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05. フラグってなに?


「――お待たせ。終わったよ」


 低い声が耳の奥に響く。


 ハッと我に返ると、フェルナン様がゆっくりと立ち上がっていた。


「あ! あの!」

「うん?」

「去年のことで恐縮なのですが、授業の後に、歩けなくなってしまったことがあって……」

「……」


 彼の冷たい青い瞳に、自分の発言を後悔した。


 覚えているはずがない――そう思いかけた瞬間。


「うん、覚えてるよ」

「えっ?」

「休み時間に歩いていたら、倒れている人を見かけて慌てて駆けつけたっけ。……君だったよね?」

「……!」

「実は、あのときも僕がすぐに治してあげたかった。でも、当時は治癒の魔法は全然できなかったんだ。どう? 立てるかな?」


 彼に促されて、恐る恐る椅子から立ち上がった。


 右足にあった鋭い痛みは、きれいに消えていた。


 二、三歩試しに歩いてみる――痛く、ない。


「す、すごい……!」


 治癒の魔法は学院のカリキュラムにない高度なものだ。しかも、去年はできなかった魔法を、たった一年でここまで……!


 そんな驚きの余韻のまま、衝動的にお礼を口にしたのが良くなかった。


「ドモアリガトございまった」

「……」


 ああ、もう最悪! よりによってこんなときに!


「くっ……!」


 視線を上げると、彼は顔に手を当てながら肩を震わせていた。


「そんな真剣な顔で言われたら……反則。それはズルいと思う」

「……」

「もしかしたら、それは君の持ちネタなのかい?」


 単に噛んだだけです。


「ごめんね。あまり笑ってしまっては失礼だね」


 彼が手を離して顔を上げた瞬間、息を呑んでしまった。


 いつも遠くから見ていた彼のことを、まるで彫像みたいな人だと思っていた。なのに、いま目の前にいるのは整いすぎた顔をくしゃりと緩め、少年のように楽しそうに笑うひとりの男子。その笑顔に、釘付けになってしまったのだ。


「痛みがなくなってよかった。君は、あんな高い所から落ちてしまったのだから」

「……あっ!」

「どうしたの?」


 ――しまった。


 旧校舎に荷物を全部置きっぱなしではないか。


「……大声を出してしまい申し訳ありません。実は、荷物をさっきの建物に置いたままにしておりまして……」

「そうか。それは心配だね。シャルルたちが後で荷物を君に届けてくれると思う。だから、安心して」

「は、はい……」


 あのシャルル王太子殿下のお手を煩わせるなんて。恐れ多さに胃がきゅっと痛み、思わずお腹に手を当てた。


「あれ? もしかしたらお腹空いちゃった?」

「えっ?」

「昼食は食べたかい?」

「ま、まだですわ」

「僕もまだなんだ。でも、もうお昼休みがあまりないね。なら――」


 細く長い指が、卓上の呼び鈴に触れた。


 チリン――。


 澄んだ音が室内に溶け、短い静寂が訪れた。直ちにドアがノックされ、現れた使用人に向かって彼は「今日は二人分を」と短く告げた。


 今からここで、二人きりで昼食……?


「本当は学食がいいんだけどね。でも、落ち着けないからいつもここで食べているんだよ」


 ……なるほど。


 彼が学食に姿を見せたら、瞬く間に人だかりができてしまうに違いない。そういえば、昼休みに彼を見かけたことがほとんどなかった。


 二人きりの空間にそわそわしながら静かにしていたら、彼が口を開いた。


「――ランベーヌ嬢」

「はい」

「あの時何があったか、教えてくれるかな?」

「今日はローラと一緒に昼食をとる約束をしていたのですが――」

「お待たせしました」


 話し始めたところで、先ほどの使用人が銀の盆を手に戻ってきた。盆に載せられたワンプレートのランチには、色鮮やかで瑞々しい野菜が並び、温め直されたらしい香ばしいお肉も添えられていた。


「食べながら話そうか」

「は、はい」


 フェルナン様に促され、フォークを手に取った。話し始めると、彼は丁寧な所作で食事を口に運びながら、私の言葉に一つ一つ頷きながら短く相槌を打った。


 一方、私は、目の前の食事の味が、まったくわからない……。緊張のあまり、ついに味覚まで破壊されてしまったらしい。


「――ということでした」

「話してくれて、どうもありがとう」

「いえ……」

「……大変だったね。よくわかったよ」

「……」


 深くうなずいた彼に、胸の奥の張りつめた糸が緩んだ。


「それにしても、君たちは本当に仲良しなんだね」

「はい!」

「どんな風に知り合ったの?」

「ええと――」


 ローラと初めて出会ったのは、先月のことだった。


 憂鬱な気持ちで登校していたら、ラベンダー色の髪をした可憐な少女が佇んでいた。彼女は辺りを見回しながら、首をかしげていた。


 ――転校生?


