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04. 治癒の魔法


「……」


 声が出せなかった。フェルナン様に抱えられたまま唖然と周囲を見渡すと、さっきまでいたはずの旧校舎の入口が視界に入った。


 ――私は確かに、あの三階から落ちた。そして、助かったのだ。


 落ちる寸前の、吹き上げられるようなあの感覚は何だったのだろう? 疑問は残りつつ、頭の中をいっぱいに占めていた恐怖が少しずつ落ち着いていく。その代わり、自分の全身がいま殿方に抱きかかえられているという状況に、恥ずかしさが一気に込み上げてくる――。


「どこか痛くない? エミリー・ランベーヌ嬢」


 どうして私の名前を知っているの!?


 私は一般クラスの、それも“貴族もどき”のただの平凡な生徒だ。一方フェルナン様は、この学院のエリートたちが集う特別クラスに在籍している。なので、同学年といえども、私たちは日常的に接する機会なんてない。


 フェルナン様の胸の校章が、自分のものとは違うことに気づく。それは、この学院の生徒会に所属していることを示す特製のもの。彼は現副会長でもあらせられる。つまり私は、今まで彼とまともな会話すらしたことがない。


 いや――。


 実は一度だけ、フェルナン様と言葉を交わしたことはある。けれど、去年のことだし、名乗ってもいない。彼はそのことを、きっと憶えていないだろう。


「ど、どうして、こちらに?」

「通りがかりさ。たまたま近くにいたら、何やら騒がしかったから」

「……」


 本当に運良く自分が命を拾ったことを知る。私は神に感謝し、そして目の前の神々しい存在にもこの感謝の気持ちを伝えなければと思った。


「たすきていただき、アリガトございまった」


 思い切り噛んだ。


 めちゃくちゃ恥ずかしい!


 だって、私はこの人のことを、ずっと前から……!


「ふっ」


 なぜかフェルナン様は一瞬顔を背け、そして――。


 日だまりのように優しい、微かな笑みをにじませながら言った。


「どういたしまして」

「い、いえ……」

「よかったら、何があったか聞かせてもらえるかい?」

「何か……」


 ハッとして彼の腕の中で体を起こす。


 そうだ! ローラが!


 そのとき、「キャーッ!!!」と、どこかで黄色い歓声のような声が響いた。ビクッとしながらその方向を向く。生徒たちをかき分けるようにして二人の男子生徒が現れ、歓声の理由をすぐに悟る。


 輝くような金髪を持つ美貌の男子は、シャルル様――。


 この国の王太子殿下であり、生徒会長も務めている。溢れ出るオーラが尋常じゃない。文武両道で品行方正、次代の名君との呼び声も高い御方である。それでいて、おおらかでお優しいご性格だと、もっぱらの噂だ。


 もう一人はアレクシス様――。


 とてつもなく高く背丈に、逞しい体つき。赤い髪も相まって、まるで燃える山がそびえ立っているかのよう。アレクシス様のお家は、騎士団長も輩出したことのある、武の誉れ高き名門の侯爵家だ。たしか彼も、生徒会の役員だったはず。


 もちろん二人とも、フェルナン様と同じく特別クラス所属だ。なんだか凄い人たちが揃ってしまった……!


「エミリー! エミリー!」

「ローラ!」


 旧校舎から、ラベンダー色の髪を振り乱しながらローラが駆け寄ってくる。フェルナン様の腕の中から飛び出し、友だちの身体をぎゅっと抱きとめる。


「エミリー! 無事なのね!?」


 気品を湛えた碧眼から零れ落ちる涙に濡れ、泣きはらしたローラの顔は、痛々しいほどだった。


「うん、大丈夫……。ローラは?」

「大丈夫よ」

「よかった、よかった……!」


 本当によかった……。嬉しくてたまらなくて、友だちのことをもう一度強く抱きしめる。


「エミリーったら、無茶をして……」

「別に、たいしたことないわ……」

「ううん……。だって、あなたは……。私を助けようとしてくれて、あなたは死にかけたのよ……!」


 耳に響く嗚咽とともに、私の身体に回された彼女の腕が、ぎゅっと強まった。


「ローラ……」

「――無事で何よりだ。誰か怪我をした人はいないかい?」


 振り返ると、シャルル王太子殿下だった。私は制服ながら慌ててカーテシーをした。ローラも素早く同じ動作をした。


「二年生、一般クラス在籍、エミリー・ランベーヌと申します」

「同じく、ローラ・サヴィーアと申します」

「……」


 顔を上げると、シャルル王太子殿下は、なぜかその青い瞳を大きく見開いていた。彼は一瞬フェルナン様に視線を送ると、呟いた。


「エミリー……ランベーヌ……。そうか、君が……」


 えっ?


