1 - 守護神ジャス(イラスト入り)
主人公の立ち絵はただのムトー様より提供されました。ありがとうございます。
まどろみの中のあたしは小さくくしゃみをした。身震いしつつ身を包んでる大きめな毛皮を身体近くに抱き寄せた。冬真っ最中の朝の寒さは土レンガで出来たあたしたちの家の壁をあっさり貫通してくる。
「ジャス、やっと起きたの?朝ご飯もうすぐできるから身支度しなさい。こんな日に遅れたくないでしょう?」
毛皮の中から絶対出たくないけど、母さんの声はそんな甘えを許してくれなかった。
「ふぁぁぁい…」
あくびをしながら立ち上がる。母さんは部屋の中心にあるいろりで何かのスープを作ってる。なのに部屋の中がこんなにも寒いとは外に出るのが怖くなるけど、そうも言っていられない。今日はあたしの8歳の誕生日で、「守護神」になる日なのだから。
言われた通りに今日初めて着る正装に着替える。お胸と腰だけを隠す黒い布は、身体にぴっちりフィットしてるおかげか見た目よりは温かいけど、露出してる無防備の肌は多すぎてやっぱり寒い。白いマントと頑丈なブーツを足してもそれは変わらない。この服を考えた人は絶対こういう天気の日を考えてなかった。
「ねぇ母さん、本当にこれじゃなきゃ駄目なの?寒くて死んじゃうよ。」
「今日だけは我慢しなさい。あとで上に何かを羽織っても誰も気にしないけど、正装でなければ儀式は受けられないの。」
「むぅー」
母さんはボウルを手渡す。冬でも採れる豆と燻製肉で作った簡易なスープ。でもあたしは熱々のそれを一気に胃に流し込むと身体の中から暖かくなって少し気持ちが楽になる。
「ちょっと、具が喉に詰まっても母さんは知らないよ。」
「ごめんごめん、母さんの料理が美味しくてつい。」
別に嘘じゃない。こんな簡単な料理でも母さんの味付けはうまいもん。
「もう、調子のいい子。」
母さんはそういうけど、ゆっくりと左右に動くふさふさの尻尾は褒められて嬉しいことを示す。あたしたち狼獣人はみんな尻尾が素直だから腹芸はできないって、集落に来る異種族の使いがみんな言う。腹芸ってよく分からないけど、確かにあたしたちの尻尾は素直に心を表す。これがないヒトはどうやって通じ合うのかが不思議。
———
家の外に出ると、真っ白な服に包んだ大人の男二人がまるで寒さを感じてないようなただ住まいで待っていた。祈祷師さんとその助手。何も喋ることなく二人はただ頷いて、あたしを手招きする。母さんはあたしの肩を叩いて小声で「頑張るのよ」と囁く。
残念ながら、あたしにはお父さんがいない。みんなを守る立派な憑き人だったけど、あたしの今よりも小さい頃に北の巨人族との戦いで命を落としたらしくて顔も覚えてないの。だから今日あたしを見送るのは母さんだけ。
覚えてもいないから悲しいとかそういう気持ちはないけど、あたしが守護神に選ばれた日はお父さんの仇を討てるようにと言われていたみたいでちょっと嬉しかった。
あたしはそのまま集落の中心にある精霊様の祠に案内される。中には火がついた香炉と、赤い液体の入ったボウル。きっと祈祷師さんたちは日が登る前から儀式の準備を進めていた。祠を満たす煙は変な臭いで、ちょっと頭がくらくらする。でも儀式の手順は耳にタコができるほど聞かされたから、言われるまでもなくあたしは部屋の中心に胡座をかく。
「では、失礼。」
助手さんはあたしの後ろに座り、赤い液体の入ったボウルを片手に取り、動物の骨でできた鋭い針をその中に漬ける。
「儀式が終わるまでは動くのも声を出すのも我慢してくれ。幼い君には酷な話だが、守護神はそういうものだ。」
これも何度も聞かされた。大人になるまで誰が憑き人で誰が違うのが分からないから、それを率いる守護神は幼い頃から修行を積んで万が一でも呪いが発症しうる前に、つまり子供のうちに儀式を済ませるのが決まりらしい。大丈夫、あたしは物心がついたからこの日のために精神鍛錬をしてきた。ちょっとの間じっとするぐらい簡単。
針が、あたしの腕の肌に突き刺さる。痛みが身体を駆け巡る。あたしは目を見開いて、歯を食いしばって、叫びたいのを必死に我慢する。尻尾の毛が逆立ちしてる。でも助手さんは構わず、何度も何度も針をチクチクと突き刺さる。その跡に鈍い赤色が肌に刻まれる。
その間、祈祷師さんは干した木の実と葉っぱときのことあまり正体を考えたくないものを別の皿に放り込んで何かの詩を歌いながらすりこぎ棒で潰してる。痛みから意思をそらすために歌声に集中しようとする。
