31. 日陰者の恋
(――誰!?)
夕日が雲を押しのけてその姿を見せ、黄金色の光が教室の入口に差し込んでいた。
そこには、フェル様が立っていた。夕日を浴びた彼の顔には、見たことのない強張った表情が浮かんでいた。その背後にはローラ、そしてなぜか同級生のアランまで立っていた。
「……ベアトリス。いま、『役立たず』とか『いらない』とか聞こえたけど――もしかして、エミリーのことを言ったのか?」
怒気を帯びた声を放ちながら彼はコツコツと足音を響かせ、早足で歩み寄ってきた。
「君がエミリーの何を知っているんだ?」
「な、何をって……。私はただ、ふさわしくない生徒は生徒会を辞めるべきだと……」
「なんだと!?」
彼は声を一瞬荒げた後、瞳を閉じて深呼吸した。
「……いいかい、ベアトリス。以前こんなことがあった」
諭すように彼は語り始めた。
「あるとき、恋愛沙汰で酷いいじめを受けていた女子生徒がいた。しかし、周りは誰も助けなかった。その子は平民で、相手は子爵令嬢だったからだ。でも一人だけ、その子に手を差し伸べた生徒がいた。結果、その生徒はすんでのところで助かった」
え……?
それって、去年のアニェスさんのこと? けれど、もしそうだとしても、フェル様はおろかローラにすら話したことはなかった。思わずアランの方を向くと、彼は微笑みながらうなずいた。
「他にも例えば、こんなこともあった。ある子がとても珍しい病にかかり、通学が困難になってしまった。でも、その子は成績が優秀だったから、周りの生徒たちは『競争相手が減ってよかった』なんて言っては笑っていたらしい。ついに退学もやむなしという時――この国では知られていない治療を行える遠国の医者を、その子の家に紹介した生徒がいた。おかげでその子は、助かった」
――そんなこともあった。ネリーさんという生徒だ。その子とは友だちではなかったけど噂を聞いてあまりにも気の毒になり、お父様のつてを使って調べ、彼女の家によその国のお医者様をご紹介したのだ。
そのことも誰にも話したことはない。ネリーさんがフェル様に言ったのだろうか?
「今話したことをした生徒は、エミリーだ」
「だ、だからって、何よ?」
「エミリーは役立たずなんかじゃない。いらなくなんかない。生徒会でも、いまやエミリーが全体の執務の流れを一番把握して、仕事の優先順位を理解している。本当かと思うなら、ナタリーでもいい。ジャンでもいい。一度彼らに聞いてみたらどうかな? 彼女たちもきっと、僕と同じことを答えるはずだ」
彼は淀みなく話しながら、ベアトリス様に怒りの視線を再び強めていく――。
「それにくらべて君はどうだ? 勝手な思い込みで物を言い、品のない罵倒をしているばかりじゃないか? 君は、貴族にふさわしい行動をしていない」
「フェ、フェル様……!」
「エミリーのことをこれ以上侮辱することは、僕が許さない……! たとえ君がルーレアン家の人間だとしてもね。よくおぼえておくんだ!」
「な……! ひ、ひどいわ! フェル様!!」
顔を真っ赤にしたベアトリス様は教室を飛び出していった。彼はその様子を冷たい視線で見送ると、私の前に立った。
「エミリー。ごめんね……。僕のせいで、嫌な思いをさせてしまったね……」
「い、いえ……」
「ローラもすまなかったね。知らせてくれて、どうもありがとう」
「いいえ。とんでもございません」
ローラはにこりと笑った。
……そうか。ローラがフェル様を探してここまで連れてきてくれたのか。でも、校舎の違う彼のことをよく見つけられたものだ。
「実はあの後ね。私が『うわぁ! 大変だぁ!』って一人で慌てていたら、アランがちょうど来てくれたのよ。ね、アラン?」
そう言いながらローラは振り返った。
しかし、そこには誰もいなかった。
「あ? あれ? アラン?」
アランはいつの間にか立ち去っていた。用事があるのに、わざわざ来てくれたのかな?
……アラン、ありがとう。
「あ……えっと、えっと、えっと……」
なぜかローラは、私とフェル様を交互に見ながら急にまごまごし始めた。
「じゃ! じゃあ! また明日ね!」
「あ、ちょっ、待っ……!」
ローラまでそそくさと立ち去ってしまい、いまこの場にいるのは、私とフェル様の二人だけ。
「……」
「……」
急に恥ずかしくなってしまい、間を持たせようと話しかけた。
「あ、あの、フェル様はどうして去年のことを、ご存知なのですか?」
「だいぶ前から、なんだけど」
「だいぶ前?」
「ある人から、君が今までどれだけ誰かのために陰ながら頑張っていたかを、聞かされていたんだ」
ある人って……?
「実は、僕は君のことを――君がバルコニーから落ちたあの日より前から。いや、君が去年校庭でうずくまっていた時よりも前から、知っていた」
「えっ?」
そんなに前から? 私が彼と初めて話したのは校庭の時のはずなのに。
「黙っていてごめんね。エミリー」
「……」
夕焼けに照らされながら、フェル様は可愛らしくはにかんだ。大好きな彼の笑顔を目の前で浮かべられてしまうと、ドキドキしてしまう……。
「それで、その『ある人』のことなんだけど……」
「え、ええ」
「あのさ、シャルルって、王太子じゃない?」
「えっ? は、はい。よく存じ上げております」
唐突にシャルル会長の話が出てきたので面食らう。知らない生徒は多分一人もいないと思うけど……。
「シャルルがここに入学する際、彼の護衛が必要だという話に当時なってね。騎士団から特別に人が派遣されたんだ」
「そうなのですか?」
要人警護ってやつだろうか。でも誰だろう?
