第2話 黒鳥は微笑む、天の檻の前で(前編)
その夜、サシャの部屋に香が焚かれていた。
牡丹を基調に、軽く揮発する花の香は、衣の繊維にまで染みこむ。
侍女のシアノが湯の準備を終えたころ、扉が**「コ……ン」**と一度だけ、叩かれた。
――音が、軽すぎる。
それなのに、空気が一瞬で張りつめた。
サシャは何も言わず、そっと扉の方を見やった。
そして小さくため息をつき、扇を閉じた。
「……入ってもらって」
命じられたシアノが戸を開けると、そこにいたのは白い人影だった。
白装束。
白面。
顔も年齢も性別も見えぬ“誰か”。
ひと目でわかる。
それが――天の砦の使者であることに。
「サシャ・マリール・ヴァレリオン殿」
名を呼ぶ声は、ひどく平板だった。
まるで誰かが紙に書いた文字を、そのまま口にしているような。
「主花としての立場に基づき、陪花候補者の処遇について、是正の通知を申し渡します」
シアノの身体が、ぴたりと止まる。
使者は一歩も動かず、ただその場に立ったまま告げる。
「陪花候補の心的傾斜が制度基準を逸脱しているとの記録が複数確認されました。
本件に関し、天の砦より以下の三点を勧告いたします。
一、陪花候補の立場を即刻“主花侍女”へと格下げすること。
二、主花との接触機会を制限し、感情的干渉の再発を防止すること。
三、今後の花選定において、当候補者を名簿より外すこと」
言い終わるまで、呼吸すらなかった。
仮面の奥が笑っているのか怒っているのか、それすらわからない。
だが。
「……ふぅん」
サシャは、微笑んだ。
それは、飄々とした“黒鳥の仮面”をまとった女の顔だった。
「言いたいことはそれで全部?」
「……これらの指導内容は、天の砦の裁定会議における正式な決議に基づいております。
主花殿におかれましては、三日以内に報告書への記名と指導方針の署名を――」
「それ、提出先はカミーユ様?」
サシャの声色が、わずかに変わった。
いつも通りの笑みのまま、だが瞳だけが鋭くなっていた。
「ならいいわ。――わたしの“恋文”として、添えておいて」
沈黙。
使者は一瞬だけ動きを止めたが、それでも構わず言葉を継いだ。
「文面には“制度的逸脱の兆候”として主花殿ご自身も対象として――」
「シアノは“制度的逸脱”なんかじゃないわよ」
その言葉には、明確な断罪の色が混じっていた。
「わたしは、あの子を“侍女”として側に置いているんじゃない。
“心ある者”として、自分で選んで、傍に置いてるの」
サシャはそっと立ち上がり、シアノの肩に手を置いた。
そのまま、白装束の使者へと一歩だけ進み出る。
「花が咲くことが制度じゃない。
制度が花を咲かせるんじゃないのよ」
「……主花殿」
「あなたたちが何を記録して、何を見て、何を縛ろうとしてるのか。
――いい加減、花の匂いくらい覚えたら?」