時間は流れる。歌が続く。針がチクチクと進む。香炉から漂う煙は鼻から肺に入り込んで頭が朦朧とする。しばらくするともう痛みを感じなくなる。その頃の助手さんはあたしの前に回り込んでおでこと目の下にまで針を通し始めたので、あたしの感覚がまだ正常だったらきっと今までよりずっと痛かったと思う。
「ナット様、終わりました。」
「ああ、こっちもだ。さあ、ジャス。精霊様に失礼のないように。」
祈祷師さんはさっきまで作っていたお薬と水袋をあたしに手渡した。もう頭がよく回らないあたしはそれに嫌悪感を感じることなくペースト状の薬を口に含んで生暖かい水で流し込む。それを見届けた祈祷師さんと助手さんは立ち上がりあたし一人を残して祠を後にする。
そしてすぐにあたしの目の前の世界が歪む。
———
形も色もない世界の中で、あたしの目の前に唯一姿がはっきりしてる…顔のない大きな黒獣がいる。その気になればあたしなんて一口で食べられそうなそれは、不思議と怖くない。
獣は喋る。
「なるほど、君は今回の契約者か。」
「あ、あなたが精霊様?」
「あぁ。君の部族にそう呼ばれてる存在だ。」
緊張があたしを金縛りにする。あたしもお母さんも祈祷師さんも長老様も生まれるより前からあたしたちを見守って力を与えてくれた精霊様が目の前にいる。今日会うと分かっていたはずなのに、声が喉に引っかかって出ない。
「ふふ…非日常を恐れるのは分かるが、君が我を捉えられる時間はそう長くない。」
「そ、そうなんだ。ごめんなさい…」
「いいとも。君の先代も殆どそのように強張っていた。」
そう言われると少し気持ちが楽になる。同時に、儀式のために私から話を切り出す必要がある
「あ、あの。力を授けて、一族の守護神となるために、来ました。」
「あぁ。」
目がどこにもない精霊様なのに、じっと見られてる気がする。まるであたしを値踏みするのように。
「我は獣性を司る精霊。我と契約すれば、ひとまずは君の部族が言う憑き人を魅了して導く魔眼を授けよう。君の素質と努力次第で他にも様々な力に目覚めるだろう。その対価に…そうだな、今回は右手を頂くとしよう。この契約を望むのなら小娘、名乗れよ。」
「み、右手?!手が無くなったら戦えないんじゃ…」
「心配するな。代わりとなるものを渡す。見てくれは悪いがな。」
うぅ…何かを取られるって聞かされたけど…さすがに手は躊躇する。でも…
…ううん。ここまで来て精霊様を拒んだらあたしの修行は台無し、みんなを守る次の守護神が育てるまで集落が危なくなる。
何を求められても、あたしは後を引けない。
「あたしは…紅牙族のジャス!今日からは守護神ジャス!その契約受けてもらいましゅ!…ます!」
口上を噛んだ。最悪。
「よかろう。」
精霊様はそれを気に留めることもなく、さっきまで無かった口を大きく開いてあたしに飛びつく。目一杯に写る鋭い牙はあたしの手首に突き立てられる。肉が、筋が、骨が噛みちぎられるとてつもなくイヤな音。入れ墨の針と比べ物にもならない激痛、喪失感。たまらず甲高い悲鳴をあげる。
次の瞬間、精霊様の姿が霧のように溶けて、色も形もなくなった祠の風景だけが残る。あたしの存在もその風景と一つになるみたいに溶けてるように感じて、世界が暗転する。
———
目を覚ました時、世界がいつもの姿を取り戻していた。香炉はもう燃え尽きて、祠の中が薄暗い。恐る恐ると右手に目をやると、腕の入れ墨が前よりずっと鮮やかな赤になってた。そしてその先にちゃんと手がついていた。でも、あたしの…ヒトの手じゃない。それが手首から指先まで精霊様の体のように真っ黒で、骨の繋ぎ方がどこかデタラメ。指先は5つとも獣の爪のように鋭い。しかしあたしが念じればあたしのもののように動く、異形の手。
急に嘔気が込み上げた。手が気持ち悪いからだけじゃない。多分今になって精霊様と対面するための薬を、身体が拒絶してる。せめて祠の中を汚すまいと、よろよろと立ち上がって外に出る。空はもう夕暮れの茜色。
限界。薬は消化しきれなかった朝食のスープを連れて喉まで戻って来る。
「おえ”え”え”え”ーーーーー」
あたしの情けない声に釣られて、集落のみんなが集まってくる。
「ジャスが出てきたぞ!」
「聖なる印が定着してる!それにあの手、精霊様に触られたに違いない!!」
「やった!儀式が成功!新たな守護神の誕生だ!」
「おえ”え”え”え”え”え”え”ーーー」
祭り騒ぎはせめて吐き終わってからにして欲しいと、心の底から思った。
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