シャルル会長といつも一緒にいるのはフェル様とアレクシス様だ。他にそれらしい人を見かけたことはない。
「その騎士団員は、学院の生徒になりすましていて君のことをよく知っている。まあ、アランのことなんだけどね」
「ア、アランが!?」
驚いた。騎士団っていうと、それこそアレクシス様みたいなマッチョなイメージしかない。ほのぼのほんわかしたイメージのアランとはまったく結びつかない。
「特別クラスには僕とアレクがいてシャルルを直接護衛できるから、アランは一般クラスでもっぱら情報収集と周囲の警戒に努めているんだ」
そうだったんだ……。
「あの、アラン……さま、は、お幾つなのですか?」
「ふふっ! 君もアランって呼んであげて。そうしないと彼がさみしがってしまうよ。ちなみに二十七歳。僕の叔父さんだ」
「ええ~!!」
アランさ……アランは、私のなんと十歳年上だった。
「叔父上はああ見えて凄腕の魔術師なんだよ。騎士団の魔術部門の所属だ」
「……」
信じられない……。魔法の実技授業で失敗して頭をかいている彼をみかけたことすらある。あれって演技だったのか……。絶対誰も気づいていないと思う。いやでも、それ以前にあの顔は同学年以下にしか見えない。
「もしかしたら、魔術で顔などを変える、なんてできるものなのでしょうか?」
「え? 素顔だよ。叔父上は昔から度を過ぎた童顔なんだ。ちなみに甥の僕は、剣術や魔術の基礎を彼から教わったんだけどね」
「……」
アランが騎士団員でスパイでフェル様の師という事実と、普段の彼のふわふわしたイメージとのギャップがあり過ぎて混乱した。するとフェル様は困ったような顔で言った。
「まあ、つき合いが長い僕でも、彼が叔父なんだか同級生なんだか、よくわからなくなる時があるんだけど」
「ふふっ!」
「……あのね。エミリー」
「はい」
「僕の話ですまないけど、聞いてくれるかい?」
彼は静かに口を開いた。
「――僕は将来、父の後を継ぐことになるだろう」
「……」
フェル様が御父上様の後を継ぐ――それは筆頭貴族たるヴァレット公爵家の当主、そして宰相にいずれ彼がなるということ。
「宰相になるものは、自分ではなく誰かのため、つまり国のためにこの身の全てを捧げなければならない。でも、それを自分はできるのだろうか? そんなことを自分は本当にしたいのだろうか? 子供の頃からずっと疑問だった。自分に自信が持てなかった。……誰にもそんなこと、話せなかったしね」
努めて明るい声音で語るフェル様――。
しかし、彼が密かに強いプレッシャーと、誰にも言えない苦悩をずっと抱えていたことを初めて知り、胸が締めつけられていく。
私だって……。
許嫁のジェレミから見捨てられたことを。ローラと出会うまで学院で一人ぼっちだったことを。ずっと日陰者で空気みたいだったことを――。
家族にどうしても打ち明けられなかったから……。
「でも、君を知ってから、僕は変わったんだ」
「私を?」
「誰かのために、陰ながらでも一生懸命になれることは、とても素敵なことだって。段々そう思えるようになった。エミリー。だから僕は――」
フェル様は私の両肩にそっと触れた。
「そんな君に。君だけに、惹かれているんだ」‘
「……」
――胸が苦しくて、言葉が出なかった。
(私なんかより、フェル様の方が――)
誰かが見ていようが見てなかろうが、いつも誰かを助けようとしていて。
だって、生徒会にいるときの彼はいつもそう。
そして、私が見ていないところでも、きっと同じようにしていると思う。
かつて、私が歩けなくなって誰も助けてくれなかったとき、真っ先に駆けつけてくれたみたいに――。
フェル様は学院の生徒たちの憧れの存在だ。でも、彼が陰ながら頑張っていることとか、とっても思いやり深いこととかなんて、きっと誰も知らない。けれど、彼にとって、それはどうでもいいことなのかもしれない。それよりも、いつも誰かのことを気にかけて、困った人がいればそっと助けて。
まるで息を吸うかのように。
――でも本当は。
誰にも想像できない息の詰まるようなプレッシャーにたった一人、ずっと耐えながら。今でも苦しみながら……。
黄金色の夕焼けに照らされてキラキラと輝くフェル様の、その美しい顔にかかる深い陰り――。
「フェル様だって……!」
(日陰者じゃないか――)
そう言い返したくてたまらなかった。
でも、目の奥が熱くなってしまって、それを堪えるのに精一杯で。
言えなかった。
私はなんて、言葉を紡ぐことが下手なのだろう……。
「――エミリー」
私の身体は抱き寄せられていた。
「僕の気持ちを、わかってくれたかい?」
「……」
うなずきながら、涙がどうしても止まらない顔を、彼の肩に強く押しつけた。
優しい夕日は、誰も見ていない日陰者の私たちを、ただただ照らし続けた――。




