5話
あれから数日が経ち、俺はようやく仕事を辞めた。
想像していたよりもかなり時間がかかってしまった。中途半端にこの仕事を続けてしまったおかげで、引き継ぎに手間がかかった。
全く、辞めるにしても大変なんだな。
ちなみに、俺に唖然としていた上司は、俺が辞める最後の日まで何も文句は言わなかった。ひょっとしたら俺の見えないところで愚痴っているのかもしれないが、少なくとも俺の見えている所では不満を漏らす事はしなかった。むしろ『次の所でも頑張って』『あんな事を言ってごめんね』といった気遣いの言葉までくれた。
あの上司にとっても、俺の居た営業所にとっても、俺は久しぶりの新人だったらしい。そのせいか初めて務めるようになった日から辞めると宣言する前の日まで、懇切丁寧に育てられていたんだと感じる。
そこまで力を入れて育てた新人に、半年も経たずに辞められたのだ。彼等にも思う事があるだろう。
それでも、表面上だけでも上司は何も不満を言わず、最後まで俺の為に尽くしてくれた。
あー言う人間が大人っていうのかもな。いけ好かない事が多々あったが、なんだかんだで本当に上司には感謝している。
色々不満もあったが、終わりよければなんとやらだ。俺は思っていたよりもいい気持ちで、仕事を辞めることが出来た。
*
仕事を辞められた俺だったが、そこまで落ち着いていられる日は少なかった。
転職先に勤める日が刻一刻と迫っている。東京に引っ越すまであと2ヶ月もない。それにも関わらず、自分の引っ越し費用が足りない事に気付いていなかった。
もう少しあの会社で働いて引っ越し費用を稼ぐつもりでいたのに、勢いで辞めるって言ってしまったからなぁ。
だが、起きたことは仕方ない。自分で決めた事だ。
子供じゃないんだし、自分のケツは自分で拭かなきゃな。
そう決意し、俺は一か月間だけ派遣会社に勤めることにした。
それから、俺が地元でどの派遣会社が良いのかなと、自室のパソコンで調べていた時だった。
「本当に大丈夫なの」
部屋の扉の方から、女性にしては少し低めで落ち着いた声が聞こえた。普段から聞き慣れた声だ。
「まあ、自分で何とかするよ」
俺はその声のする方に顔を向けることはせず、パソコンの画面を見ながらぶっきらぼうに答える。
「引っ越し先は決まってるみたいだけど、初期費用とか足りるの?それを払えても次の給料日まで一か月は食べていけないとダメなのよ」
「・・・うるせえなぁ」
俺は、母の細かい指摘にうんざりし、小声でそう呟く。
あの時に好きにしろって言ったのはそっちだ。まぁ母さん自体は何も言ってなかったが。
「はぁ・・・俺も色々考えてるよ。そっちに迷惑はかけないから」
俺がなるべく落ち着いた声でそう言うと、母は『あっそ』とだけ言って、部屋から立ち去った。
一体何をしに来たんだ・・・
それからというもの、俺は前職よりも多くの時間を引っ越し費用を稼ぐための派遣バイトに費やした。時給換算だから、ひょっとしたら前職よりも稼げてるんじゃないかと思えるほど収入は増えた。このペースなら提示された初期費用を何とか払えそうだ。
ある日の夜。
深夜に俺は、資格に勉強をしていた。
資格はこの前合格したが、あれはまだ二つのうちの一つだけだ。世話になったエージェントが取得推奨していたもう一つの資格は、まだ取っていない。俺は一つ取っただけでは満足していない。転職出来たらそれで終わりではなく、始まりに過ぎない。
それに、勉強をするのは嫌いじゃなくなっていた。一つ資格を取れたことで、勉強に対する苦手意識が払拭されたというか、勉強のコツが掴めたというか、学生の頃と違って不快感は少ない。むしろ勉強していると自己肯定感がアップするというか、自分の自信に直結するこの感覚は嫌いじゃなった。
俺が集中して、教科書とにらめっこしているとまたまた部屋の扉から気配がした。
「よう。最近忙しそうだな」
気配の正体は、俺の嫌いな辰馬だった。
最近顔も合わせる事が無かったから久しぶりな気がするな。
同じ家に住んではいるが、俺は朝早く派遣のバイトに向かうし、辰馬も仕事から帰ってきたらすぐに部屋に籠ってしまうので、なかなか顔を合わせる事が無い。最近は食事も、俺は外で済ませてしまうからな。
