第5話 これは適切な医療行為です
天の砦が立ち去った後の空気は、どこか甘く、張りつめていた。
扉の外――侍女控えの間で、その一部始終を耳にしていたシアノは、胸の内に消化しきれぬ何かを抱えながら、そっと部屋の敷居を跨いだ。
サシャは長椅子に凭れたまま、まるで何もなかったかのように扇を仰いでいた。
「……サシャさま」
小さな声だった。
けれど、確かな意志を帯びた声。
「私……侍女にすぎませんのに、サシャさまのご迷惑になるようなことを……その……」
視線は床を向いたまま。
言葉を選びながら、小さく肩をすくめる。
その瞬間だった。
「はいはい、もうそれ、禁止」
ぱたりと扇を閉じたサシャが、くいっと手を伸ばす。
「わっ――」
シアノの細い腕を掴んだその手は、容赦なく力強く。
思わずバランスを崩したシアノは、長椅子の上――サシャの膝元へと、倒れ込んだ。
「まぁ、大変」
サシャが大げさに声を上げる。
「私の侍女が、転んでしまったわー!」
あまりにも芝居がかった調子に、思わず空気が止まる。
そして――
サシャはくるりと首を傾けて、背後にいた白衣へ声をかけた。
「イーヴ、助けて差し上げて?」
即答だった。
「はい、主花さま」
まるで儀式の一環のように、イーヴは一歩踏み出し、迷いなくしゃがみ込む。
そして、長椅子に崩れるように身を沈めていたシアノの身体を、両腕にそっと抱き上げた。
「……!」
シアノは声も出せないほど驚いていた。
顔が紅潮し、目は大きく見開かれ、手はどこに置けばいいのかさえわからない。
しかし、イーヴの腕は静かだった。
その動きに、迷いもためらいもなかった。
まるで、これが“職務”であるかのように。
その様子を見て、サシャは――
悪戯っぽく、扇を口元に添えて笑った。
「イーヴ。それ、正統な医療行為よね?」
場に漂う、含みある甘い沈黙。
イーヴは、視線を落とさず、シアノを支えたまま答える。
「はい、主花さま。
これは――適切な医療行為です」
その声には、淡々とした表面の奥に、確かな決意と覚悟が宿っていた。
職責に従っている。
けれどそれは、守るべき誰かがいるからこそ成立している、
ただの職務ではない。
シアノは、それをどう受け取ってよいのか、わからなかった。
「え……あの……っ、す、すみません、わたし、勝手に、ころんでしまって……」
目も合わせられず、ただ慌てふためく。
その姿を、サシャは愉快そうに眺めていた。
「ふふ、だから言ったでしょう?
風が吹いただけでも、倒れてしまうほど華奢なのよ、この子は」
そして、やさしく付け加える。
「ちゃんと支えてあげて、イーヴ。
この子はね、“咲く”にはまだ少しだけ、陽の光が足りないの」
イーヴは、ひとつだけ瞬きをし、それからゆっくりと、頷いた。
「……心得ております」
その答えに、
シアノの鼓動が、初めて“こわい”以外の理由で速くなっていた。