いつかの吉日
寝起きで調理に取り掛かるのは誰も彼も少々億劫。
特に睡眠以前の困憊が残留していれば尚更だ。
そこに完成された料理があると知らされる。
例え軽食の代表格のサンドウィッチでも非常に助かる。
この胸の内の歓喜は吉備野だけのモノだ。
「おお……作り置きしてくれてたのか?」
「うん、私じゃなくて庵さんがね。因みにコンロの方に昨晩の余りのシチューがあるから、一緒にどうぞ」
「ああ、ありがたく頂くよ!」
「うん……そういえば何か言い掛けてなかった? 確か私の名前だった気がしたけど?」
吉備野はそのままコンロに向かい、シチューの残量を確認しようとしたとき、鵜久森がそう疑問符を浴びせる。
踵を返すと鵜久森のぼんやりとした素顔が映る。その沈黙は銃口を前頭部に向けられるよりは全然優しい。
「えっと……――」
これはあまりにも不甲斐ない感情から来たものだからどうしようかと少し迷ったけど、別に隠す必要も事柄でも無いと、吉備野は白状する。
「――……俺さ、やっぱり鵜久森に助けられてばかりだったなって」
「なんだそんなこと、吉備野はまだ知らない事だらけなんだから気に病むだけ損だよ。頼れるなら頼った方が良いときもあるし――」
フォローしてくれる鵜久森の言葉を吉備野は遮る。
それは単純にその言葉を受け入れてしまうと、いつまでも鵜久森に甘んじようとする吉備野の気持ちを振り払い、今し方得た決意を告げる為だ。
「――だからいつか鵜久森が困っていたら、俺が全身全霊を懸けて、命を懸けてでも……必ず助けるっ」
「……」
吉備野が鵜久森に思い続けた事。
ずっとこの関係性のままだと、きっと叶わない。
「それで鵜久森が俺にしてくれた厚意を清算出来る訳じゃないけどさ……せめてそのくらいはさせてくれよ。鵜久森に助けて貰うだけ、守護されるだけなんて俺は嫌だ」
「……私の役目を全否定だね」
吉備野 兆を生かせ。それが鵜久森の使命。
なのに不思議と吉備野の威勢に好意的な印象を受け取った鵜久森の胸の内が居る。吉備野は更に続ける。
「いや違う。俺はただ、鵜久森と対等で居たい。鵜久森が俺を無条件に守るのなら、俺も鵜久森を無条件で護りたい。その為の能力はまだ無いけど―……」
「……そうだね、全くって言っていいほどにね」
「でも――」
「――そもそも私の介入がないと家宝に身体を支配されかねないのに、時期尚早だよ」
「……分かってるさ――」
反論する台詞も無く、いじけるように項垂れる吉備野。そんな様子を慈しみの顔付きをしたままの鵜久森が、スカートのポケットから取り出した逸品を、吉備野の決意を受け、正式に改めて託す事にする。
「――はい、返すよ」
「これ……」
それは吉備野家の家宝であるもの。
いつか初代に身体を乗っ取られる起因になったモノ。
「吉備野家の渾天儀。この判断は随分と早計し、危険性も孕んだままだけど、いいかなって」
「……いや、俺が持っていてもどうしようも――」
「――私を護る……ね。つまり、せめて私と同等にまで力を付けないといけない。ならまず、系統を受け継げるだけの許容がないと無理だから……吉備野の今の言葉を、私は信じて渡します」
「ちょっ……おい……――」
そう言いながら鵜久森は、及び腰の吉備野の右手を強引に掴み、無理矢理に手渡す。
過去二回とも吉備野の身体に変調をきたした行為。
反動で蹲ろうとするけど、触れた瞬間直ぐに何ともないと気付く。
「――あれ?」
「大丈夫でしょ? だって私の力で抑制してるからね。吉備野が二回目に接触したときよりも若干だけど強めにね」
「……っ」
それは暗に、吉備野の実力不足を指摘していた。けれど元々返還する気もなかった家宝を鵜久森が納得して渡した事が、とてつもない進歩だということを、吉備野はまだ知らない。