 雲の上の存在であるシャルル王太子殿下と話すのは、もちろん初めてだ。どうして私なんかの名前をご存じなのだろう? 非礼でも働いてしまったのかと頭が真っ白になり、慌てて口走った。


「きょ、恐悦至極に存じます……」

「ハハハ! そんなにかしこまらなくていい、ランベーヌ嬢。これも何かの縁だ」

「は、はい……」

「これから私とは、ただの同級生として気軽に接してくれたまえ。なあフェルナン。そうだろう?」


 何やら楽しげに、フェルナン様へ再び視線を向けたシャルル王太子殿下は、ご尊顔をほころばせ、輝くような笑みをお見せになった。噂に違わぬ気さくなお方のようだ。


 ふと彼の隣のアレクシス様を見ると、彫りの深い強面な顔立ちに、優しげな微笑みを浮かべて頷いていた。一方、フェルナン様はどこか困ったような表情だった。


 ひとまず姿勢を戻そうとした、そのとき。


(つっ……!)


 右足に鋭い痛みが走った。


 気が動転していて気づかなかったけど、さっき落ちたときに捻ってしまったみたいだった。一方、周囲を見ると、人だかりは増え続けていた。


「……」


 学院の象徴の有名人たちが一堂に会しているのだから仕方ないとはいえ、急にソワソワしてくる。私は目立つことがもの凄く苦手なのだ。でも、ローラを取り囲んでいた生徒たちのことも気になるし、どうしよう……?


「僕は怪我人を診るよ」


 シャルル王太子殿下にそう告げたフェルナン様が、つかつかと私のもとへと歩み寄ってきた。


「右足、だね?」

「え?」

「少しだけ我慢してね」


 なんとフェルナン様は私をひょいと抱きかかえた。


「え? え? え?」

「シャルル、アレクシス。そこの三階で魔法が使われたはずだ。調べてもらえるかい?」


 フェルナン様がそう言うと、シャルル王太子殿下とアレクシス様は何かを悟ったようにうなずいた。


 一方私はというと、フェルナン様に再び抱っこされて、思考停止寸前の状態。


 思わず目を閉じる。周囲のざわつく声だけが聞こえてくる。


「行こうか」


 目をつぶった私に届く、フェルナン様からの爽やかな声。


 夢を見ているのかと思った――。


 現実感なんてとうに失われたまま、私はその場からフェルナン様に連れ去られた。




「――もう少しだけ我慢してね」


 きゅっと目をつぶったままの私の耳に優しく語りかけながら、フェルナン様は私をしっかりと抱え、どこかに運んでいた。


「キャー!」

「フェルナン様―!」


 女子たちからと思しき歓声が急に響き、つい目を開く。


「痛むかい? 大丈夫?」


 見上げると――周囲から飛び交う黄色い声などまるで存在しないかのように、フェルナン様は涼やかな瞳で、私のことを見つめていた。


「い、いえ……」


 恥ずかしくなってしまい、再び目をつむる。けれど、その真っ直ぐな眼差しが焼き付いて離れず、胸の奥がじわりと熱くなる。


「フェルナン君、一体どうした?」

「エミリー・ランベーヌ嬢が怪我をしました」


 いま話しているのは教師だろうか。目をつぶり続けている私にとって、外の状況を知る術は聴覚しかなかった。


「ならば、保健室に――」

「いいえ、結構です。私が診ます」


 教師の言葉を遮るように放たれた低い声。それが私の耳元に直接響いてきて、胸をひどくざわつかせた。


 しかも――。


 フェルナン様はぱっと見は細身なのだけど、抱き上げられた私の身体には、引き締まった筋肉質な感触がはっきりと伝わってきていた。


 ぼっちの私には、殿方との交際経験なんて勿論ない。子供のころお父様に抱きかかえられたことはあるけど、大きくなればそんなこともなくなり、今に至る。


 フェルナン様の胸と腕に、私のすべてが預けられていた。自分の体重が重くないだろうかと、さっきから気になって仕方がない。五感はとうに限界。まともに動きそうなのは味覚くらい。今は何の役にも立たないけど。


 ガチャッ。


「お待たせ」


 フェルナン様に声をかけられそっと目を開けると、どこかの一室だった。


 ここは……?


