兄弟
しがない過疎地域にある、空き地と店仕舞いをしている呉服屋に挟まれた木造二階建ての住居が吉備野家だ。
何度か改装や縮小を重ねてはいるが、先祖代々この土地に住んでいて、吉備野家は知らないけど結界も張られていたりしている。鵜久森はそれを感知出来るけれど、意図的に無視する。
「良かった。ここから見る限りは、吉備野の家が壊滅していたりは無さそうだね」
「藪から棒に物騒だなおいっ」
早朝のシャッター街にあるタイルをローファーを踏み鳴らしながら、吉備野と鵜久森は比較的冷静に観察している。
鵜久森が冗談半分で発言した事態は免れていると吉備野は判断する。お互いの険しい表情も心なしが緩和していた。
「そういえば、こんな時間に帰って怒られたりしないの?」
「……」
吉備野は夜の帳が下りるまでには素直に帰宅する性分だった。それがいきなり朝帰りをするという非行に、どんな反応が返ってくるか想像のしようもなかった。
「……一応、フォローだけはしとこうか?」
「……いやいい」
「そう?」
「鵜久森に頼むと家族の記憶改竄とか普通にやりかねないからな」
鵜久森は心外だと吉備野を睥睨する。
「……出来なくはないけど、極力しないよ。まあ口止め料で解決するのなら弾むけどね。私にも非があるし、お金には困ってないしね」
「だから……そういうこと言うからだろ。俺が全部甘んじて受け入れるから、鵜久森は何もしなくていい」
着実に帰路を進める。
数少ない雑談ではあるけど、吉備野と鵜久森の関係性にも同じことが言えるかもしれない。
そうして吉備野家の玄関前。
「……えっ?」
吉備野と鵜久森は扉の前にある石畳の上で右肩から崩れ落ちるように横たわる、ツーブロック風の髪型をしていてその顔の輪郭がどことなく吉備野を彷彿とさせる弟の、吉備野 源を目撃する。
「……」
瞬時に鵜久森は索敵用の術式を念のため展開して、兄である吉備野が盲目なまま迅速に駆け寄った。
「おい源! どうした何があった!?」
「……」
寝巻きの上下土色のスウェットを着て、寒さ対策に一枚羽織った姿の源は、呼び掛けてすぐに返事がない。それどころか微動だにもしていない。
吉備野は視点が定まらず靄が覆ってしまうほど狼狽えつつも、とにかく命の確認をしようと、源の左心房当たりに平手を置いた。
「――脈はある。息もしてる」
吉備野は安堵して気を許す。
もしものことがあったらと気が気でなかった。
「……んん」
すると唐突に源は、吉備野の手を無作為に払い除ける。先程まで全く動こうともしなかったのが幻のようだ。そうして源は生きている証拠となる世迷言を、滴るように並べていった。
「……ふあ、誰? 今日は学校休みでしょ、寝かしてよ」
「え、あ、ああ。わ、分かった」
緊迫張り詰めた吉備野に対して、源のうつらうつらとした擦り切れた声が、翻弄される時間を過ごした吉備野を日常に帰還させる。
「はあ……良かった、寝てるだけか」
「吉備野、一応周辺を調べてみたけど何にもないね」
合間に鵜久森が淡々と分析結果を述べる。
あまりの安堵の反動で、吉備野自身が寝そべってしまいそうな錯覚に陥ってしまう。それをなんとか耐え凌いで応えた。
「そうか……っていやいや源、こんなとこで寝てたら病気になるし身体も痛いだろ。取り敢えず部屋まで運ぶからな?」
「……ん」
源はまだ微睡みの中のようだ。
そのまま吉備野は玄関の施錠を外して扉を開き、源の睡眠を阻害しないよう肩甲骨と膝裏を支点に据えて抱え上げる。
そうして源の自室に運ぼうとする前。相変わらず吉備野家の敷地を跨かず立ち尽くしている鵜久森にいつになく穏やかに声を掛ける。
「鵜久森、また逢う機会はあるよな?」
「当然でしょ」
「ははっ、だよな……。じゃあその時に、またな」