「なに?なんかよう?」
俺はあからさまに嫌な態度を取る。
辰馬に何かされたわけでもないというのに、ついそんな態度を取ってしまうのだ。辰馬に対して学生の頃から冷たくしていたから、この癖はなかなか抜けてくれない。
でも前職で働いていたころよりは、あまりイライラしないな。俺自身に余裕が生まれたのが大きいのかもしれない。
俺は辰馬の方へと見向きもせず、視界は教科書へ向けて、口だけ動かしていた。
「引っ越しするんだってな。母さんに聞いたよ」
「あぁ」
「・・・」
辰馬は物悲しそうにそう言っていたが、俺は変わらず冷たく返事をする。
「なんか・・・やりたいことが出来たんだって?」
「あぁ」
「そっか・・・すごいな。俺なんか何もないよーハハッ」
辰馬はわざとらしく乾いた笑いをした。声には儚さが混じっているような気もした。
そんなわざとらしい声に俺はイライラしていた。しかし、それを表には出さない。
「お前も何かやればいいじゃん。今の仕事、楽しいのか?」
「楽しくは・・・ないけど」
「なら、何か見つけた方が良いぞ」
俺は実体験からアドバイスみたいなことをした。実際に俺は、何か目標を見つけて頑張るというのは楽しいという事に気付いていたからだ。
「やりたいことは、まあ一応あるにはあるけどさ・・・」
「なら、それやってみろよ」
「いやーハハッ、俺なんかが頑張ってもさー」
俺は辰馬のその態度にまた不満が募る。辰馬はこうやっていつも何かをすぐに諦めて、逃げに徹するんだ。
「・・・そうかよ」
イラつく気持ちを抑えながら、俺は冷たくそう言った。
話はそれで終わりかと思っていたが、何故か辰馬はその場を動こうとしなかった。寒いから早く閉めてくれないかとも俺は思った。
「まだなんかよう?」
俺が振り払うように言葉を投げつけると同時に、辰馬の方へとようやく顔を向けた。
辰馬は相変わらず、不潔な髪形に、全く手入れされていなさそうな髭を生やし、いつから使っているんだと思わせるほどくたびれた部屋着を着ている。
そんな辰馬は、言葉を濁してもじもじとしている。
見てくれが汚すぎて絵面が最悪だ。さっさと用を済ませてくれ・・・
「えっと・・・久しぶりにさ、ご飯とか行かない?引越ししちゃうならしばらくいけないと思うし」
辰馬は照れているのか、体をよじらせながらそう言った。
うざい。『しばらくいけない』と辰馬は言ったが、俺たちは兄弟仲良く二人で飯なんて行った事が無い。
もちろん嫌に決まっている。こんなにも不潔で、尚且つ見た目よりはるかに幼い男と肩を並べて街中を歩くなんて御免だ。
「いかねえよ。冗談だろ」
俺は辰馬から顔を逸らし、突き放すようにそう言った。
「そっか・・・残念だなぁ」
辰馬は乾いた笑いを零す。俺はそれに何も言わなかった。
「じゃあ、おやすみ。勉強頑張って」
俺は辰馬のその言葉を、またしても無視する。返事を待っているのか辰馬はしばらく扉の前にいたが、しばらくすると、侘しい足取りで自分の部屋に戻っていった。
やっといってくれたか・・・
俺の辰馬に対する態度は、傍から見たら酷いものなのかもしれない。そんな事は俺自身も分かっている。だが仕方がないんだ。
大学生の頃、俺が精神的に成長してから、辰馬には優しく接するようになったが、その時は正直面倒だった。俺が優しくすると、あいつは調子に乗って何度も絡んでくるようになる。
それも普通の年相応の絡み方じゃない。まるで小学生のような子供の甘え方だ。
自分よりはるかに年下で、尚且つ小学生のような見た目なら許されるのかもしれないが、あいつはもう25だ。そして身だしなみは不潔ときたもんだから、日がな一日ずっと付きまとわれても不快になるだけだ。
今くらいの距離感が、俺にとってはちょうどいいんだ。
「へっくし!」
少し冷えてきたのか、俺は思いっきりくしゃみをしてしまった。
まずいな。明日もバイトだし、風邪をひく前に、早く寝ようかな。
でも、あともう少しだけ勉強しようかな・・・
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