プロローグ:フェルナン・ヴァレット
「――フェル」
僕、フェルナン・ヴァレットが生徒会室で執務に没頭していたら、朝日に金髪を煌めかせながら王太子シャルルが姿を現した。
「朝から熱心だな」
「別に」
「お前、いつか過労で死ぬぞ」
「いま忙しい」
「まったく、いつも真面目すぎるやつだな……」
やれやれと言わんばかりのため息をついた彼、王太子シャルルは僕の幼馴染にして親友だ。
「さすがは筆頭公爵ヴァレット家の嫡男にして、将来は宰相になると言われる男。これなら、私が王となっても王国の未来は安泰だな」
シャルルは向かいに腰を下ろし、髪をかき上げながら冗談めかして笑った。
その様子から、何か相談事があるのだとすぐに悟り、まっすぐに彼を見つめた。
「どうした? シャルル」
「……例の転校生についてな」
「ローラの件か……」
今学期に突然転校してきたローラは、ただの学生ではない。僕たちは彼女の正体を知っている。
「クラスで激しい嫉妬を受けていると噂に聞いた。彼女が孤立しているのではないか、と気になってね」
シャルルの理知的な青い瞳には、深い憂いの影が落ちていた。
「いや。ローラには、友だちができたらしい」
「友だち?」
「エミリーという子だ」
「エミリー? どんな子なんだ、その子は?」
興味を引かれたのか、シャルルは身を乗り出してきた。
「優しくて、公平な子だ」
「は? 優しい? 公平? ……なら、平民の生徒なのか?」
「いいや。貴族令嬢だ」
「……」
シャルルは瞳をぱちりと大きく瞬かせた。
このヴェルナーサ学院には厳然たる身分差があり、互いに足を引っ張り合うことも日常茶飯事だ。そんな環境で、貴族令嬢たちは気の強い、そして保身に長けた性格へと育つ。ゆえにシャルルには、エミリーが異質な存在に感じられたのだろう。
「本当だ。例えばね――」
僕は語った。
貴族の生徒から執拗ないじめを受けていた平民の生徒を、その子が陰で救ったこと。あるいは、成績優秀ながら原因不明の病に苦しんでいた生徒に異国の医師を紹介し、その生徒を快復へと導いたこと――などを。
「……」
シャルルは驚いていた。
「僕だって、きちんと話したことはないよ。僕たちとはクラスが違うから」
「そうか。君の叔父君から聞いたのか」
「ああ」
けれど、僕も実際に見たことがある――。
廊下を歩いていたとき、体調を崩して倒れかけた女子を見かけた。心配になり駆け寄ろうとしたその瞬間、どこからともなく彼女が現れ、そっと寄り添って介抱したのを。
「どちらの令嬢なんだ?」
「ランベーヌ家だ」
「ランベーヌ……。たしか、商業ルートの開拓で功績を挙げ、二代前に叙爵された男爵家だったか」
「そうだ」
「闊達な子なんだろうな」
「……」
「ん? どうした? フェル?」
「何と言えばいいのか……。行動的な面もあるが、普段はむしろ大人しいらしい」
「大人しい?」
学院に潜入して久しい叔父の話によると、エミリー・ランベーヌ嬢はいつも目立たず、静かにしているらしい。
「――きっと、芯が強い子なんだと思う」
彼女のことを知って以来、見かけるたびに思わず視線を奪われるようになった。
見た目はたしかに大人しそうで、ブラウンの髪をした小柄な普通の女の子だった。
けれど、なぜか彼女のことが眩しく見えた。
自分も彼女のようにありたい――いつしかそう思うようになっていた。
「そんな良い子がそばにいてくれるのなら、ローラもいずれクラスに馴染めるかもしれんな」
「ああ。だが、引き続き警戒は怠らない方がいいだろう」
「うむ。ところで……」
シャルルは口元をゆるめると、楽しそうに笑った。
「今日は実に珍しいものを見た」
「……どうした?」
「エミリー・ランベーヌ、か。覚えておこう。……ふっ」
「ん?」
「女嫌いで知られるフェルナン・ヴァレット公爵令息が、そこまで一人の女の子に執着するとはな」
「しゅ、執着!?」
カチリと音を立て、手元からペンが滑り落ちた。
「べ、別に……」
「昔から女子をあしらってばかりのフェルが逆に翻弄される姿を、この目でぜひ見てみたいものだ」
「はあっ!?」
……実をいうと、彼女と一度だけ言葉を交わしたことはある。
しかし、彼女は僕のことなんて興味もないだろうし、覚えてすらないだろう。それに、僕にはまだそういった話はないが、貴族令嬢ならそろそろ婚約の話が持ち上がって、将来を誓い合う相手がいてもおかしくはない。
だから、シャルルが期待するような未来は存在しないはずなのだ。
「フェル。邪魔して悪かったな」
「構わないさ」
「また相談に乗ってくれたらありがたい」
「ああ。ローラを守るのは僕たちの使命だからな」
シャルルは深くうなずいた。転校生ローラの件は、実のところシャルルの父の願い――王命だ。
「あとフェルも、そのエミリーって子といつか仲良くなれるといいな!」
「うるさい」
「ははっ! 先に教室に行ってるぞ!」
シャルルは手を振りながら去っていった。
「……」
(――エミリー・ランベーヌ、か……)
再びペンを取ったが、筆は進まなかった。
密かに気にかけ続けてきたあの子のことを、まさかシャルルに語る日が来るなんて思っていなかったから。
席を立つ。窓辺へと歩み寄って、華やかさばかりが取り繕われた学院を見渡す。
(僕には、転校生のローラを守るという使命がある。けれど――)
「エミリー・ランベーヌのことも、必ず守る。そうすればいい」
――しかし、あの頃はまだ、何ひとつ知らなかった。
エミリーが、僕の唯一無二の存在になることを。
僕とシャルルの未来が、静かに破滅への坂を転げ落ち始めていたことを。
そしてエミリーが、僕たちにまで救いの手を差し伸べることになるなんて――。