 フェルナン様は私をゆっくり降ろしながら、椅子にそっと座らせてくださった。


「生徒会室だよ」

「……」


 シンプルなアンティーク家具が並び、室内には長い歴史の重みが感じられ、テーブルの上には書類が整然と並べられていた。ついキョロキョロと周りを見てしまう。木の心地いい匂いが、ホッとした気持ちにさせてくれた。


「足を見せてもらえるかな?」

「えっ? いや、あの……」


 躊躇ってしまう。未婚の女性が素足を男性に見せるわけにはいかない。


「失礼。言葉足らずだった。今すぐ治療を始めたい。靴は履いたままでいいよ」

「だ、大丈夫です! 自分で歩けますから!」


 文字通り、おんぶにだっこが過ぎる。私は衝動的に立ち上がった。


「いたっ!」

「おっと」


 私はフェルナン様の広い胸に、顔ごと突っ込んでいた――。


「ほら、やっぱり。大丈夫かい?」


 軽くため息をつきながらも、頭上から聞こえるフェルナン様の声音は、どこまでも優しかった。


「それとも、このまま保健室まで連れて行こうか?」


 私の肩にそっと手を添え、少しいたずらっぽく言うフェルナン様。


「……」


 これ以上抱っこされたら、足より先に脳が破壊されてしまう。結局私は、フェルナン様に右足をおずおずと差し出した。


「今から治癒魔法をかけるね」

「えっ? 学院では魔法が禁止されているのでは……?」

「生徒会は、きちんとした理由があれば、魔法を使っていいことになっている。怪我をした生徒の治療をすることは、至極正当な行為だ」

「……」


 驚いた。生徒会の特権についてではなく、フェルナン様自身がこれから治癒をしようとしていることに。治療の魔法は特に高度で、一介の学生がそうそうできるものではないはずだ。


「――はじめるよ」


 フェルナン様は私が座る椅子の前にひざまずき、静かに息を整えた。そしてその美しい顔を近づけると、囁くように言った。


「少し冷たく感じたり、違和感があったりするかもしれない。つらかったら、遠慮なく言ってくれ」

「はい……」


 男性らしい大きな手が広がり、私の右足にそっと添えられる。フェルナン様が詠唱を始める。


 私の右足に彼の魔力が流れ込んでくる。それは、冷たいどころか、とっても温かくて、優しくて――。


「……」


 息を呑む。真剣な顔で集中するフェルナン様をちらりと見る。長い睫毛の影が、頬に静かに落ちていた。


 透き通るような彼の青い瞳は、先ほど見たシャルル王太子殿下の瞳の色とどこか似ていた。そこに、魔力の流れが深い陰影を象っていく。あることに私は気づく。


 そう――たしかフェルナン様のご母堂は、国王陛下の妹君だったはず。つまり彼は、現宰相様のご子息であると同時に、王族の血も引いているのだ。


 そんなことを思いながら、去年のことを思い出す。実は一年生の時にも、私はフェルナン様に助けてもらったことがあった。


 それから私はずっと、彼に片想いをしていたのだ――




 それは一年生のときのこと。その頃すでに、私はクラスの輪から外され、空気のような生活をひたすら耐え忍ぶ日々を送っていた。


 そんなある日の屋外授業中、私はいつの間にか足を捻挫していた。痛みに気づいたときにはすでに授業は終わり、教師や生徒たちはさっさと引き上げていく。


 私は痛みで歩けなくなっていた。声を上げても誰も気にしない。一瞬振り返った人もいたけど、結局誰も助けてくれなかった。泣きそうになりながら、校庭の真ん中でずっとうずくまっていた。


『おーい! 大丈夫かー!?』


 一人の男子生徒が遠くから走ってきた。


『立てるかい?』


 その美貌の生徒は、無表情のまま手を差し伸べた。私が立ち上がれないとわかると「すぐ戻る」と言い残し、再びダッシュで走り去っていった。すると今度は、保健室の先生を引き連れて、また駆けつけてくれたのだ。治療が終わった頃、彼はもういなくなっていた。


 私はそのことがきっかけで、彼――フェルナン・ヴァレット様に片想いをしてしまった。


 その後彼が、歴代の宰相を輩出してきた超名門の公爵家の令息であり、学院一の秀才の誉れ高い人であることを知った。


 そしていまやフェルナン様は生徒会の副会長となり、学院の憧れの的となっている。彼が歩くたび、いつも周りでは女子生徒たちが騒いでいる。彼女たちの気持ちは凄くわかる。


 でも私は……フェルナン様のことを遠くからこっそり見ているだけで十分だった。


 ただ、ひとつだけ。


 私にはずっと後悔していることがある。


 それは、あのとき助けてくれた彼に、お礼を言いそびれてしまったことだった――。


 あの時に言えなかった言葉を、今こそ伝えなきゃ。


 そう思って顔を上げると――フェルナン様の整いすぎた、作り物のような顔が、まっすぐに私を見つめていた。 吸い込まれてしまいそうなその瞳は、立ち入ることを拒まれた静謐で美しい湖のようでもあった。


 恥ずかしさと申し訳なさが入り混じり、思わず声が溢れた。


「お手を煩わせてしまい、申し訳ありません……」


 すると彼は、治癒の魔法を続けながら私を見つめ静かに首を振ると、そっと頷いた。


「……」


 遠くから彼を眺めていたときに抱いていた、どこか冷たげな印象とはまるで違う、いま私に向けられた温かさ――。


 ただ、心臓の鼓動だけがやけに大きく響いていた。




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