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04. 初恋の人


 透き通るような青い瞳、風に揺れる艶やかな黒髪。


「……」


 声が出なかった。


 私はこの人が誰なのか知っていた。いや、彼のことを知らない人など、このヴェルナーサ学院に一人もいないだろう。


 ――フェルナン・ヴァレット公爵令息。


 わが国の筆頭貴族たるヴァレット公爵家、そして忠臣にして敏腕と名高い宰相様のご子息であり、生徒全員の憧れの的。


「……」


 彼は息を切らせていた。しかし、私をじっと見つめる青い瞳は――凪いだ静かな湖のように、何の感情も浮かんでいないように思えた。


「……」


 現実感がないまま周囲を見渡す。さっきまでいたはずの旧校舎の入口が視界に入る。


 ――私は確かにあの三階から落ちた。そして、助かった。落ちる寸前の、吹き上げられるようなあの感覚は何だったのだろう?


 疑問は残りながらも、頭の中をいっぱいに占めていた恐怖が少しずつ落ち着いていく。すると彼がそっと口を開く。


「――エミリー・ランベーヌ嬢」

「……!?」


 どうして私の名前を知っているの!?


 私は一般クラスの、それも貴族もどきのただの平凡な生徒だ。一方フェルナン様は、この学院のエリートたちが集う特別クラスに在籍している。なので、同学年といえども日常的に接する機会なんてない。


 呆然としながら、彼の胸に輝く校章が自分のものとは違うことに気づく。それは、この学院の生徒会に所属していることを示す特製の白。彼は現副会長でもあらせられる。


 なので私は、今まで彼と会話すらしたことがない。


 いや――。


 実は一度だけ、彼と言葉を交わしたことがあった。けれど去年のことだし、名乗ってもいない。彼はそんなことを一々覚えていないだろう。


「ど、どうして……こちらに?」

「通りがかりさ」


 彼は素っ気なく続けた。


「たまたま近くにいたら、何やら騒がしかったから」

「……」


 本当に運良く命を拾ったらしかった。思わず神に感謝した。しかし、彼の冷たい青の瞳にじっと見つめられていたたまれなくなくなり、衝動的に口にした。


「たすきていただき、ありがとございまった」

「……」

「あ……」


 思い切り噛んでいた。頬が一気に熱くなり、自分の顔が真っ赤に染まっていくのがわかった。


 でも、私はこの人のことを、ずっと前から……!


「ふっ……」


 フェルナン様はあたふたする私からなぜか一瞬視線を外すと――今度は日だまりのような微かな笑みをにじませた。


「……どういたしまして。ランベーヌ嬢」

「い、いえ……」

「よかったら、何があったか聞かせてもらえるかい?」

「何か……」


 ハッとして彼の腕の中で体を起こす。


(そうだ! ローラが!)


 そのとき、「キャーッ!!!」と、黄色い歓声のような声が響いたかと思うと、生徒たちをかき分けるようにして二人の男子生徒が現れた。


 輝くような金髪を持つ美貌の男子は、シャルル様――。


 この国の王太子殿下であり、生徒会長も務めている。溢れ出るオーラが尋常じゃない。文武両道で品行方正、次代の名君との呼び声も高い御方。それでいて、おおらかでお優しいご性格だと、もっぱらの噂だ。


 もう一人はアレクシス様――。


 とてつもなく高く背丈に、逞しい体つき。赤い髪も相まって、まるで燃える山がそびえ立っているかのよう。アレクシス様のお家は、騎士団長も輩出したことのある、武の誉れ高き名門の侯爵家だ。たしか彼も、生徒会の役員だったはず。


 もちろん二人とも、フェルナン様と同じく特別クラス所属だ。


 なんだか凄い人たちが揃ってしまった……!


「エミリー! エミリー!」

「ローラ!」


 旧校舎から、ラベンダー色の髪を振り乱しながらローラが駆け寄ってきた。フェルナン様の腕の中から飛び出し、友だちの身体をぎゅっと抱きとめた。


「エミリー! 無事なのね!?」


 気品を湛えた碧眼から零れる涙に濡れ、泣きはらしたローラの顔は、見るに堪えないほど痛々しかった。


「うん、大丈夫……。ローラは?」

「大丈夫よ……」

「よかった、本当によかった……!」


 嬉しくてたまらなくて、友だちのことをもう一度強く抱きしめた。


「エミリーったら、無茶をして……!」

「別に、たいしたことないわ……」

「ううん……。だって、あなたは……。私を助けてくれようとして、あなたは死にかけたのよ……!」

「ローラ……」


 嗚咽が耳に響くと同時に、私の身体を抱く彼女の腕がぎゅっと強まった。


「――無事で何よりだ。誰か怪我をした人はいないかい?」


 振り返ると、シャルル王太子殿下だった。慌てて制服ながらカーテシーをした。


「二年生、一般クラス在籍、エミリー・ランベーヌと申します」

「同じく、ローラ・サヴィーアと申します」

「……」


 顔を上げると、シャルル王太子殿下は私を見つめ、なぜかその瞳を大きく見開いていた。彼は一瞬フェルナン様の方に視線を送ると、つぶやいた。


「エミリー……ランベーヌ……。そうか、君が……」


 えっ?


