第二章 少女の苦悩
やっぱり、2日に一度で……
少女は夢を見ていた。粉々になった鋼鉄の鯨、墜ちていく兵士たちの肉片、鉄分の匂いを嗅ぎ付け、小魚が集まってくる。戦艦は六〇〇〇メートルの海底に沈んでいく。深々と、昏昏と………。
鮮血を水で薄めたような紅い液体を張った水槽の中で、黒髪の少女は目を覚ました。
茶色の瞳に白い肌、十四歳にしては大柄な一回り大きい身体、脊椎の節々にはプラグが刺されており、服は、隠すべき二ヵ所に白い包帯が巻かれているだけで、下着姿同然である。
彼女は癖で特に理由もなく、自分の足元を見下ろす。液体は彼女の胸の辺りまで満たされており、水は紅いが、底まで見渡すことができる。手足のいたるところに、特大の針を刺した傷跡がある。ナチスドイツに、ハーケンクロイツの豚どもに辱しめられた身体。ユダヤ人だからと、好き放題に弄ばれた。ゲットーにいた友人たちも、同じように犯され、人間として殺され、最後に命を奪われた。
私が生き残っているのは、私に、一隻の戦艦を動かす力があったから……。
ナチスドイツの潜水艦ローレライの核、イリアス・F・パーラー。アウシュヴィッツの牢獄から生還した、一桁もない数のユダヤ人の一人。
彼女は疲れはてていた。眠っている間に、大分多くの生体エネルギーを吸い上げられたらしい。
豚どもが考え付きそうなことだ、私《ユダヤ人》に、死ぬまでこの戦艦の燃料になってもらおうというのだ。
今、イギリスと北欧三国を除くヨーロッパは、完全にナチスドイツに占領されている。その全統帥権を握るのは、総統アドルフ・ヒトラー。私の多くの同胞を殺した、人の形をした悪魔。
私たちだけじゃない。ヤツの妄想によって、それに従わなかった多くの人々が殺された。スラブ人、ジプシー、彼らと同じ陣営の筈のゲルマン人までが虐殺の対象になった。
ヨーロッパで今起きている悲劇は、全てあの悪魔の妄想が産み出した悪夢……。それと知っていながらも、彼らに従軍しなければならない自分が惨めでもどかしい。
しかし、知っているだろうか、ヒトラーには四分の一、ユダヤ人の血が混じっているのだ。これが軍やヨーロッパ、いや、世界全土に知れ渡ればどうなるだろうか、おそらくナチス政権は崩壊し、多くの人民が自由を求めて、銃剣を手にとって立ち上がるだろう。いや、そんなことがなくても、ドイツはすぐに連合軍に滅ぼされる。先程、ユダヤ人虐殺に怒ったアメリカ合衆国が、ドイツに砲身を向けた。本土に向けて多くの戦闘機B29が飛び立ち、ナチスに操られる屍の兵士たちを、その砲弾で打ち砕く。畑の土は鮮血で黒く染まり、農民たちはナチスに従ってアメリカに殺される者と、アメリカの反撃に希望を見いだし、ナチスに逆らって殺される者に二分される。どちらが勝っても、だいたい同じくらいの人が死ぬ。それでも連合国が鉤十字の悪魔を倒そうとするのは、二千年近くも差別してきたユダヤ人への贖罪の気持ちからだろうか。どうでもいい、とにかく、ドイツは負ける。私が死ぬのが早ければ早いほど、戦争は、1日でも2日でも早く終わる。そうなれば、ユダヤ人は、もう死なない。
「うっ…………ぶっ!!」
イリアスは吐血する。血は水槽に落ち、水を更に赤く染める。
苦しい……。背中のプラグさえ引き抜けば、すぐにこんな痛みから解放されるのに……………!!!!
□□□
極東の島国の港で、一隻の戦艦の到着を待ち構える、緑の軍服を着た一人の姿があった。
大日本帝国首相、東条英樹。クーデターで政権を掌握した、軍人政治家である。文民の犬養毅首相を暗殺し、政党政治を解散し、中国や台湾、朝鮮、東南アジア諸国で暴虐の限りを尽くし、満州国を建国し、昭和天皇の絶対権力を後ろ楯に独裁政治を行い、国民を苦しめる、皇国の鬼神………。
彼が待っていたモノ《戦艦》はやがて海の果てに見え、それが少しずつ大きくなって、港に行き着いた。
「大日本帝国へようこそ、ルーベリヒ艦長」
「お会いできて光栄です、皇国の鬼神…」
「船旅は、いかがでしたかな?」
「快適でございます。これを我が同盟国のために使っていただけるのですから、こんなに嬉しいことはない」
「で、お金はこれでよろしいかな?」
手に提げていたスーツケースを、東条首相は差し出す。
「はい。操縦法はこちらの資料に。あと、レーダーの説明だけ、今させていただきたい……」
ローレライのルーベンス・ルーベリヒ艦長は、首相に資料を手渡しながら、そう言う。説明もだいたい終わった。残されたのは、驚きに頬を引き吊らせた、東条首相の顔である。
「今から船員交換を行います。ローレライは三国同盟最後の希望です。頼みましたよ……」
「ええ、たくさんの鬼のアメリカ兵どもを、骸に変えてやりますよ………」
数十分後、少女は再び、海底の戦場へと旅立っていった。
次回、ローレライはミッドウェーに旅立つ!!!!