「んー」
鵜久森のおざなりな返答を背に受けて、吉備野はやっと家に帰ることが出来た。
「ただいま……」
吉備野は誰にも聴こえないくらい小声で、高校から帰宅してきたときと同様の応対をする。
他の家族を起こす訳にはいかないと自制が働いていたからだ。
そのままローファーを脱いで、手前にある階段を上り、源の部屋まで抜き足で向かう。
木琴を叩いたように反響する階段が、この日はいつも以上に轟くと感じていた。
二階に辿り着くと五つの部屋があって、階段の正面にあるのが両親の部屋、そこから空き部屋を挟んで妹の部屋、その対に源の部屋、そして最奥に吉備野の部屋とある。
吉備野は体制を整えつつ源の部屋の扉に手を掛ける。
必然的に身体を揺らすことになっても、源が二度寝から起きる様子はなく鎮まりかえっている。
実の弟の部屋ということもあって気兼ねなく開ける。
吉備野の弟妹はそれぞれ中学生で、複雑厄介な年頃真っ只中ではあるけど、吉備野と源はあまり関係を拗らせることなく、同性というのもあり、用件があれば平然と互いの部屋を行き来することもよくある。
しかし同じ実でも妹だと、兄の吉備野でも多少の遠慮はあったと感じ、今回に限っては胸を撫で下ろす。
そうして源を部屋の隅にあるベッドに乗せ、テーブルのクロスを引く芸当のように、吉備野は源を支えている両手を黙々と抜いた。
妙な達成感が舞い降りてしてきて、吉備野は思わず感嘆を漏らす。油断のしかった声質だ。
「よしっ」
「お疲れ」
吉備野は背後から労いの言葉を投げかけられる。何事かとすぐに振り返ると別れた筈の鵜久森が居た。
「ああ……って鵜久森! なんでここに?」
「えっ、ずっと後ろに居たんだけど」
然も当たり前のように、鵜久森は双眸を点々としていた。逆にどうして気がつかなかったんだと言いたげだ。数回高速で瞬きをしたのが、更に拍車を掛ける。
吉備野は源を運ぶことに注視していたとはいえ、その足音も気配も感知することは出来ず、鵜久森に対して後退りして慄く。
「ふー……」
そこから仕切り直すように深呼吸して、両足を揃え直し意見する。あくまでも対等に会話する為だ。
「というかこっそりとついてきて家に入るとか、普通に不法侵入になるだろ」
「そうなんだけどね、吉備野がちゃんと休んでくれるかどうかだけ心配だから、そこだけ見守ろうかなって思って――」
「――休む! 今日は一日ゆっくり休むから」
「それなら良いけど、なんか焦ってない?」
源が寝息を立てて熟睡している側で、吉備野が宥めるように両手を差し出して制してはいるが、どうにも鵜久森には響いていない。
両親が帰宅しているかどうかを玄関の靴を見て確認する事を失念していた吉備野だが、この家にはそんな両親以上にその蛮行に目くじらを吊り上げる、融通の効かない兄妹関係のある人物が確実に居ることを、その兄の吉備野は十二分に存じていた。
「とにかく、鵜久森なら二階の窓から飛び降りても平気だろ? ほら、俺の両親や……一番面倒なヤツに見られる前に――」
「――窓から降りるのは全然大丈夫なんだけど、その提案酷くない?」
「いや……それは悪いと思うけど、ここに居られると色々とまずいと言うか不都合というか」
「うーん……——」
そう思案しているような口振りをしつつ、鵜久森は一瞬背後の物音を感じ取る。どうやら吉備野は勘付いていないようで、一応忠告を試みる。
「——それはいいんだけど、もう遅いよ?」
「え――」
「――りゃあっっ!!」
刹那。慎ましさの欠片もない咆哮と共に、吉備野が隙を晒しているその後頭部に、低反発の枕が問答無用で投げつけられる。凄まじい速度だ。
不意を突かれた吉備野は全く対応出来ずに、その一撃を喰らってしまう。