6話
「はい・・・すみません。熱で、はい。ご迷惑を・・・はい。失礼いたします」
携帯の電話を切り、俺は深いため息を吐いた。昨日冷えていたのに遅くまで勉強していたせいかもしれない。
俺は布団に入る前に、もう一度体温計を脇に差して、熱を測ってみた。
何度測っても同じだというのに、俺は働きたくて仕方が無いらしい。身体は鉄の様に重いのに、気持ちだけが前のめりだ。
ピピっと、体温計の音が鳴った。
「38.7度か・・・」
やっちまったな。思ったより熱が高い。今日だけで治ればいいんだが・・・
「はぁー」
俺はまたため息を吐きながら、布団の中に潜り込んだ。身体の表面はこんなにも熱いのに、恐ろしい程に寒気を感じる。なのに何枚も重ねた布団は熱いと感じるもんだからたまったもんじゃない。
だが汗をかかないと風邪は治らない。俺は意地でも布団から体を出さないぞ。
そういえば、俺が風邪を引くのは久しぶりでは無いだろうか?
思い返してみれば、高校生くらいの頃からあまり引いた記憶がないな。久しぶりに風邪を引くと、こんなにもしんどいんだな。
え?こんなにしんどかったっけ? ただの風邪じゃなかったらどうしよう。インフルエンザとかだったら一週間は働けないもんなぁ。引っ越し費用払えなかったらどうしよう・・・
風邪を引いて気持ちが弱っているからか、考えがどんどん良くない方向へと傾いてしまう。
駄目だ駄目だ。病は気から。とりあえず今はちゃんと寝て、起きたら病院に行って薬を貰おう。大丈夫。すぐに治るさ。
俺はそう自分に言い聞かせて、俺がなんとか眠ろうとウトウトしていたその時、自室の扉が静かに開いた。
ったく、誰だよ。まあ平日の昼間に家にいるのは一人しかいない。
「熱は?」
母さんが少し開いた扉の隙間から顔だけ出して聞いてきた。
「あぁちょっとあるけど大丈夫。今日中に治す」
「仕事は?」
「大丈夫だって、さっき休むって連絡したから」
「・・・そう」
母はそう言いながら、なかなか扉から顔を引っ込めはしなかった。
一体何の用なんだ。早くどっか行ってくんねーかな。俺はすぐにでも寝たいんだが。
俺は熱のせいなのか、はたまたもう少しで寝れたのに起こされたせいなのか、かなりイライラしていた。
「────本当に大丈夫なの?」
その一言が、俺の弱った心に深く刺さった。
「大丈夫だってつってんだろ! 早く出てけよ!」
俺は母さんに怒鳴りつけた。部屋が暗くて、母さんがどんな表情をしているのかは分からなかった。
母さんは何も言わず、俺から部屋の扉を静かに閉めた。
・・・少し、言い過ぎだったのかもしれない。
いや、どうでもいい。どうせ何もしてくれないんだから、俺の療養を邪魔するから悪いんだ。
俺は布団の中に顔を埋めた。そして、体を丸くする。こうすると自然と眠れるんだ。
ほら見ろ。どんどん眠くなってきた・・・
*
「けほっ、けほっ。母さんしんどいよ・・・」
「はいはい。ただの風邪だよ。寝てたら治る」
母さんは、そうやって素っ気なく答えた。ただ、そんな母さんのボクに触れる手は、どんなものよりも優しく、冷たい手だ。
「うん。朝より下がってる。明日には治ってるよ」
「・・・嫌だ」
「・・・またそう言って、学校行きたくないんでしょ」
母さんはいつもそう言う。
「だって、明日は体育があるし」
「そんな嫌なこと言ってくる奴らなんて、一回ぶん殴ってやったら良いのよ」
「そんな事出来たら苦労しないよ」
俺が悲しげにそう言うと、母さんは『そらそうか』と高笑いした。俺の気持ちも知らないで、呑気なものだ。
「お兄ちゃんはいいよ。体育なんてしないで、あんなに楽しそうにボールを蹴り合ってるだけなんだから。俺もあそこに入れたらなぁ」
「前にも言ったけど、辰馬はあそこに入りたくて入ってるわけじゃないのよ」
「でも、毎日すごい楽しそうだよ」
「それはそうよ。あそこ自体は楽しいところなんだから」
母さんは、寝ている俺の頬に再び手を添えた。ひんやりして気持ちがいい。
「辰馬はね、今はあんなに笑っていられているけど、これから先、すごく悲しいことが待ってるのよ。だから私やお父さんは、あの子を守らないといけないの。その分あなたには苦労をかけるし、寂しい想いもたくさんさせちゃうと思う」
