第四章 海底五〇〇〇メートル
「過労だね……」
医務室のベッドに横たわる白人の少女を見ながら、丸椅子に腰かける白衣を着た、征人より五センチほど背が高い天津慶造軍医は言った。
「しばらく休めば、体力は戻るだろう。あまり固い食べ物や水を飲ませ過ぎちゃいかんよ、米粒の形が無くなるまでドロドロに煮込んだお粥を、1日三食適量で食べさせなさい。手足の傷は、放っておけば消えるし、背中のヤツも、しばらく何もしなければ目立たなくなるだろう」
それを聞いた征人は、複雑な表情を浮かべた。
「休んでいられるでしょうか、何もせずにいられるでしょうか………」
「それは軍人の仕事だろう。私は医者だ、診察して必要な薬をやれば、あとのことは知らん。それより、一度機関室に戻ったらどうだね、君の友人が、仕事を終えて帰ってくる君を待ち焦がれているのではないのかい?」
そういって天津医師は、豆乳のような印象のある、白く丸い、頬や口の周りにシワを畳んだ顔を笑わせてみせた。実際、彼はこの戦時中にしては、かなり太っている。
「それが俺に出来ることですか………」
少し不満そうな顔をして、他の軍人たちと同じようにカーキ色の軍服を着た征人は、患者が五人も入らない医務室の出口、アルミニウム製の扉に手をかける。一度、背後のベッドを振り向く。だが、再び残念そうな顔をして、小柄な少年は去っていった。
少年が去って、天津医師は少女を振り向く。幸せそうな寝顔。B29の爆撃で死んだ、十六歳の彼の娘にそっくりな、爆弾に焼かれ、炭の人形に変わった、私の娘にそっくりな…………………止めろ、思い出すな、あの光景を思い出すな………………!!!!
天津医師の葛藤も虚しく、彼の脳は、再びあの凄惨な光景を思い出してしまう。焼き払われた街、あちこちに横たわる、子供や女、兵士の姿をした黒い人形、一瞬にして生命がただの炭素の塊に変わる瞬間を、彼は見た。彼は女の輪郭を残した、塊の一つに駆け寄る。爆弾の雨から逃れようと走る姿勢のままで地面に倒れ伏した炭、数秒前まで生きていた、だが、天津医師がその顔の部分に触れた瞬間、その人型はバラバラと音を立てて崩れ落ちた。骨の欠片さえ見当たらない、黒い粒に変わって、赤黒く焼けた土の上に、雪のように降り積もる。そして、父は血の色に染まった空に咆哮する。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ………!!!!!!!うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!!!!!!!うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……………………………………………………………………………―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――・・・」
許さん…………許さん……………!!!!!!鬼のアメリカ人め………………!!!!!!!
「はっ……………!!」
天津医師は、気が付くと涙を流していた。中粒の涙が、数滴、目の前の少女の顔に落ちている。
「お前は、……………………私の娘に、なってくれないよな………」
天津医師は呟き、再び仕事に戻っていった。
□□□
「ローレライ潜航中、レーダー確認できません」
ボーンフィッシュの艦内では、ローレライの捜索作業が行われていた。
ウィッティングトン艦長は、あまりに作業が長引くせいで、激しく足踏みしたり、艦内を行ったり来たりして、仕事のおぼつかない兵士を殴ったりとやりたい放題だ。
軍人たちの軍服は、灰色の軍服に坊主頭という形で統一されている。違うのは、右腕の袖に付けられた、軍の階級を示す星の数くらいのもの………ウィッティングトン艦長のように五つの星を示す大星が二つと、小星が一つのものから、小星一つない者までいる。
「ローレライが最後に消えた海域に潜航、サーチライトであの馬鹿でかいオタマジャクシを探せっ!!!!!!!」