 人見知りの私は、声をかけずに通り過ぎるつもりだった。けれど、あまりにも心細そうな彼女の表情に、足がつい止まってしまった。


『――恐れ入ります。何かお困りですか?』

『あ……はい。これから教員室に行かなくてはならないのですけれど、道に迷ってしまって……』


 事情を聞いてみると、やはり今日から転校してきた生徒だった。


『ご案内いたしますわ』


 実は私はこの広い学院のキャンパスにかなり詳しい。その一点だけは、私の密かな数少ない強み(?)だ。歩きながら聞いた話によると、彼女はローラという名で、元は平民だが今は男爵家の養女だという。


 彼女が教員室で用事を済ませて戻ってきた、その時だった。


『キャッ!』

『おい! 気を付けろよ!』


 角から駆けてきた男子生徒がローラにぶつかり、そのまま走り去っていく。


 ――ローラの胸元の青いリボンには、茶色い染みが広がっていた。


『だ、大丈夫ですか?』

『は、はい……』


 ゴーン、ゴーン、ゴーン――。


 授業開始の鐘が響く中、私は鞄から替えのリボンをすかさず取り出した。


『こちらをどうぞ』

『えっ? どうして……?』

『たまたまですわ。ご遠慮なさらず』

『あ、ありがとうございます』


 なぜリボンが鞄に入っていたのかというと、私の専属侍女が他の荷物と一緒に誤って渡してきたものを、そのまましまい込んでいたからだった。


『あ! もう授業ですよね!? 早く行きましょう!』

『……お待ちになって』


 焦って歩き始めた彼女に、思わず注意した。


『はい?』

『これから、大事なことをお話しします』

『え?』


 なぜかこの瞬間だけは、絶対にこの台詞を言わなければいけない気がして、私はキリッとした顔で告げた。


『武器や防具も、装備していなければ意味がありません』

『ぶ、ぶき? そ、そうび……?』

『それと同じことですわ。ささ、今すぐ替えましょう!』


 今思えば、ローラは少し引いていたような気がする。


 でも、リボンを結び直した彼女が顔を上げたとき――。


 大輪の花がほころぶような、眩しい笑みが零れた。


『エミリーさん、ありがとうございます!』

『……!』


 彼女の輝くような笑顔を見た瞬間、私はなぜか――。


 今日この日、この場所で、彼女と出会うために自分は生まれてきたのだと確信させられるような、不思議で鮮烈な感覚に包まれた。


 こうして私はローラと出会い、その後も顔を合わせる度に仲良くなり、いつの間にか友だちになっていた――。


 と、私は経緯を語り終えた。


「……」


 フェルナン様は静かに私を見つめていた。


「……」

「……」


 生徒会室に沈黙が降りた。


(や、やっちゃった……! な、何、調子に乗って自分語りしてるのよ!)


 けれど、彼は優しげに目を細めた。


「――君はやっぱり、とても優しい人なんだね」

「え……?」

「今回の件は、教師にも報告した上で生徒会として責任を持って調査する。安心して。そして――生徒会を代表して言うよ。今までローラ・サヴィーア嬢のことを助けてくれて……本当にありがとう」

「い、いえ、それほどのことは……」

「これからもよろしくね」


 微笑んだ彼の表情は、作り物のように整っているのにどこか人間味があって。


「……」


 窓から爽やかな風が部屋に流れ込んだ。


 それは、この学院でずっと空気のように透明だった私の心に、初めて鮮やかな色を差し込むようだった。




「――ちょっといいかしら?」

「……」

「ちょっと! そこのあなた!」


 生徒会室から教室に戻った途端、剣呑な声をかけられた。振り返ると、同級生の令嬢が二人立っていた。


「……はい」

「あなた、あのフェルナン・ヴァレット様と仲良くしていたそうじゃない?」

「仲良く?」

「とぼけないで。聞いたわよ。あなたがフェルナン様にベタベタくっついてたって。……何かの間違いよね?」

「生徒会のご責務として、お助けいただいただけですわ」

「……」


 私はもう大丈夫だと言ったのに、彼が丁寧に巻いてくれた右足の包帯をちらりと見せた。


「この通り、私が怪我をしてしまったので」

「……フン。そういうこと。まあ、あなたは所詮、“もどき”だものね」


 立ち去っていく二人を見ながら、安堵の息を吐いた。


 けれど、午後の講義が始まっても私はずっと心ここにあらずで。


「――」


 教師の話が一向に頭に入ってこない。代わりに何度も繰り返されるのは、至近距離で見たフェルナン様の素顔――。


 ……首を振る。今日のことは本当に偶然だ。もうあんなこと、二度とあるはずない。


 その後も、友だちのローラは教室に戻らなかった。


(生徒会か、教師に呼ばれて事情を聴かれているのかも……)


