第1話 雨の中庭、君と本の間で
ヴァレリオン宗家の最奥――
温室に囲まれた「内庭」は、外界から完全に隔絶された静かな空間。
そこは、陪花候補でありながらまだ何者にもなれない少女・シアノが、唯一心をほどける場所だった。
雨の日、藤棚の下で本を読んでいると、サシャが一冊の古びた恋愛小説を渡してくる。
「夢くらい見なさいな。温室育ちの乙女なんだから」
その本には、異国の王子と“毒姫”の恋が綴られていた。
王子は寡黙で、だが誰よりも姫を見ていた。その手は、どんな毒も癒す“聖者の手”。
――どこかで見たような。
そんな想いが胸をよぎった。
別の日の雨。濡れた藤棚の下にいたシアノの肩に、そっと布がかけられる。
「……風邪を引く」
白衣の青年、イーヴ。
宗家侍従にして、医務局所属の侍医。
静かに肩を拭う彼の手は、まるで毒に触れぬよう繊細で、あたたかかった。
「……王子様」
ぽつりと零れた言葉に、イーヴの指がぴたりと止まる。
「……何と?」
「あ、あの、本の中の……」
頬が熱くなる。雨のせいじゃない。
ある日、控え室に置かれていた贈り物。
紫水晶のかんざし――毒の調律石を埋め込んだ工芸品。
誰が贈ったのか、皆知らないという。
ただ、サシャだけが微笑んで言う。
「ふふ。あの人、わかりやすいのに隠すのだけは上手なのよね」
何も知らないふりをしながら、シアノはそっとかんざしを髪に挿した。
ほんの少し、胸の奥が熱くなった。
それが“恋”と気づくには、まだ時間が必要だった。