20. 攻略対象フェルナン・ヴァレット2
「フェルナン様、御主人様がお呼びです」
エミリーと出掛けた日の夜遅く。勉強中だった僕は、執事からの声に手を止めた。
「わかった。今から行く」
父の書斎に向かう。
「父上、何か御用でしょうか?」
執務中の父が顔を上げた。厳格な表情、そして仕事中毒ぶりは相変わらずだ。
「ルーレアン家から手紙が届いた」
「……」
父が告げた言葉に、嫌な予感でいっぱいになる――。
この国には二つの公爵家が存在する。一つはわが家、そしてもう一つはルーレアン家だ。
「お前とベアトリス殿との婚約の話を進めたいとのことだ」
やはりそうか……。
僕は黙り込んだ。ベアトリスはルーレアン公爵家の令嬢であり、僕とは親戚の仲だ。そして学院の特別クラスの同級生でもある。
ベアトリスのことは子供の頃から知っているが、恋愛感情はまったくない。一方彼女は、いずれ僕と結婚するのだと他の生徒たちに自慢気によく語っている。そんな彼女に対して、僕は辟易した気持ちしか持ちあわせていない。
しかし、以前からうすうす予想はしていた。家格が重んじられるこの国で、同じ公爵家、同じ歳同士、そしてルーレアン家は典型的な貴族の価値観を持っている。
だから、いずれこの話が出るかもしれないと、密かに恐れていたのだ。
「どうした? 不服か?」
「……」
「煮えきらない奴だ。もしや他に意中の相手がいるのか? それは誰だ? 申せ」
「……」
「まさか、家格の異なる家のご令嬢ではあるまいな……?」
父はその厳しい表情をさらにしかめながら続けた。
「フェルナン。お前はこの家の跡取りなのだぞ。私情を優先できる立場でないことは、今更お前に言うことではないはずだ」
父から釘を指される。宰相という重役を担い、貴族の模範から外れずに物事を考える生粋の貴族。僕は父のことを、そういう人間だと思っている。
僕はいずれ公爵家を継ぎ、そして宰相の座を担うことになるだろう。ゆえに僕が迎える妻も同じ家格であるべき。父はそう言っているのだ。それは、何も不思議なことではないとわかっている。が……。
「父上。お話はわかりました。しかし、いま急ぐ話でもなかろうかと。失礼します」
僕が書斎を出ようとすると、父は言った。
「フェルナン。この話はお前個人の話ではない。貴族の家同士の話だ。……それをゆめゆめ忘れるな」
部屋に戻り椅子に座る。
「……」
この虚しいような、やるせないような気持ちは一体何だ。
「エミリー」
なぜか無性に彼女に会いたくてたまらなかった。
「もう夕食も食べ終わった頃かな……」
お昼前に激しくお腹を鳴らしていたエミリー。一緒に行ったレストランで、彼女にもっと食べさせてあげれば良かった。いまさらそう思った。
「エミリー……」
彼女はきっと、去年彼女が校庭で怪我したときに会ったことが、僕との初対面だと思っていることだろう。直接言葉を交わしたのは確かにあのとき。
でも実は、僕は彼女のことを、それより前から知っていた――
『叔父上。一般クラスの方では何かありましたか?』
去年の一年生のときのことだ。
わが国の王太子であるシャルルを護るため、僕と叔父のアランは、入学してからずっと学院内の情報収集に努めていた。
この国は安定している。治安もすこぶる良い。しかし、近年は平民が力を付けつつあり、従来の貴族の特権に対する不満など、不穏な空気も生まれ始めている。伝統あるヴェルナーサ学院において、学生がシャルルに危害を加える可能性は極めて低いとはいえ、万全を期す必要があったのだ。
『特にないよ。ただね……。相変わらず貴族による平民いじめがひどいねぇ』
『……』
『陰湿なやり方が多くてね。見ていられなくなるよ。まあ、僕が昔、本当に学生だった頃と変わりないかな」
『そうですか……』
僕が在籍する特別クラスでも、貴族間の格差は歴然と存在する。しかし学院のいろいろな歪みは、アランが今いる一般クラスの方が、よりはっきりと見えるのだろう。
『でもね、一人変わった子がいるんだよ』
『変わった子、ですか?』
アランは語った。
『それでね。この前さ、平民の女子生徒が色恋沙汰で子爵令嬢とトラブルになったんだ。さすがに見ていられないと思って僕が動こうとしたら、その子がこっそり助けようとしてね』
『その子は……その平民の生徒と友人なのですか?』
『違うと思う。だって、その子は男爵家のご令嬢だから。貴族の彼女じゃ、平民の友人グループに入れないからね』
僕は驚いた。ならどうして、彼女はその平民の女子生徒を助けようと思ったのだろう?
『その子は何という名ですか?』
『エミリー・ランベーヌだ』
『エミリー……ランベーヌ……』
その後も、同じような話を僕はアランから何度か聞くことになる。エミリーが校庭で怪我したときに偶然会話をしたのは、その後のことだったのだ。
ところで――。
実は、僕は女性が苦手だ。公爵家の嫡男という立場のため、子供の頃から、女性たちからはまるで獲物のように狙われ続けてきた。媚薬。いや、薬とすら言えない粗悪な代物を盛られて死にかけたこともあった。
そのため僕は、女性の前に立つと反射的に警戒心が立ち上がる。微笑みながら女性を無難にあしらうことだけ、ひたすら上手くなっていった。
――そんな僕が初めて関心を抱いた女性が、エミリーだった。
貴族だけどあまり貴族らしくないという彼女のことだけ、どんな人なのだろうかとずっと気になっていたのだ。
その後二年生となり、ローラの事件をきっかけに、僕はエミリーと話す仲になった。実際に話してみると、噛み噛みでいっぱいいっぱいの、普通の女の子だった。
でも、誰も知らないような不思議な豆知識になぜかやたら詳しく、それをしゃべるときだけは、流暢になるギャップはいつ見ても楽しい。しかも油断していると、急に変な話をし始めて、僕の腹筋を攻撃してくる。
エミリーと一緒にいると、飾らない優しさに包まれるような気がする。ただ側にいるだけで、彼女の温かさが心に染みてくる。
……恵まれた立場に生まれた自分に、これ以上贅沢を言う資格はないことは分かっている。
だけど僕にとって――
毎日生きていくこととは、とてつもなく空虚で。
恐いものだ。
どうして怖いのか?
なぜなら、朝起きると決まって説明のつかない、虚しい気持ちが頭をまず支配しようとするから。それを拭い去ろうと自らを叱り、無理やり気分を奮い立たせようとすることが、いつの頃からか毎朝の日課になった。
その虚しさにいつか飲み込まれてしまうのではないか? という恐怖心を感じながら、僕はずっと生きてきたような気がする。
でも今は違う。
今日も生徒会室でエミリーにまた会えると思うと、気持ちがなぜか自然と上向いてくるのが不思議だ。
――暗闇に閉ざされた僕の部屋。
椅子から立ち上がりつぶやく。
「……しっかりしろ」
虚しさに再び支配されそうだった自分を叱る。
今の僕はたしかに、父の言うことにも逆らえない、何も出来ない学生だ。
でも、そうだからと諦め、折れてしまったら。
すべては終わってしまうのだから――。