母さんは俺に触れながら、優しい目でそう言った。
でも、母さんの言っていることは俺にはよく分からなかった。俺にとって辰馬は今、すごく楽そうにしているようにしか思えなかったからだ。
「でも・・・これだけは覚えておいて。私もお父さんも、あなたに何かあれば絶対に助けるわ。普段あなたに気にかけてやれなくても、ずっとそう思ってる。だから優馬も本当に困った時が来たら頼ってね」
俺は、何故かその言葉に安心して、意識が朦朧とし始めた。
母さんの手の冷たさが心地よく、俺はすぐに眠れた。
*
結局、あれから風邪は5日も治らかった。思っていたよりも体にガタが来ていたようだ。医者も言っていたが、日ごろの疲れが出たのだろう。
ただ、その分バイトの給料も少なくなってしまった。致し方ないとはいえ、かなりの痛手だ。
それから病み上がりにも関わらず、死にもの狂いで働いたが、金が目標金額に達する事は無かった。とはいえ、引っ越し費用の分はなんとか貯めることが出来たので、転職先の職場に迷惑を掛けることは無さそうだ。
・・・ただ、引っ越した後の給料日までの生活費、主に食費といった金が圧倒的に足りない。
ま、まあなんとかなるだろう。人間死ななければどうとでもなるんだ。
俺は不安な気持ちをなんとか押し殺して、引っ越しの準備をした。アパートの初期費用を払い、引っ越しの荷物を業者に頼んだりしていると、あっという間に時間が過ぎた。
そしてついに明日には東京に行く。この家ともようやくおさらばだ。
早朝、午前5時。
よく眠れたのか、俺はあまり苦労せずに起きることが出来た。バスに間に合わないのが一番怖かったが、こういう時って、不思議とちゃんと起きられるんだよな。
最寄りの電車までまだ時間はあるので、俺は少し家を見回ることにした。
自室のとなりの部屋の扉をこっそりと開ける。扉を開ける前から聞こえていたいびきが良く聞こえるようになった。相変わらずうるさい。あいつのいびきがうるさくなってから、中学の時に部屋を分けてもらった。あの時の俺の英断のおかげで、今日まで俺の安眠は確保されてきたのだ。
昨日も夜中までゲームしていたのか、良く寝ている。辰馬の出勤時間は普通のサラリーマンよりも遅く規定されている。多分障害を持っている彼が通勤ラッシュに巻き込まれないためだろう。
起こすのもあれだったので、部屋の扉を閉めた。
今更辰馬に伝える事なんて、何もないしな。
俺は3階から階段を降りて、リビングへと向かう。トーストをオーブントースターに入れている間に、部屋を眺めながら物思いにふける。
昔はよく家族みんなでここで集まっていた。それがいつからか、みんな揃わなくなった。
父さんは普段仕事だし、休日には趣味のバイクを購入してから、家族といる時間は減った。
母さんはパートを始めてから毎日忙しそうにしていた。確か辰馬が私学に通い始めてから働きだしたんだっけ。ただ今は子供が自立しているからか、時間に余裕が出来、趣味でフラダンスを始めたりしている。
辰馬は、専門学校を卒業してから働きに出てはいるものの、基本自分の部屋から出てこない。故に飯も自室で食べているから、顔を合わせる機会は減った。まあにしてはよく声を掛けられる気はするが気のせいなのかもしれない。
今思えば、うちの家族はみんな一人でいる気がする。それのせいか、あまり家族で何かしたというこれといった思い出が無い。
うちの家族は仲が悪いのだろうか・・・
多分、俺の家族は仲が悪いわけでは無いと思う。ただ、各々が口下手で人づきあいが悪いんだ。
そして、極めつけは俺のせいだと思う。
俺が高校生の時、全てを否定した。
辰馬の枷を、父さんの仕事を、母さんの教育を、俺は全てを否定し、悪態をついた。反抗期や多感な時期なんてもんじゃない。人として最低な事をしたんだ。
それからというもの、家族はバラバラになった気がする。辰馬の障害も年々酷くなっていく。実際悪化しているわけでは無いが、辰馬の年齢や体が成長すればするほど、症状が酷く見えるものらしい。見た目が中学生で中身が子供なのと、見た目がおっさんで中身が子供のどちらが正常に見えるかという問題だ。
