんだぞ、家格的にな。いいかね、フェルナン君。筆頭公爵家にして次期宰相たる立場を踏まえた発言をしたまえ」
お前だってさんざん笑ってたじゃないか……。
でも、シャルルもカトリーヌに対して僕と同じ印象を抱いているのかも知れない。なんとなくそう思った。
そういえば。
婚約の話から――去年のベアトリスとの騒動のことをふと思い出した。
だが、あれはもう流れた過去の話だ。彼女と添い遂げる気は最初から僕には無かった。
なぜなら、もう心に決めた人がいたから。
そう、心に決めた――。
決めた……。
それは、誰だった?
僕にとってかけがえのない、特別な人がいたはずだ。
しかし……どうしても思い出せなかった。
頭に靄がかかって迷路に迷い込むような感覚に、思わず頭を振りたくなってしまう。気を紛らわすため、シャルルに話しかけた。
「シャルル、こうとも言えるぞ。もし国王陛下がカトリーヌのことを聖乙女だとお認めになったら、そのまま彼女が王太子妃になるかもしれない」
グラヴィエ家は名門侯爵家だ。そしてカトリーヌが聖乙女に認定されたなら、彼女が次期王妃に選ばれても、まったく遜色はないだろう。
「シャルルには相手もいないしな」
「……」
彼から返事がない。ふと見ると、なぜかとてもつらそうな顔で頭を振っていた。
「……どうした? シャルル?」
「いや……。すまない」
悲しげに言ったシャルルは、その理由を答えなかった。
僕たちは夕暮れの空を見つめた。
「それにしても、僕たちがいない間に、学院で貴族と平民で諍いごとがまた起きてないといいな」
「……」
シャルルは再び口を閉ざした。話題が不適切だったと反省してしまう。なぜなら、彼の顔には今度は物憂げな色が浮かんでいたから。
「……いま起きていなくても、いずれ起きることさ。変わりゆく人たちと……変わらない一部の人たち……」
シャルルの表情が、憂いから強い意思を秘めたものへと変わっていく。
「その間で起こる歪からの争いは、決して逃れられない。だがな。いずれ私が何とかする」
「シャルル……」
僕は思った――彼の顔は、生徒会長というより、国を背負って立つ王のようだと。
「私の在位の間に、両者の争いの落とし所を必ず見つける。簡単なことじゃない。でも、自分がいつか死ぬまでに、やりきってみせる」
「……シャルル。お前、凄いな」
「ふっ。王家は、貴族と平民の両者に支持されて成り立っている存在だからな。まあ、一人の王族としての打算的な考え方さ」
「君がしようとしていることは、正しいと思う。安心してくれ。僕が陰ながら君を下から支えるから」
――僕とシャルルは幼馴染で今は学院の同級生だ。
しかし、僕が王宮に出仕すれば彼とは正式に君臣の間柄となる。「友」でいられるのは、あと僅かな間だけなのだ。
そのことにさみしさを感じたとき、彼は照れくさそうに言った。
「お前が支えてくれたら王国も盤石だな。だが、お前は昔から真面目過ぎる。若死にされても困るぞ。だから、私が王になった後も、できれば今まで通りでいてほしいものだな」
「……」
「お前が陰で支えてくれようとしているのは、嬉しいよ。だがな……。そんな日陰者のお前の横には。お前の隣には。一体誰が、一緒に生きてくれるっていうんだ?」
「……!」
何も返せなかった。
『――フェル様!』
突然、頭の中にぼんやりした女性のイメージが浮かんだ。でも、また思い出せなくて胸が苦しくなった。
どうしても会いたい。その女性に。
強い渇望。そして。
会いたい人に会えない気持ちとは、こんなに苦しいものなのか……!
「なあシャルル。笑って聞いてくれ。どうしても会いたい人がいるんだ。でも、その人が誰なのか、どうしても思い出せないんだ。まったく馬鹿みたいな話だろ?」
自嘲したつもりだった。しかし――。
シャルルは目を見開いていた。
「お前も、なのか……?」
「なに……?」
シャルルも同じ思いに苦しんでいる?
そんな偶然あるだろうか?
「お二人とも! ご覧ください! あちらです!」
離れた場所で控えていた、機関の男が指さす方へと視線を向けた。
気づけば、あたりは夕暮れに沈みかけていた。
王国で広く知られる星座、「慈愛の乙女座」。
その星々を形作る中心に、本来あるはずのない光が瞬いていた。
伝説の瑞兆は、確かにそこに現れていた――。




