第二章:名を宿す花
「ん……」
今日もいつものように朝を迎えた。変化があるとすれば、雪が薄っすら積もっていること。
そろそろ巫女がご飯を届けに来るだろう。そう思って境内まで行くと、視界の隅に違和感を覚えた。
「人……!?」
鳥居の向こう側。雪の中に倒れている見知らぬ少年。きっと年は私と同じくらいだろう。
「本当は境内から出てはいけないけど……」
私は男の子の元へと向かった。
巫女に見つかれば、きっと追い出されてしまうだろう。この神社は、村の人は入ってはいけない決まりになっているのだから。
彼の顔には血の気がなく、痩せ細っていた。身体中が冷え切っている。
「あの、大丈夫ですか?」
私はそっと膝をつき、彼に手を伸ばして言った。返答は無い。
──このままだったら、雪の中で命を落としてしまうかもしれない。
巫女が来る前に、安全な所へと運ばなければ。
私は体が強い方ではないので、きっとこの男の子を運ぶことは出来ないだろう。
そう考えて、私は足元に太めの蔦を生やした。
するすると伸びた蔦が、雪の中の少年をそっと包みこむ。
そのまま私は、彼を部屋へと運ぶことにした。
◇
暖かい。
雪の中で倒れたはずなのに、身体を刺すような寒さは和らいでいた。
だけど、火の温もりではない。柔らかい布団が俺の身体を覆っている。
「……ん」
まぶたが、重たい。
ゆっくりと目を開けると、見慣れない天井がぼんやりと浮かんできた。
木造の梁、静かな空気。
微かに感じる草花の匂い。
ここは……どこだ?
思考がまだうまく働かない。
寝返りを打とうとして力を込めると、不意に誰かの声が響いた。
「目が、覚めた?」
驚いて身体を起き上がらせた。見ればそこには、1人の少女が。
──俺と同じように、片目が赤い少女がいた。
彼女も俺の目を見て驚いているのだろう。口元を手で覆っていて、動揺しているのが分かる。
なぜだ……?
今までこんなことはなかった。
この赤い瞳は、恐らく俺の花を咲かせる能力の影響だ。
この能力も、赤い瞳も「呪い」として村の人々に忌み嫌われてきた。
だが、目の前にいる少女も俺と同じ目を持っている。
俺と、同じ……
何か言葉を発しようとしたが、喉が渇いてうまく声が出なかった。
沈黙が、冷たい空気の中に漂う。
先に口を開いたのは彼女の方だった。
「あなた、誰……?その目、どういうこと?」
その声は冷静で、どこか戸惑いも含んだ声だった。
俺は唇を開きかけて、少し迷った。
──俺は、誰だ?
名前を言おうと思ったけど、考えても、考えても思い出せない。
ずっと「化け物」と呼ばれてきた。
そもそも俺に、名前なんてあっただろうか。
「俺は……化け物だ。本当の名前は知らない。ずっとそう、呼ばれてきた」
こう答えるしかなかった。全て本当のことだ。
急に「化け物だ」なんて言ってしまったら、彼女も困惑するだろうに、そんな事は一切考えなかった。
「そう、なの……。私は、生き神。私も本当の名前は知らない。貴方と同じで、ずっとそう呼ばれてきたから」
「え……」
彼女の言うことに喫驚した。何故、生き神なのか。何故俺と同じ目を持っていて、生き神と呼ばれているのか。気になって、気になって仕方がなかった。
口を開こうとする前に、彼女が言葉を発した。
「ねえ、何故化け物と呼ばれていて、あんな所に倒れていたの?何故、──私と同じ、赤い瞳なの?全部、貴方のことを全部教えて」
俺は少し躊躇ったが、彼女の勢いに負けて口を開いてしまった。
◇
気づけば、雪がやんでいた。窓の外には白銀の景色が静かに広がっている。
話し合う前に、彼女が自分のご飯をくれた。最初は遠慮したが、やはり何日も食べていない空腹には耐えられなかった。
食べ終わったら、それぞれの境遇について長い間話し合った。俺は「化け物」だと言われて、村を追われたこと。
花──植物を生み出す能力があること。名前すら覚えていないことを。
彼女はまた、「生き神」として神社に幽閉されていること。外の世界を知らないまま過ごしてきたことを語った。
言葉を交わすうちに、互いの孤独が少しずつとけていくような気がした。
やがて話すことが尽き、彼女が俺の赤い瞳をじっと見つめた。俺もまた、彼女の綺麗な瞳を見つめ返す。
「ねえ、名前が無いのって不便じゃない?」
唐突に彼女が口を開いた。俺は、思いもよらないことに瞬きを繰り返す。
「名前……確かに、そうだな。でも俺はどうしても名前が思い出せないんだ」
申し訳なく答えると、彼女は表情を変える。
「じゃあ、私がつけてあげる。貴方も、私に名前をつけてくれない?」
「俺が、?」
俺は目を見開いた。新しい名前をつけるなんて、考えてもいなかったからだ。
「ええ、だって呼ぶのに困るもの。村の人がどんな名前をしているかは、分からないけど……私たちは私たちらしく、花の名前にしたらいいんじゃないかしら」
「好きな花とか」そう言って彼女は色々な花を咲かせる。
好きな、花……そう聞いて、俺はあの花が真っ先に思い浮かんだ。小さい頃だから、記憶が曖昧かもしれないけど……
──竜胆。母さんが、好きだと言っていた花。1人になってからも、辛いことがあるといつも竜胆を咲かせて元気をもらっていた。
「……竜胆。俺の、1番好きな花。小さいけど、色鮮やかですごく綺麗な花なんだ」
「竜胆……素敵な名前ね」
そう言うと彼女は竜胆を咲かせた。手の中に、鮮やかな紫色の竜胆が広がる。その花は静かに揺れて、ふわりと香りを放った。
「綺麗な花ね、ありがとう。この名前、気に入ったわ」
「そっか。それは、よかった」
「じゃあ、次は貴方の番ね」
そう言うと、彼女──竜胆は、一輪の白い花を咲かせた。
「これは?」
「これはね、待雪草。別名雪の花とも言うの。雪の中にいた貴方にぴったりだと思って」
竜胆は手にもつ花を俺に渡した。不思議と、俺の中に温かさが広がっていくような気がした。
「貴方の名前は、雪。どうかしら?」
「雪……すごく、いいと思う。ありがとう、俺に名前をくれて」
俺は竜胆の赤い瞳を覗き込んだ。初めて俺の気持ちを分かってくれた人。そして、俺に名前をくれた人。
母さんがいなくなってから、初めて孤独が和らいだ気がした。ずっとこのまま2人でいたいと思った。
──この幸せがずっと続かないと、分かっていたのに。