第6話 沈黙より近く、言葉より遠く
サシャの部屋を辞し、回廊に出た瞬間。
空気の温度が、わずかに変わった気がした。
イーヴの腕の中には、まだシアノがいた。
彼女の身体は軽く、もう熱もない。
倒れたわけでも、怪我をしたわけでもない。
けれど、“今すぐ離す理由”が、どこにもなかった。
それを理解しているからこそ、イーヴは慎重に歩いていた。
言葉はない。
それでも、手のひらに伝わる体温が、彼の理性をじわじわと侵食していく。
沈黙が、妙に重たい。
「……」
「……」
何かを言おうとした気配が、二人のあいだを何度もすれ違った。
けれど、どちらも踏み込まなかった。
やがて、温室の脇を通る小径に差しかかったとき、
シアノがそっと口を開いた。
「……イーヴ様」
「はい」
即答だった。
けれど、それ以上、何も続けられなかった。
シアノは視線を落としたまま、小さな声で言った。
「……あの、重く……ないですか?」
「いいえ」
即答。
それはまるで、心を遮断するかのような早さだった。
ほんの一拍遅れて、イーヴが少し歩を緩めた。
「もし、歩きにくければ……その、私、自分で……」
「問題ありません」
またも即答。
その冷静さに、シアノはかえって戸惑った。
だけど、イーヴの腕の力が、ほんの少しだけ――ほんのわずかに強くなったことに、彼女は気づいていた。
「……すみません」
思わず謝ってしまう。
なぜ謝るのか、自分でもよくわからなかった。
イーヴは、少しだけ顔を傾けた。
「何についての謝罪ですか?」
「え……その、全部、というか……」
「……謝られる理由が、見当たりません」
声は穏やかだった。
けれど、どこか自分に言い聞かせるような響きがあった。
階段を上がり、控えの間まであと少し。
そのとき、イーヴがそっと口を開いた。
「……シアノ殿」
「……はい?」
「先ほどの件は――すべて、主花さまの命に基づく、制度上の医療行為です」
「……あ、はい……」
分かってはいる。
でもその確認が、逆にくすぐったくて、胸が熱くなる。
「……わたし、もっと、気をつけます」
そう言ったシアノの声は、わずかに震えていた。
気をつける――何に?
態度? 距離? それとも、感情?
自分でも、もうわからなくなっていた。
控えの間の前に着いたとき、イーヴは静かに身体を屈め、
彼女をそっと、床に降ろした。
それは一切の乱れのない所作だった。
「お大事に。異常があれば、いつでも申し出てください」
「……はい」
小さく返事をして、扉の向こうに身を引こうとしたその瞬間。
イーヴが、ふと口を開いた。
「……それと」
「……?」
「……本当に、倒れたわけではないと、私も思っています」
「え……」
「けれど――そうでなければ、助けに行けなかった」
言い終えると同時に、彼はすっと身を翻し、回廊の奥へと歩き去っていった。
残されたシアノは、ぽかんと口を開けたまま、そこに立ち尽くしていた。
胸の奥が、きゅう、と鳴った。
その痛みが何なのか――
そろそろ、名前をつけなければならないのかもしれない。