辰馬が専門学校を卒業した時、両親は各々自分の好きな事を始めた。ただでさえ人付き合いの苦手な俺たち家族が自分の時間を確保し始めると、自然と家族みんなで過ごす時間は無くなる。
────もっと色々話すべきだった。
ふと、俺はそんな事を思ってしまった。
全く。今更何を言っているんだか。自分でも笑ってしまいそうだ。
焼きあがったトーストを食べ終わると、なんとなく、俺は両親の寝ている1階に降りて、部屋を覗いてみた。
部屋には布団がきれいに2つ畳まれていた。父さんはもういないらしい。こんな朝っぱらから仕事なんだったな。
父さんの仕事はトラックの運転手だ。故に始まる朝も早い。ただ、こんなにも朝早いとは思っていなかった。俺は本当に家族の事を知らないんだな。
最後に別れの挨拶くらい、言わせてほしかった。
「もう出るんでしょ」
「うわ!」
俺は突然聞こえたその声に、思わず驚いてしまった。声が聞こえた方向を振り向くと、そこには車の鍵を持った母さんが腕を組んで立っていた。
そういえば、母さんが寝ているはずの布団も畳まれてたな。なんでこんなにも早い時間に?
「こんな朝早くに、どうしたの」
「バスまで送ってってあげる」
そう言って母さんは車の鍵を俺に見せるように持った。
「いや、遠いからいいよ。今日も仕事なんでしょ?」
「休んだ」
「・・・なんで」
俺がポカンとしていると、母さんは自慢げにウインクした。
「愛する子供の旅立ちだから」
「ハッなんだそら」
もうおばさんなのに何やってんだと、と思ったが、単純に俺はその優しさが嬉しかった。
車に荷物を積めて、母さんは運転席、俺は助手席に乗った。
そういえば、母さんはいつの間に免許を取ったんだろう。父さんがいないのに家の車が無いことは多々あったが、そこまで気にした事が無かった。いやそこは気にしろよ昔の俺。家の車無くなってんだぞ。
「いつ免許取ったんだっけ?」
「あんたが大学生の時よ」
母さんは、車のエンジンを掛けながらそう答えた。
車の中は、ほのかに煙草の臭いがする。この臭いは母さんのではなく、父さんの物だ。父さんは昔から愛煙家で、俺が小さいころからこの臭いが社内に充満している。
「もぅ。車の中で吸わないでっていつも言ってるのに」
母さんはそう言いながら、窓を開けた。
そのまま慣れた手つきで、車を家のガレージから発進させた。
「そういえばあんた、昔はよくこの臭いで吐いてたよね」
「え?あぁそんなこともあったような」
「昔はあんたも辰馬もよく車で吐くもんだから、いつもポリ袋常備してたっけなぁ」
母さんは懐かしむように言った。
それからしばらく、母さんは運転に集中しているからかあまり話すようなことは無くなり、高速道路に乗るまでこの沈黙は続いた。
「父さんと母さんね、最近よく喧嘩してたの」
「え?」
母さんが急にそんな事を言いだした。
喧嘩?いつ?どこで?最近全くお互い話していないように見えていたから、全然知らなかった。
「父さんね。あんたが引っ越しするって言ってから、ずっとうるさかったんだから。『引っ越しの金は大丈夫なのか』とか『引っ越ししてからの事は考えてるのか』とかうるさいのなんのって、それにあんたが久しぶりに風邪引いた時なんか『大丈夫か大丈夫か』ってもううるさいの。それも直接本人に言わず私にばっかり言ってくるんだから」
母さんは愚痴るように言った。
父さんは、昔からそうだった。俺に対する不満や心配事があったとしても、口には出さなかった。まさか母さんにそれを言っていたとは。それが何故なのかは俺にも分からない。
「父さん。あんたの事好きなのよ。直接言って嫌われたら嫌だから、私に言うのよ」
「ハッそんなわけ」
「本当よ。あの人あんたにはカッコつけてるように思うわ」
俺は信じられなかった。俺は昔、父さんに殴られている。それっきり嫌わていたんだと思っていたから。
「まぁ。自分の子供は何があっても可愛く見えるものよ」
「・・・もう子供じゃねえ」
「ははっ何言ってんの。いつまで経っても、私たちから見たら子供のままよ」
「・・・」
俺は、なんとも言えない気持ちだった。暖かくて、寂しくて、何かが溢れてしまいそうだった。俺は、何も言えなかった。