「……悔しいかもだけど、最初はここから始めようよ。吉備野はまだこれからだし、潜在的な良家の血筋だけあって自力は確かにあるからね」
「俺が鵜久森に追い付けるまで……どれくらい掛かる?」
純粋な問い掛けに、鵜久森は多少事務的に答える。
「どれくらい掛かるか、分かっていない間はまだまだとしか言いようがないかな?」
「あ……確かに、そうなるな」
それだけ操れる呪力量の格差、術式と親身に向き合い叡智を養ってきた経験値、身体を追究しようとする貪欲さ、吉備野は全て鵜久森に劣る。
つまりは鵜久森の力量すらも見極められない現状の吉備野は、術者としての能力差を鑑みた立ち位置が途轍も無く後方だという事だ。
「うん。でもまさか、吉備野からそんな事を言われるとは夢にも思わなかったよ?」
「……口から出任せかもしれないけどな」
卑下する吉備野に、鵜久森はかぶりを振る。
「ううん。先ずそんな発言すら普通は出ないものだから……私個人としては嬉しいよ」
「鵜久森……――」
「――事実かどうかは曖昧だけど、宇佐は世代で一番の術者ではなかったとされてる。これは享受していた吉備野家の初代当主が超えたから、らしい」
「そんなことが――」
「――あくまで噂だけどね」
そう言うと鵜久森は、吉備野に掛けていた術式を一つ誰にも聴かれないように小声で解く。それは吉備野と鵜久森が邂逅したときに、協力関係を結ぶ為の荒療治。だけどもう、不要だと察した。
「……『讃良』、解除」
「鵜久森?」
「ううん、何でもないよ。それよりも朝御飯食べなよ、力を身に付けるには誰でもちゃんとした食事から、だからね」
「あ、ああ……」
対象に鵜久森の思考を混入させる洗脳術式『讃良』。自身の名前でもあり、宇佐が備野に掛けた原初の術式でもある。勿論自我を根こそぎ改竄する訳ではなく、あくまで辻褄を強引に合わせてしまう程度の効力だ。つまり散々懸念していた吉備野は既に、鵜久森の洗脳下にあった。
そんな事実を知らずキッチンに入り、弱火でシチューを温めて直す吉備野が、鍋蓋を取りながら鵜久森に訊ねる。
「鵜久森ってさ、この後どうするつもりなんだ?」
「どうするって?」
「その……元々の家に戻るとか? 俺に関する災難は大体解決してくれたみたいだしさ……」
「ああ――」
考えるまでもないと鵜久森は直ぐに返答する。
丁度吉備野が振り返る瞬間を狙い澄まして。
「――暫くここに居るよ。吉備野に教えたいないといけないしね」
「……そっか」
「嫌だったかな?」
「いや……良いと思う。というか、一緒に居てくれよ。まだ俺だけじゃ……情けないけど、どうしようもないからさ」
「確かにね……うん、そうする」
吉備野の目線を逸らしながらの天邪鬼な解答に、鵜久森は満更でも無く苦笑いする。偶然か否か、沸々と鵜久森が作ったシチューが徐々に熱を帯びていく。
深々とした一刻がせせらぎのように流れる。
今日も人々の生活に術者達は溶け込む。
血筋は異なる縁故。
幾星霜の術式の宿命は、吉備野と鵜久森を繋ぎ止める。
吉日の兆しが訪れるのはいつになるか分からない。
けれどいつか、讃美が淡々と蠱惑的に共鳴する。
その讃嘆たる、未熟な吉兆と誘われて。
吉備野 完
ご愛読ありがとうございました。
物語はここで閉幕となりますが、彼ら彼女らの人生はまだまだ続いて行くことでしょう。
そして新たな長編作品を12月の下旬(30日、31日のどちらか濃厚、とにかく年内)に開始する予定なので、そちらも是非よろしくお願いします。
改めまして。ここまで連載を追いかけて読んで下さり、ありがとうございました。