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金木犀の残り香

作者: 窓際の箪笥

サイドランプに支えられた書斎はあいも変わらず薄暗く、そこに幽かに浮く一冊の本は、ただただそこに在る。

 たった一つの窓から僅かに差し込む一筋の光は、その開いた本のとある一頁を照らす。


 その頁には一面に挿絵が書かれていた。描かれていたのは、人でもなんでもなく、ただ散った金木犀の花だった。


 こんな本家にあったっけ、と思いつつ、書斎には祖父の遺品もあるのだから祖父の物だろうとひとりでに納得した私は、ようやくにして暖かい包容のベッドから身を起こした。


 しかしそこでふと思う。


「私、なんでここに居るんだっけ。」


 書斎とは、その名の通りに書のための部屋であるはずだ、それなのに、何故私は書斎にベッドを置き、またそこで寝ているのだろうか。


 そう思った刹那、無意識に腹から間抜けな音が現れて、この書斎一杯に響く。


 そうだ、朝御飯を食べないと。


 そう思って立ち上がり、扉を開けた刹那、私はあまりに信じがたい光景を見た。


 その扉の先には、ただ塵だらけの廊下があったのだ。


「こんなに塵だらけだったっけ……。」


 確かに掃除を余りしないために塵があったことは認めるが、廊下のフローリングが見えなくなる程では無かったと思いながら、足の踏み場をなんとか探して、リビングの扉の前までやってきた。

木製の筈のドアノブは何故か錆て、一つ加減を間違えると崩れてしまいそうだった。

 さっきの書斎やこの廊下、そしてこのドアノブは何なんだと思いながら、その扉をゆっくり、かつ慎重に開ける。


「って……、何、これ。」


 いつもは多少汚いながらもまだまだ普通の範疇であったリビングは、何処からか生えてきている植物とそれから編み出される甘い薫りに包まれていた。

 眩暈を巻き起こすようなその薫りの甘ったるさと、昨日までのリビングの記憶、そして今のこの光景に、私は暫しの間、立ち止まることしかできなかった。


 また一つ腹の音が鳴った時、嗅いでいるだけで口が甘くなるようなこの薫りが、金木犀の薫りであることに気がついた。

 その刹那、その薫りに混じり、香ばしいトーストの香りが鼻腔を擽る。


 一つ瞬きをすれば、先程まで煤と歪みだらけであった眼の前の机が、急に新品のような机へと置き換わる。


 それだけでなく、その上には記憶に残ってすらない白い皿と、作ってもいない一枚のトースト。

 その香りがいつも食べるものより香ばしいことが、余計に私の戸惑いを誘う。


 驚いてもう一つ瞬きをすると、トーストにバターが塗られて、そしてもう最後にもう一瞬きをすると椅子が現れる。


 夢の中に迷い込んだ時のような戸惑いの末、私は空腹に我慢の箍を外して、そのパンに一口齧り付いた。


「おいひい……。」


 思わずそう口から零れる程に、このトーストの心地良い食感と塗られていたバターの味は旨い。

 此程にまで美味しいトーストは、ここまでの短い人生の中でも出会うどころか、気配すら見ることができなかった。


 あまりの美味にその一枚のトーストを一弾指の内に食べきり、満腹となった上で部屋を見回す。


 相変わらず部屋の壁は金木犀。


 確かに庭付き一軒家であるここを買ったが、庭に何かしたわけでも、また庭が荒れていたわけでもない。

 実際、窓を覆っている金木犀の隙間から見える庭は昨日までのままなのだから。


「とりあえず、この金木犀をどうにかしなきゃだよね……。」


 一応、庭付き一軒家ではあるのだが、庭なんて弄って居ないから勿論園芸の為の道具は無い。

 普通の鋏や料理鋏で茎を切るのもなんだか気が引けるし、やはりここはホームセンターにでも行くのが一番であろうか。


 リビングにある唯一の本棚の奥の方、つまり貴重品入れから財布を手に取り、そしてまた塵だらけの廊下を行く。


 不思議と玄関先に来て靴を履くと、廊下を埋めつくしていた塵らはぱたりと無くなって、内装も記憶の通りになっている。


「酔って何か夢でも見てたのかな……。」


 それにしてはおかしいか、と思いながら玄関の鍵を開けて外に出る。


 刹那、私の眼に飛び込んでくるのは、至っていつもと変わらない景色。


 あまりにも大きい家の中との違いにそれを不思議と眺めているうち、私は一つの違和感を覚えた。


 なんだか、いつもより明るい気がするのだ。

 この程度の違いは太陽の加減とも言えるだろう、しかし私はそれにただならぬ違和感を感じた。


 それからゆっくり歩を進めても、誰も居ない。


 平日とはいえ、何者かが道端に居てもおかしくは無いはずだ。


 そして私は気付いた。私の影が無いのだ。


 何度目を擦ってもこの事実は変わらない。太陽が南中しているのかもしれないとも思ったが、そもそも宙に太陽なんてものはなかった。


 それによりさらに大きくなった違和感を心の中に抱えつつ、近所のホームセンターへやってきた。


 するとどうだろうか、私が店を入ろうとした刹那に、若い女の店員が一人立ち塞がる。

 いくら通してくれと乞うても、去るどころか視線すら合わせない。


 半分怒りに燃えながら彼女の顔を見ていると、その人が昔私と会ったことのある人のように見えてきた。


 誰だったか、と思っていると、少しずつ店内に立ち込める金木犀の薫。


 その甘い薫に脳を刺激されたのか、私はその人の名前をはっきり思い出す。


「君は……。」


 そう言い掛けた刹那、目前の彼女は金木犀の黄色い花に置き換わる。

 驚愕を抱いたのも束の間、目の前の花が放つ甘味は空気を埋めつくして、息苦しくなってくる。

 遂に私はその息苦しさに耐え兼ねて、そのホームセンターの敷地から一目散に駆けて出てしまった。


 するとどうだろうか、歩道へ出た刹那に身体が金縛りのように全く動かなくなってしまったのだ。


 足元からは、また金木犀。

 そして、顔の眼の前に現れる先程の店員。


「もう、もう、やめてくれないかな……。」


 情けない自分の嘆きなど彼は許さない。


 ここまででやっと悟った、私の首を締めているのは目の前の彼女でも、金木犀でもない、彼であり、それは自分なのだ。


 もう、全てを黒塗りして。


 そう心の内で願った刹那、視界は真っ黒に染まる。


 やっと私も解放されたか、と安心……したかと思えば、強烈な吐き気が私を襲う。

 口から止まらず流れ出る吐瀉物と、身体中から沸き立つ悪寒。

 吐瀉物の中には、赤黒い液体も見えた気がする。


 それの出しきらない内に、少しずつ意識は遠のく。

 私の身体が床に打ち付けられ、白百合はどす黒く濁る。


 最後に耳に響いた一文。


『金木犀の下で魅了に陥る我が心、手の届かぬ薫に自らを呪う。

 おお神よ、穢れた我を聖なる光で差し給え。』

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