過去②
矢田優馬 小学4年生
あれから優馬はすっかり兄の辰馬に対して嫌悪感を抱くようになってしまった。
しかし、原因はこの前のあゆみ学級云々だけの出来事だけではない。
学校は、優馬が4年生になった時にクラス替えを行ったのである。そのおかげなのか、はたまた優馬の人に対する付き合い方が成長したのかは分からないが、優馬にも良き友人が出来たのだ。
そんな友人の家にお呼ばれした際に、優馬はあるものを目にした。
それは、友人の兄である。
友人とその兄はとても仲が良いのだそうだ。友人の兄は、絵に描いたようなとても良い兄貴的な存在で、優馬にもすごく優しくしてくれた。
彼はまだ中学1年生だったが、小学4年生の優馬にとって友人の兄の姿は、大人のようにとても魅力的に見えたのだ。
ちなみに、辰馬も中学1年生である。
家に帰ると、辰馬はいつも屈託の無い良い笑顔で優馬に話しかけてくる。
側から見れば良い兄なのかもしれないが、優馬にとってその行動はとても兄だと思えるようなものではなかった。
なんというか、兄というより弟のように感じるのだ。
屈託のない笑顔はとても純粋で子供っぽく、言動に関しても、友人の兄とは違ってなんだか幼稚っぽく感じるようになってしまったのだ。
それから優馬は辰馬に対して、少しばかり嫌悪感を抱くようになった。
しかし、正にその子供っぽさこそが、あのあゆみ学級に所属していた原因だという事に優馬が気づく事は無かった。
まだ小学生の彼に、知的障害の事なんて何も分からないのだ。それも、辰馬のような軽度な人の事情など分かるはずが無かった。
当時の優馬にとっての辰馬の姿は、ただ両親や大人達に甘えているようにしか見えなかったのである。
────そんなある日の事である。
時刻は18時ごろ。
中学に上がった兄が、初めて泣きながら帰ってきた。
兄が泣いて帰ってくる事なんて初めてだったから母は大変驚いていた。
ワンワンと泣き喚く辰馬の事を宥めながら、母がなんとかして事情を聞こうとしていた。優馬もちょっと気になったのか、ゲームの傍ら聴き耳を立てていた。
しばらくして落ち着いた辰馬が、ポツポツと元気の無い声で話し始めた。
だが、辰馬の語ったその内容に、優馬はまた嫌悪感を抱いた。
中学に上がると、小学校では無かったある行事を学生は行えるようになる。
そう。部活動だ。
学校教育の一環として、教育課程との関連を図り、校長が認めた指導者のもと、授業後や休日に行うスポーツやスポーツ以外の活動の事である。
辰馬は、中学校に入ってからどの部活に入るか悩んでいたそうだ。辰馬は何にでも興味を持つ子供だったから、数ある部活動の中から一つの部活を決める事は苦労したらしい。
そして辰馬が心底悩んだ挙句に決めた部活動は、野球部だった。
なんでも、あゆみ学級でグラウンドに出ていた時に、隣で他のクラスが野球をしていたのがとても楽しそうに見えたとの事。
『何を言っているんだ?』と優馬は思った。
一体あれのどこが楽しそうに見えたのだろうか?
飛んできたボールが取れなきゃ罵倒され、ボールがバットに当たらなくても罵倒される。そんなスポーツの何が楽しそうに見えたんだ。
優馬は声には出さず、ただ心の中でそう思った。
結局辰馬はそのまま野球部に入部届けを出した。
そして、今日が野球部として、初めての活動日だったらしい。
学校の授業中、早く部活がしたくて、放課後が待ち遠しかったとも言うほどだった。
しかし待っていたのは辰馬の思い描いていた部活動とは、全く違うものだった。
はじめにグラウンドを何周もさせられた。辰馬は炎天下の中、あそこまで何分も走り続けた事なんて今まだ無かったため、すぐにヘトヘトになってしまった。
もちろんそれだけでは終わらず、疲れた身体に追い討ちをかけるように、やったことのない腹筋や腕立て伏せを百回以上も行った。やった事が無いので、もちろんちゃんと出来やしない。出来ないと、監督の先生から何度も怒られるらしい。
その後にようやく野球が出来るのかと思えば、苦しい基礎練習ばかり。その時も、言われたことが出来なければ、先生から何度も怒られるとの事。
『初日からそんな怒られる事あるか?』と優馬は思った。
案の定、後々知った事だと、監督は全然怒ってはいなかった。
それは監督自身が言っていた訳ではなく、母がこっそり見学に行った時に目にした事だ。
母曰く、監督は『このままじゃ付いていけないぞ!頑張れ!』といったニュアンスの激励の言葉をかけているだけだったらしい。
辰馬は大声で声を掛けられた事がなかった上に、練習でヘトヘトになってしまっていたため何も聞こえてはいなかった。ただ怒鳴られているんだと勘違いしているらしい。
あの小学校にいた、温和な先生に甘えすぎていたからなのかもしれない。
その日から毎日のように辰馬が泣いて帰って来るものだから、母はなんとか辰馬に監督の意思を伝えた。
だが、辰馬は聞く耳を持たなかった。
なんなら、練習中毎日泣いているので、他の部員から揶揄われる事が増えたらしい。
辰馬は毎日『辞めたい。辞めたい』と泣き叫んでいた。
辞めるのは簡単だ。しかし、母は珍しく辰馬に厳しかった。
先日、病院の診断では症状は軽度であり、ちゃんとした教育を受けさせて支援もしっかりしていれば、日常生活を送る事が可能だと言われていた。
それ故に、母はここで逃げ道を与えてしまえば、辰馬は逃げ癖が付いてしまうことを恐れた。
だから少しでも困難に立ち向かってくれるようにと、心を鬼にした。
いつでもどこでも、誰かに助けて貰えるわけじゃない。不条理だが、だからこそ自分で立ち上がり、自ら歩く力を身につけて貰いたかったのだ。
母は時には優しく、時には厳しく、泣き喚く辰馬に接していた。なんとか辰馬に部活動を続けて欲しかった。
そんな様子を見ていた優馬も、なんだかんだで兄の事を応援していた。
部活動を頑張る兄の姿に、ちょっとずつ尊敬の念を取り戻していたのだ。
しかし、辰馬の心は限界だった。
辰馬はある日。母や、監督の意見を全て振り切り、野球部を辞めてしまった。
あれだけの母の頑張りは、虚しく散ったのだ。
優馬はそれが許せなかった。
優馬には母が立派に見えた。まだ幼い優馬に細かい事は分からなかったが、そんな彼から見ても母は必死に兄を支えながら、日々励ましていた。
そんな母の頑張りに辰馬は応えなかった。
ただ自分がしんどいから、怒られるから、馬鹿にされるから、という理由で・・・
その日から、優馬は辰馬の事を本当に見下すようになった。それだけではなく、兄の事が心底嫌いになった。
あの日から、母の態度は優馬に対して厳しくなった。恐らく辰馬があんな感じだから、弟の優馬だけはちゃんと育てなければという使命感を感じたのかもしれない。
しかし優馬にとって、そんな事知った事ではなかった。
『あいつのせいで。あいつだけ楽ばかりして』
────優馬の兄に対する憎悪は、ここからどんどん膨らんでいくことになる。
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