 雲の上の存在であるシャルル王太子殿下と話すのは、もちろん初めてだ。どうして私などの名前をご存知なのだろう? 頭が真っ白になり、慌てて口走った。


「きょ、恐悦至極に存じます……」

「ハハハ! そんなにかしこまらないでほしい、エミリー・ランベーヌ嬢」

「は、はい……」

「これも何かの縁だ! これから私とは、ただの同級生として気軽に接してくれたまえ! ――なあフェルナン! そうだろう?」


 何やら楽しげにフェルナン様へ再び視線を向けたシャルル王太子殿下は、輝くような笑みをお見せになった。噂に違わぬ気さくなお方のようだ。


 ふと彼の隣のアレクシス様を見ると、彫りの深い強面な顔立ちに優しげな微笑みを浮かべながら頷いていた。一方、フェルナン様はどこか困ったような表情だった。


 ひとまず姿勢を戻そうとした、そのとき。


(つっ……!)


 右足に鋭い痛みが走った。


 気が動転していて気づかなかったけど、さっき落ちたときに捻ってしまったみたいだった。一方、周囲を見ると人だかりは増え続けていた。


「……」


 学院の有名人たちが集っているのだから仕方ないとはいえ、急にソワソワしてきてしまう。私は目立つことがもの凄く苦手なのだ。でも、ローラを取り囲んでいた生徒たちのことも気になるし、どうしよう……?


「僕は怪我人を診るよ」


 シャルル王太子殿下にそう告げたフェルナン様が、つかつかと私のもとへと歩み寄ってくる。


「右足、だね?」

「え?」

「少しだけ我慢してね」


 なんとフェルナン様は私をひょいと抱きかかえた。


「え? え? え?」

「シャルル、アレクシス。そこの三階で魔法が使われたはずだ。調べてもらえるかい?」


 フェルナン様がそう言うと、シャルル王太子殿下とアレクシス様は何かを悟ったようにうなずいた。


 一方私はというと、フェルナン様に再び抱っこされて、思考停止寸前の状態。


 思わず目を閉じる。周囲のざわつく声だけが聞こえてくる。


「行こうか」


 目をつぶった私に届く、フェルナン様からの爽やかな声。


 夢を見ているのかと思った――。


 現実感なんてとうに失われたまま、私はその場からフェルナン様に連れ去られた。




「――もう少しだけ我慢して」


 きゅっと目をつぶったままの私の耳に静かに語りかけながら、フェルナン様は私を抱えてどこかに運んでいた。


「キャー!」

「フェルナン様―!」


 女子たちからと思しき歓声が急に響き、つい目を開く。


「痛むかい? 大丈夫?」


 見上げると――周囲から飛び交う黄色い声などまるで存在しないかのように、彼は無表情のまま私を見つめていた。


「い、いえ……」


 再び目をつむった。


「フェルナン君、一体どうした?」

「エミリー・ランベーヌ嬢が怪我をしました」

「ならば、保健室に――」

「いいえ、結構です。私が診ます」


 通りがかりの教師からと思われる言葉を遮る、彼の低い声が耳元に直接響く。それが胸をひどくざわつかせた。


 しかも――。


 フェルナン様はぱっと見は細身なのだけど、抱き上げられた私の身体には、引き締まった筋肉質な感触がはっきりと伝わってきていた。


 私には、殿方との交際経験なんて実際のところない。元許嫁のジェレミとも、手を繋いだことすらなかった。


 彼の胸と腕に、私のすべてが預けられていた。自分の体重が重くないだろうかと、さっきから気になって仕方がない。五感はとうに限界。まともに動きそうなのは味覚くらいだ。今は何の役にも立たないけど。


 ――ガチャッ。


「お待たせ」


 そっと目を開けると、どこかの一室だった。


(ここは……?)