しばらく高速道路を走っていると、目的のバス乗り場まで着いてしまった。もともと電車で来るつもりだったから、少し早く着きすぎてしまった。車は適当なところで停車して、程よい時間まで待機していた。
「・・・母さんね。あなたには苦労を掛けたと思ってるの。子供の時は辰馬に付きっきりだったし、高校には好きな所に行かせてあげれなかったし、大学の奨学金も背負わせてしまった。だから辰馬が働き始めて、あなたが高校を卒業してからはちゃんと向き合おうと思ってたんだけど、もう遅かった・・・」
母さんは、ぽつりぽつりと、寂しげに話し出した。
俺はただ黙って、その話を聞いていた。
「家族の時間がめっきり減って、あなたはどんどん私たちから遠ざかってしまった。話しかけても無視するようになって、私たちは後悔していた。もっとあなたに寄り添っていればって、それで、寂しさを埋める為に自分達の趣味に逃げるようになって・・・」
母さんがそう言うと、俺はそれを強く否定した。
「違う。悪いのは母さんたちじゃない。俺なんだよ。俺はガキだった。何も知らない。何も分からないわがままで生意気なガキだったんだ。父さんも、母さんも、辰馬も接しようとしてくれたのに、俺がそれを拒否してたんだ。今もまだガキのまんまだ。それに気づいたのはついさっきなんだ。リビングで昔を思い出して、もっと話しておけば良かったって・・・」
「ううん。悪いのは私たち。あなたは何も悪くない。最近のあなたを見てると、とても立派になったなって思ってた。資格合格したんでしょ? おめでとう。あなたはとっても立派なのよ」
「ごめんなさい。母さん。ごめん・・・」
俺はただそれしか言えなかった。
「優馬。辛くなったら、いつでも帰っていらっしゃい。私たちは待ってるから」
そう言って、母さんは俺を優しく抱きしめてくれた。俺の頭に回されたその手は冷たかったが、とても暖かくて心地よかった。バスの時間まで、俺はずっと母さんに抱きしめてもらっていた。22歳の男が、ほんと情けないよなぁ
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
バスが来たので、俺は荷物を持ってバス乗り場まで移動した。
母さんは俺がバスに乗るまで、ずっと見守っていてくれた。
全く、修学旅行に行く前の子供じゃないんだから・・・勘弁してくれよ・・・ほんとに・・・
俺は最後まで馬鹿みたいに母さんに手を振っていた。
その間涙が出そうになったが、俺はぐっと堪えてやった。横に人が座ってるんだから、泣くわけにはいかなかった。
俺はなんだか喉が渇いて、持ってきたリュックから飲み物を取ろうとした。
すると、リュックのサイドポケットに、入れた覚えのない封筒が入っていた。
なんだろう・・・こんなのあったっけ?
俺は封筒を取り出して、中身を開けた。
「え?」
俺は思わず声を出してしまった。
それもそうだ。封筒の中に入っていたのは、諭吉さん。つまり一万円札だ。それも4枚も入っていた。
一体だれがと思って封筒の中をもう一度調べると、もう一つの紙が入っていた。
俺はその紙を取り出した。紙には文字が書いていた。
『────頑張れ!! いつでも帰ってこい』
紙の右下には『父』という文字が入っていた。
「なんだよ・・・」
「なんなんだよ・・・どいつもこいつも」
俺の手に、ポタポタと雫が落ちた。鼻水が止まらず、鼻の啜っている音で隣の人にバレてしまう。
「ふざけんなよ・・・」
「ビックリマークとか柄じゃねえだろ・・・!」
俺の声と、鼻の啜り声に気付いたのか、隣の人がくしゃくしゃになった俺に声を掛けてきた。
「あの、大丈夫ですか?」
「大丈夫です・・・すみません。大丈夫・・・」
しゃっくりが出て、上手く声は出せない。そんな様子だからなのか、前の席や後ろの席の人にまで気に掛けられるようにまでなってしまった。
「だい、大丈夫なんで、気にしな、気にしないでください」
全く、とんだ大恥だ。
次帰ったら父さんには、きつく言ってやろう。
そう俺は誓った。
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