最終話 慶長八年 文月
( 6 )
いちは高熱の身に急転直下の出来事が重なり、旬の腕の中で気を失ってしまった。
次に目を覚ますと、いちは褥の上だった。枕元では、見知らぬ女性が心配そうにいちを見下ろしている。言葉もなく見つめ合っていると、いちの胸の奥で、さざめきが起きる。
(ちがう。わたし、この人を知っている)
朧げな記憶が、だんだんと像を結ぶ。いちは勇気を出して乾いた喉に力を入れた。
「ははうえ」
「ああ、いち」
母が伸ばした腕に縋りつき、いちは泣いた。泣いて泣いて、涙が止まるまでずっと慕わしい母の胸に抱かれていた。
「ここは三本木じゃ。幸家殿と北政所さまがお骨折りくださった」
いちの手を握り頬に寄せながら江は言った。
「殿が、いちのそばにいて良いと仰った。いち、どんなに会いたかったか……」
「いちもずっとお会いしたかった」
「そなたの文は、小野於通が取り戻してくれた。辛い思いをさせたのう。わらわが間違っておった。あの日、姉上と縁を切ってでもそなたを連れて行くのだった」
さめざめと泣く母の手を握り返し、いちは頭を振った。
「母上、もういいの。謝らないで。いちは、もう寂しくないです」
大坂城で、ずっと一人だった。寂しかった。でも、あの大坂城にいたからこそ、温かな心を傾けてくれる人に出逢えた。
「あの、旬……ええと、幸家、さまのことなのですけれど」
熱で朦朧としていたけれど、起きたことを思い出して繋げてみる。
「幸家さまは、わたしを連れ出して、母上と会わせてくれるために動いてくださったの? お嫁入りと言うのは、本当なのかしら」
「まあ」
娘のいとけない様子に江が噴き出す。いちの額髪をすいてやりながら江は優しく囁いた。
「それは、ご本人に確かめなされ」
江が離れた場所に控える侍女に目配せを送るると、庭先の障子がからりと開け放たれる。軒先には、苦笑をこぼす旬――幸家が座っていた。いちの頬が熱くなる。江はふんわりと娘の頭を撫でてから、静かに退室していった。
「しゅ……幸家さま」
「旬でええよ。幼名の方が慣れてるし」
旬は立ち上がり、いちの枕元に座った。
「僕もいちに嫁入り云々は早いと思ってたとこ」
「……そんなこと、ないと思うわ。妹たちはとっくに嫁いでるし、わたしだって……」
むきになって返すと旬はからからと笑った。
「ま、急がんとよう考えてや。よう考えて、それで僕のお嫁さんになりたいと思ってくれたら」
白い花が、いちの髪にそっと差し込まれる。
「その時は、なかようしような? 完子」
慶長九年六月三日。豊臣完子は淀の方の養女として九条家に嫁いだ。
幸家と完子の結婚は洛中洛外の注目を集め、花嫁行列の装束や担ぎ物の煌びやかな様子を一目見るため、たくさんの都人が見物に来たという。
完子が九条家に嫁ぐにあたり、秀頼卿御母堂は財を惜しまず支度を整えた。豊臣と競うように徳川家も九条家に祝いを送り、九条家は見事な新御殿を建てるに至っる。座敷内外ともに名のある絵師による調度で飾られ、教養人たちの注目を集めた。
新婚の二人が住む廓には、幸家の強い願いで壮麗な源氏の間が整えられた。襖絵には、源氏と若紫の新枕を描く『葵』の物語が描かれ、妻の完子はことのほか喜んだそうだ。
読んで頂きありがとうございます。
こちらは集英社オレンジ文庫様【第227回短編小説新人賞】にて『いち〜大坂城の花嫁〜(俤やえの名義)』で「もう一歩の作品」に選んで頂いた作品です。
この物語は狩野山楽『車争図屏風』を見て思いつきました。九条幸家と完子の婚姻にみえる政争の駆け引きが興味深く、うっかり調べることに夢中になってしまいました。
この夫婦は、徳川家と朝廷のバランサーとして江戸初期を生きていきます。
今年の大河では徳川家康だけでなく、秀忠も魅力的に描かれており、いずれ徳川秀忠も大河になって欲しいとひそかに願っております。
今年もお世話になりました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。