 彼女のことが心配になる。今日の件にかかわらず、あの子は最近ずっと揉め事が続いているから……。


 その後、魔法の実技授業が始まった。でも、心はまだ浮ついたままで、魔力の流し方を間違えて同じ班の子に苦笑される始末だった。


「はぁ……」


 片付けを終え、荷物を抱えたまま深く溜息をついていたら。


「悩みごと? 若いっていいねぇ」


 不意にかけられた声に振り向くと、柔らかなピンクブラウンの髪に、大きな丸眼鏡をかけた優しげな男の子が立っていた。


 同級生のアランだ。特別仲がいいわけじゃないけど、稀に言葉を交わすことのある、数少ない生徒の一人だ。


「若いって……あなた、私と同じ年でしょう?」

「ふふっ! そうだったね!」


 おどけて笑うアランは、今日も人の良さそうな雰囲気と茶目っ気を同時にまとっていた。


「それにしても、さっきの魔術の授業は難しかったね~」


 眼鏡を外して端正な顔を露わにしたアランは、苦笑しながらそれを磨き始めた。その仕草は彼の癖。ちなみに彼も魔術が苦手らしい。


「エミリー、さっき失敗してたでしょ?」

「う……見てたの?」

「班の子の笑い声が聞こえたから。ところで――」


 彼の瞳には、かすかな心配の色が宿っていた。


「怪我はもう大丈夫なのかい? さっき、フェルナン君に助けられてたよね?」

「……」


 アランにもあの抱っこを見られていたのか……。


「え、ええ。足を捻っただけよ。でも――」


 思わず視線が落ちた。あのとき、足元から身体へとじんわり広がっていった光の感覚が、再びよみがえっていた。


「治癒魔法をかけてもらって……もう痛みどころか、違和感すら残ってないの」

「そっか。それは本当に良かった。さすが彼だね」


 穏やかにそう言ったアランは、人の良さそうな笑顔を再び浮かべた。アランったら、フェルナン様と知り合いなのかしら?


「ねえ、エミリー」

「うん?」

「これからも、何かあったら頼るといいよ。――フェルナン君にね」

「え?」


 彼の名を聞いた瞬間、胸の奥がまた小さく跳ねた。




 まだぽけーっとした気分のまま帰宅した。


「おかえりなさいませ、エミリーお嬢様」

「ただいま、メグミ」


 玄関で出迎えてくれたのは、十年以上この家に仕える侍女――メグミ・タカハシ。


 とても珍しい名を持つ彼女は、子供の頃から私の世話をしてくれている、家族のような存在だ。


 そんなメグミに、おずおずと切り出した。


「あのね……」

「どうなさいました?」

「せっかく準備してくれたお弁当、残しちゃったの。ごめんなさい!」

「まあ。お口に合いませんでしたか?」

「ううん、凄く美味しかったわ。でもね、お昼休みにちょっと色々あって。ローラと一緒にお昼を食べられなかったの」


 実はあの後、生徒会所属の男子生徒が、私の荷物をわざわざ届けてくれた。でも、二人分のお弁当はさすがに食べきれなかった。今日はいつもと違うことばかりで、食欲もあまりなかったし……。


「……何かあったのですか?」

「え、えっとね――」


 事情を説明し始めると、メグミの目が途端に険しくなっていく。


「揉め事に巻き込まれて!? なんですって!」

「あ、でもね」


 メグミを安心させようと、死にかけた件は伏せつつ、フェルナン様に助けてもらったことは話した。


「ご無事で何よりです……」


 私の肩に手を置いて安堵するメグミ。しかし次の瞬間、その目が探るように細められた。


「お嬢様、なんだかご様子が変ですねぇ……顔が赤いし……」

 

 おでこに手を当てられながら、まじまじと見つめられる。すると、なぜか彼女はニヤリと笑った。


「――私、わかりました」

「え?」

「ズバリ、恋ですね?」

「はあっ!?」

「助けてくださったその殿方のことを、好きになってしまわれたのでしょう?」

「ち、ち、違うわ!」


 彼に片想いを、してた、のは、本当だけど……。どちらかといえば、憧れみたいなもの……。うん、きっとそうだ。そうに違いない。


 それに彼なら国中の貴族令嬢たちから引く手あまたのはずだ。だから彼にはもう意中の女性がいるに決まっている。そんな相手を本気で好きになってしまっても、どうしようもないではないか。


「コホン」


 メグミは真剣な顔になっていた。


「お嬢様、これから大事なことをお伝えします」

「う、うん」

「それを、『フラグ』と申します」

「ふらぐ?」


 聞いたことのない単語だ。彼女は昔から不思議な言葉を使うことがあるのだ。


「ふらぐってなに?」

「恋の予感が現実となる兆し、という意味です」

「ええっ!?」


 そ、そんなはずないわ。だって、貴族同士の交際は家格が近いことが大前提だ。公爵家の嫡男である彼と男爵家の私が並び立つなんて、絶対にありえない。


「お嬢様、フラグを折らぬようご精進を」


 呆れる私に、メグミは妙に確信めいた口調で言った。




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