せっかく軍の賞金首を捕らえかけたのだ、のがしてなるものか。私はこんかちっぽけな潜水艦の艦長では終わらん。私は将軍になる。大統領直属の、海軍元帥になるのだ…………。そのためなら、俺はどんな残酷なことでもしてみせる。子供を殺すことも、ためらわない…………。
□□□
「アメリカ艦、こちらには気付いていないようです」
レーダーを覗きながら倉木旗康が藤堂正毅艦長に報告する。
「地形の複雑な場所に逃げたのが正解だったな、岩礁に衝突する可能性も増えたが………枢木少尉は何時戻る?」
「命令に忠実な彼は、2日は機関室に引き籠るでしょう、食事も、向こうに特別に運んでいってやらないと…………」
「では、乾燥飯と粉のスープを調理して持っていくよう頼んでおく。ご苦労、持ち場に戻れ」
「はっ」
レーダーには、ローレライの数キロほど遠くにボーンフィッシュの機体が見える。岩礁も少し貫ける高圧X線技術のおかげで、こちらだけが、敵の様子を確認できる。酸素はあと2日と19時間30分。
敵に気づかれないように、海底の谷の底をローレライは行く。その姿は、脱皮をするために肉食魚から隠れる場所を探すザリガニに似ている。ザリガニは、谷の行き止まりに直径300メートルの洞窟を見つけ、その中に、三日弱身を隠すことにした。
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「う……………ん?」
彼女が目覚めて最初に見たのは、見知らぬ灰色の天井だった。
「気がついたかね、ローレライの魔女くん」
天津医師が優しくドイツ語で話しかける。
「あ……………はっ、今まで私は何を!?」
「憶えている筈だ、良く思い出してみるといい…」
「あっ、えっと、確か、潜水艦が雷撃されて、ガラスが割れて、プラグが抜け落ちて、床に投げ出されて、そこに私と背丈の変わらない男の人が来て………あっ!!!!」
「どうしたんだね?」
「あの人に会わせてくださいっ!!!!」
「本国に置いてきた恋人がいるなら、少なくとももうしばらくは会えないと思うよ?」
「違いますっ、そんな人いません!!!!私が会わせてと言っているのは、瀕死の私を助けて、ここまで運んできてくれた人のことです……………!!!!」
「ああ、あの小柄な少年兵か………」
アイツ、イイモノを拾いやがったな。そう思って、天津医師は笑う。
「彼なら機関室でエンジンの修理をしている筈だよ、まあ、レーダーの部分だけだがね………」
「そんなことはいいんです、早く会わせてください」
「………」
困ったものだ。藤堂艦長はレーダーのことを知らない。あの正毅が艦内に女がいると知ったら、私もあの少年も、ただでは済まないだろう。だが、彼女の望みを叶えてやれないのも、悪い。
「駄目なのですか?」
「いや、いいだろう、私が日本語の『ありがとう』を教えてあげよう。ちゃんとお礼を言って、仕事の邪魔にならないように帰って来るんだよ?」
「あっ、はい………!!!!」
少女は嬉しそうに顔を上げた。天津医師は、彼女に一通り、日本人流の、恩人への敬意の表し方を教えた。簡単な日本語も覚えた。
「アリガトウゴザイマス、すぐ行ってきますっ!!!!!!」
そう言うと、彼女は裸足のまま、飛ぶように走り出そうとする。
「あっ、待ちたまえっ!!!!」
「はひっ!?」
「その…………服を……来ていきなさい、さすがに包帯のパンツとブラジャーだけで、男の前に出ていくわけにはいかないだろう?」
「え…………?」
少女は自分の首から下を見下ろす。そして、現状を理解する。
「きゃあっ!!!!見ないでください!!!!!!!」
「僕にいわれてもなぁ……」
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「レーダーがローレライを捉えました!!洞窟に潜んでいます!!!!周囲を包囲して酸欠状態にし、あぶり出して袋叩きにするのはいかがでしょうっ!!!!」
レーダー係の兵士の一人が言う。
「よし、その作戦を奨励するっ!!!!潜水艦は洞窟を包囲しろ、深海の魔女を鉄屑に変えてやる!!!!!」
少女に、安息の時間は与えられなかった。