 フェルナン様は私をゆっくり降ろしながら、椅子にそっと座らせた。


「生徒会室だよ」

「……」


 シンプルなアンティーク家具が並ぶ室内には長い歴史の重みが漂い、テーブルの上には書類が整然と並べられていた。木の心地いい匂いが、ホッとした気持ちにさせてくれた。


「足を見せてほしい」

「えっ? いや、あの……」

「失礼。言葉足らずだった。今すぐ治療を始めたくて。靴は履いたままでいいよ」

「だ、大丈夫です! 自分で歩けますから!」


 文字通り、おんぶにだっこが過ぎる。私は衝動的に立ち上がった。


「いたっ!!」

「おっと」


 私はフェルナン様の広い胸に、顔ごと突っ込んでいた――。


「ほら、やっぱり……。それとも、このまま保健室まで連れて行こうか?」


 ため息をついた彼は、私の肩にそっと手を添えた。


「……」


 これ以上抱っこされたら、足より先に脳が破壊されてしまう……。


 すると、彼はふと何かを思いついたように口を開いた。


「ランベーヌ嬢」

「はい」

「少し踏み込んだことをたずねてしまってすまないが……」

「ええ」

「もし君に婚約者がいるなら、すぐに探してここに呼ぼうか?」

「えっ?」

「君の怪我のことを知らせたいし、治療にも同席してもらった方がいいと思ってね」

「……」


 さっきのジェレミの冷たい態度のことを思い出してしまった。


 思わずうつむきながら声を絞り出した。


「いません……」

「えっ?」

「許嫁がいたことはありましたが……すでに解消しております。ですから、今は誰も……いません」

「……」


 彼はなぜか驚いたように、青い瞳を大きく見開いていた。


「……そうか。すまなかった」

「い、いいえ……」


 生徒会室に重苦しい沈黙が降りた。


 なぜか気まずそうな彼のことが気の毒に思えて、結局私は足をそっと差し出した。彼は長い指で私の足にそっと触れた。


「痛むのはここだね?」

「はい」

「じゃあ、今から治癒魔法をかけるよ」

「えっ? 学院では魔法が禁止されているのでは……?」

「生徒会は、きちんとした理由があれば魔法を使っていいことになっている。怪我をした生徒の治療をすることは、至極正当な行為だ」

「……」


 驚いた。生徒会の特権についてではなく、彼自身がこれから治癒をしようとしていることに。治療の魔法は特に高度で、一介の学生がそうそうできるものではないはずなのだ。


「――はじめるよ」


 フェルナン様は私の前にひざまずくと静かに息を整えた。そして、美しい顔を近づけると囁いた。


「……少し冷たく感じたり、違和感があったりするかもしれない。つらかったら、遠慮なく言ってくれ」

「は、はい……」


 男性らしい大きな手が広がり、私の右足にそっと添えられる。彼が詠唱を始め、私の右足に彼の魔力が流れ込んでくる。それは、冷たいどころか、とっても温かくて、優しくて――。


「……」


 息を呑みながら、真剣な顔で集中するフェルナン様をちらりと見た。


 長い睫毛の影が、頬に静かに落ちていた。


 透き通るような彼の青い瞳は、先ほど見たシャルル王太子殿下の瞳の色とどこか似ていた。そこに、魔力の流れが深い陰影を象っていった。


 あることに気づく。


 そう――たしかフェルナン様のご母堂は、国王陛下の妹君だったはず。つまり彼は、現宰相様のご子息であると同時に、王族の血も引いているのだ。


 そんなことを思いながら、去年のことを思い出す。実は一年生の時にも、私はフェルナン様に助けてもらったことがあった。


 それから私はずっと、彼に片想いをしていたのだ――。




 それは一年生のときのことだった。その頃すでに、私はクラスの輪から外され、空気のような生活をひたすら耐え忍ぶ日々を送っていた。


 そんなある日の屋外授業中、私はいつの間にか足を捻挫していた。痛みに気づいたときにはすでに授業は終わり、教師や生徒たちはさっさと引き上げていった。


 私は痛みで歩けなくなっていた。でも、声を上げても誰も気にしない。一瞬振り返った人もいたけど、結局誰も助けてくれなかった。泣きそうになりながら、校庭の真ん中でずっとうずくまっていた。


『おーい! 大丈夫かー!?』


 一人の男子生徒が遠くから走ってきた。


『立てるかい?』


 その美貌の生徒は、無表情のまま手を差し伸べた。私が立ち上がれないとわかると「すぐ戻る」と言い残し、再びダッシュで走り去っていった。すると今度は、保健室の先生を引き連れて、また駆けつけてくれたのだ。治療が終わった頃、彼はもういなくなっていた。


 私はそのことがきっかけで、彼――フェルナン様に片想いをしてしまった。


 その後彼が、歴代の宰相を輩出してきたヴァレット公爵家の令息であり、学院一の秀才の誉れ高い人であることを知った。


 そしていまやフェルナン様は生徒会の副会長となり、学院の憧れの的となっている。彼が歩くたび、いつも周りでは女子生徒たちが騒いでいる。彼女たちの気持ちは凄くわかる。


 でも私は……フェルナン様のことを遠くからこっそり見ているだけで十分だった。


 ただ、ひとつだけ。


 私にはずっと後悔していることがある。


 それは、あのとき助けてくれた彼に、お礼を言いそびれてしまったことだった――。


 あの時に言えなかった言葉を、今こそ伝えなきゃ。


 そう思って顔を上げると――フェルナン様の作り物のような顔が、まっすぐに私を見つめていた。吸い込まれてしまいそうなその瞳は、人が立ち入ること拒む静謐で美しい湖のようだった。


 恥ずかしさと申し訳なさが入り混じり、思わず声が溢れた。


「ご面倒をおかけしてしまい、申し訳ありません……」

「……」


 彼は静かに首を振ると、癒しの魔法を再開した。




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