優れない男子高校生の兆し
押し付けられた課外労働から解放され、校舎から校門までの無駄に迂回を強要される道筋を熟れた足取りで歩く。先程まで小雨が降っていた影響か、やたらと湿度が高く、疲労に上乗せする。
「んー……」
倦怠感が彩り、両腕を前方に伸ばして凝固する関節をほぐす。すると泡沫が連続して弾けるような不吉な音色が鳴る。
平均男性を少し下回る身長と、同じく体重。
ブレザーの制服は上下ともに着崩していない。
整髪が一周して面倒になり、今は無造作な髪型。
ルックスは特筆すべき所は無く、強いてあげるなら左頬の黒子くらいの男子高校生。
ただその名前は、なんとも機運が高まりそうなのが少し皮肉かもしれない。
それは放課後。職員室に呼ばれ、テストの得点が振るわない事実を担任教師から突き付けられる。
そして三年生のこの時期だと、もし進学する場合に大学の選択肢が狭まるという、判り切った常套句を宣告されるが為だけに、居残りをさせられていた。
ついでに担任教師の隣席の先生から、自クラスの教卓に裂け目が生じたと、物置きにある予備の教卓の配置を手伝わされた。
終了報告に再び、担任教師が鎮座する職員室に戻ると各教科の予習プリントを手渡された。
そこへ加担するように今まで縁のなかった先生からも一枚上乗せられ、合計で十五枚の紙の束をクリアファイルに纏め、それをスクールバッグに入れる。
思いの外、時間は経過していないことに安堵する。
まだ校内には数人の生徒の姿が散見されている。
そうして未だ旧校名である奇町中央高校と、堂々と記された看板が混在する校門前を抜ける。
通学している現校名、中央町高校から自宅までの帰路へと、感慨も無く就いている最中に突如として偏頭痛に侵される。
額を右手で抑えながら暫く立ち止まっていると、次第に自意識を取り戻していく感覚のまま、次第にそれは治まっていく。
「うゔっ……なんだ……?」
この世に生を受けて丁度十八年。些細な頭痛くらいそれだけ人生を過ごしていれば幾度か経験はある。
でも、今まで培ってきたもの全てを忘却されてしまうような乖離的な事象に酷く戸惑った。
「立ち眩み……貧血……? 一体なんだったんだ?」
双眸を開閉して淀みのない視界を確認する。
前方の十字路。歩道の手すりに杉並木。黄土色の外壁。一軒家の小庭で無防備のまま眠る柴犬。車道から追い越していく黄緑の軽自動車には、若葉のマークがついている。
「問題ないか……? 今日はすぐ家に帰って、汗を流して、飯を食って寝て休もう。疲労が溜まってるんだな――」
独り言を呟くようにしながら徐に振り返る。それは何故か。帰宅するまで余計な所作を嫌ったその身体で、不必要な素振りでしかなかった。
行動原理が分からない。
直感なのか、もしくは悪寒のようなものを察知したせいかもしれない。
とかくにこの状況判断は、後々の顛末から逆算すれば、それは往々にして最初の遁術だった。
「あ、すみません。少しお時間いいですか?」
「……っ!」
言葉にならない驚嘆が渦巻いた。
背後ろおよそ二歩は離れた間合いにいるブレザーを着用している少女に、気付けば詰め寄られていた。
そして、その高校の女制服を規定通りに着こなした少女が手ぶらで話しかけてくる。
一見して社交的な振る舞いだけど、とても淡白な口調のせいか、感情を押し殺しているようだ。無理をしていると言えなくも無い。
当然ながら初対面だ。
その少女は肩甲骨の辺りまで伸ばした、一縷の狂いも無い藍染めしたような長髪ストレートが燦々として、引き締まった頬に自然体な薄桃色の唇、長い睫毛と鼻高が際立ち、履いているローファーのおかげで若干の補正こそあるが、身長も百六十センチ以上はあり、小顔も相まって低く見積もっても八頭身は下らない。
世間から見ても美人と評するものが多数派だろう。
「あ、うん……」
おずおずと警戒しながら頷いた。
この先々の会話の流れが、どうにも予期出来なかったからである。
「良かった。断られたたらどのように対処しようか検討するところでした」
両手を合わせて、少女は安堵の笑みを浮かべた。
けれどその類稀なスタイルに加え、淑やかな笑顔が行動の異常さに乗算している。
「その制服、俺と同じ高校の子だよね?」
「……一応これが身分証明みたいなものですか?」
「見間違いじゃなければ」
「そうですか、だと有り難いです」
少女の両手はそれぞれ、ブレザーとスカートを交互に指し示している。
平凡でしがない男子高校生は感慨なさげに眺めてみたが、中央町高校の女生徒の制服と相違ないと判断したようだ。
「まあ、同じ高校ってのは、少し信用できる要素ではあるかな?」
「それは良かった。便利ですね、こういうときに」
少女は微笑して、後ろで手を組んだまま時間だけが流れていく。逆風すらも感知しない空虚なそれは、ただただ戸惑って茫然とする。
「……」
「……」
「……えっと、俺に何か用だよね?」
「あっはい、そうでしたすみません」
少女が取り繕うように、その長髪を撫でる。
特に意味はなかったようだが、あどけない一幕を垣間見た気がする。
しかし結論から言うとこの日、男子高校生がベッドで眠ることもはおろか、夕飯の肉じゃがを食べることも、シャワーを浴びることも、そもそも自宅に帰ることすらも叶わなかった。
「まずは自己紹介ですね。私は……山田と言います」
「山田さん……」
「はい――」
快活を装った返事でその表情すらも崩さない。
何処か継ぎ接ぎのような山田を名乗る少女に対する違和感を、取り敢えず一旦保留することにした。
「――それで突然で大変申し訳ないのですが、私は貴方と一つ、交渉がしたいのです……吉備野さん」
「えっ……な、えっ?」
それはこの平凡でしがない男子高校生の苗字だ。
しかしその吉備野の困惑は、唐突に苗字を呼ばれた事による畏怖ではなかった。
いや正確には内包はしている。ただ、それが眼前の場面により上書きされてしまったからだ。
スクールバッグが右肩からずれ落ちようとする。
それがおよそ交渉と呼べる類いなのか否か、ただただ余談を許さないと悟る。
吉備野は両膝を震わせ、自身に向けられているリボルバーの銃口を、怯みながらも睨む。