兄妹
ここは吉備野家。その次男である源の部屋だ。吉備野と鵜久森がうろんなやり取りをしていたそのとき、枕が吉備野目掛け、高速で飛んで来た。
「――そりゃあっっ!!」
「ぐほっっ――」
吉備野は不意を突かれて、思いの外威力のある枕の投擲に、そのまま身体ごと持っていかれる。
「――ぐへっ!」
そして吉備野は、丁度そこにある源のベッドにダイブする。となると必然的に、仰向けで熟睡している源の上に吉備野が覆い被さるように倒れ、結果的に源の胴体に捨られ身のタックルをお見舞いする形にしまっていた。
「……ほらね」
鵜久森がこの結末を予期していたように呟く。
その顛末の余波を受けて、源が起床する。
「痛っ……えっ? なにしてんのさ、兄ちゃん」
「ごめん源、わざとじゃ、ないんだよ」
吉備野はのしかかった源に謝罪と言い分を兼ねる。
そうしていると、強弱が滅茶苦茶な忙しい足音が、巨大サメが襲来しているかの如く接近する。
それが収まったと聞知した途端、吉備野は制服の襟を掴まれ、一瞬だけ頸部を締め付けられながら、意に反して仰向けにさせられた。
噎せ返りながらもそんな乱暴を働く、水色を基調としたスウェットを着た妹の名前だけを、吉備野はなんとか発していた。
「……庵」
「……ん!」
その粗暴な攻勢のまま、吉備野の妹である吉備野 庵は、降ろしたロングヘアーがスローイングの影響で顔面を覆っている事などお構いなしに吉備野の胸倉に掴みかかり、苛立ちを包み隠すことなく暴言を吐きながら轟々と強請る。
「馬鹿兄ちょう! こんな時間までどこに行ってたの! なんで帰って来なかったの馬鹿!」
「いや、その、まずは落ち着こう――」
「落ち着け!? そんなこと出来る訳ないよ! どれだけ心配したと思ってるの!」
「だから――」
そして吉備野の弁明の余地も与えず庵視線を外していた。その標的は鵜久森に向けられる。
「――それと、そこの女の人は誰!」
「あ――」
こう詰問されることを吉備野は恐れていた。
「誰って訊いてるの!」
「えっと……」
庵は吉備野の兄弟妹の悶着を静観していた鵜久森を指し示した。
吉備野はどう説明したものかと意識が混濁する。
ただでさえ無断で早朝帰りをしてきた吉備野が、家になんの前触れもなく高校の制服を纏った鵜久森という少女を招き入れていたらそれは、家族としても妹としても、庵にとって由々しき事態だった。
「ちょう? て、なに?」
「……」
あらぬ疑いが掛けられていることよりも鵜久森は、庵が吉備野に対する呼称の方に惹かれている。
その鵜久森が、どことなく毅然と振る舞っているせいで余計に吉備野は反論しづらい。
「あ、本当だ。誰なの兄ちゃん? ってか、ここ俺の部屋なんだけど――」
上体を起こした源も、荒ぶる庵に加勢する。
流石にこれだけ騒げば目も冴えてしまう。
「――ああ、そういうことなら自分の部屋に行きなよ。何もなかったフリぐらいはしてあげるから」
「そういうこと……?」
察したような源の言動。
そして庵の怨嗟が吉備野にも伝う。
「いや庵。これ痛いし制服が伸びるから――」
「――説明くらいはしてくれるんだよね?」
そして徐々に引き寄せられて行き、吉備野はそれを軽減しようと自ら床に跪座する。
「……」
そこで漸く庵は両手を離す。
締め付け過ぎるのは良くないと自重したためだ。
次いで。兄であるはずの吉備野を脅迫するように、腕を組んで仁王立ちする様で見下げ果てていた。
「ここじゃあ、お兄ちゃんに悪いから居間で話そうか?」
「……はい」
庵はもう一人の兄である源に配慮して、吉備野にそう告げる。
吉備野家の兄弟妹間の決まり事で、庵がお兄ちゃんと呼ぶのは、年齢が一つ上の兄で次男である源を指している。同様の比較で、年齢が四つ上の兄で長男である吉備野にはそう呼ばない。
兄が二人いて、呼称の紛らわしさを改善する目的もあったが、吉備野に対する最早愛称のようなそれは、両親が悪ふざけで庵に吹き込んだ産物だ。
吉備野の名前である兆を『ちょう』と読ませ、兄ちゃんと合体させた造語がいつの間にか定着してしまったものである。
無論。家屋の外では言わない、吉備野家だけの呼び名だ。
「あなたも、上の兄との事情を聞かせて貰っても構いませんよね?」
庵が他人行儀で畏った口調になって鵜久森に訊ねる。兄の吉備野からしたらかなり変な感じになる。
因みにこの上の兄という表現は吉備野の事だ。
それを眺めて苦笑しながら立ち上がる源が、吉備野の左肩を慰めるように一度叩くと、庵の真横を素通りし、自身の部屋を一抜けで後にした。
項垂れる吉備野を後目に、庵は鵜久森の返答を沈黙が続いても待っていた。
そうこうして数十秒後、満を持して鵜久森がその口を開いた。
「その前に、吉備野……たちのご両親は、今ここにいらっしゃらないのでしょうか?」
「……ふ、二人とも当分はオフィスで寝泊まりするって昨日連絡がありました。だから今日も帰らないんじゃないかと思います」
鵜久森と庵がお互いに探り合って会話しているせいか、吉備野にとって違和感があるものであったが、とても横槍を入れて介入する暇はなかった。
「そうですか。なら今日、私がここに居る理由は無くなりましたね。失礼してもよろしいでしょうか?」
「ぜっったいダメです! 上の兄との関係を穿鑿しますから!」
鵜久森は挨拶と今後のことを吉備野達の両親と話す予定だったが、残念ながらいないのであれば日を改めようとした。
けれど庵がそこまで汲み取ることは出来る筈もなく、鵜久森がただ逃げようとしているみたいにしか映らなくて、お互いが微妙に食い違っている。
「……なら私からも一つ。先程の吉備野に対する『兄ちょー』について教えて貰えますか?」
「はい……?」
庵が怪訝な体裁を明るみにしながら、鵜久森と初対面とは感じられないほど不快な声質で敢えて聞き返した。
「だからその……吉備野のことをちょっと可笑しな呼び方をしている理由を教えて頂けるのでしたら、私の退屈凌ぎにはなるかなって。どうですかねえ、庵さん?」
それは鵜久森なりに庵と距離を詰めようとした結果ではあるけど、これでは大いに誤解が生じる。
鵜久森が庵を馬鹿にして煽っているようにしか聴こえない。
「――それ、嫌味ですか? もしくは喧嘩売ってるんですか? に……上の兄とはどのような間柄か存じませんが、第一印象では非常に不愉快です!」
庵が感情を噛み殺しながら続ける。
鵜久森がこんな筈じゃなかったと言いたげにしているのを吉備野は茫然と見守るしかなかった。
「御託なんて並べてないで、何があったのか一緒に説明だけしてくれたらいいんですよ!」
「そうですね……私からだと言い辛いので代わりに答えてよ、えっと……兄ちょー?」
「なっ!? っ――」
鵜久森は吉備野を嘲笑しながらそう述べているように庵には見えてしまう。
「――う、上の兄からよりも、あなたから聴きたいんですよ私は!」
「そう……なら少し考えさせてください」
誤解を積み重ね、ついには表情が歪むくらい憤慨した庵は、冷静さを取り戻そうと胸に手を当てる。
このままだとあらぬ暴論を吐き捨てかねないと考えたからだ。
その気持ちを察してはいない鵜久森は、吉備野の体調を加味した上で説明よりも優先する事項があると、唐突に部屋を後にした。
「ちょ――」
「……」
その制止の言葉を紡がれず届かない。
更なる曲解が生まれているとも知らずに。
「「…………」」
取り残された吉備野と庵は、鵜久森の背中を見送る羽目になる。それから暫くの静寂が続いた後に、庵が他愛のない極めて家庭的な台詞をぼやいた。
「……寝巻きじゃ悪いし、部屋で着替えるから先に行ってて」
「あ、ああ」
庵が無遠慮に吉備野へと投げつけたせいで無造作に転がっていた枕を拾い上げると、正面にある自身の部屋へと一旦、戻っていく。
「はあ……」
吉備野は緊張と解決策が逡巡として、どうしたものかと額を抑えながらも、やっとの思いで立ち上がろうとする。
すると唐突に、頭部に苛烈な疼痛が襲う。
内壁にぶつけたとかそんなレベルではないそれは、まるで日常がここで途絶えてしまうかのような、羅刹極まりないものだった。
「ぐあぁ……あぁ」
両脚が麻痺したかのように、その場に倒れ込む。
暴発した蓄積疲労が身体中を循環し、それが再び脳内にまで伝播する刺激を感受した。
そして前頭葉を抑えたまま、吉備野の意識はものの呆気なく、暗転する。