僕の完璧な幼馴染
「じゃあこの問題は……相良、できるか?」
僕、相良至は、教師に名前を呼ばれた瞬間、憂鬱な気分に包まれた。
それは数学の授業中の事。高校生になって授業に付いて行くのが難しくなり、二年になった今はそれが余計に顕著になった。今も提示された問題は難しく、与えられた時間をフルに使っても、僕にはどうしても解くことが出来なかった。
「……分からないです」
「そうかぁ、けっこう時間とったんだけどなぁ……誰かできた奴いるか?」
がっかりしたような教師の声。反応はそれだけで、教師はすぐに僕への興味を失ったみたいだった。
そんな反応も慣れっこだ。僕は昔から誰かに期待されるような事なんてあまりなかった。
何故なら、僕の傍にはいつも優秀な人がいたからだ――。
「はい! 私解けました!」
元気よく手をあげたのは、僕の真後ろに座っている一人の美少女。
長い黒髪が美しく、整ったその顔立ちは、可愛いというよりは綺麗と言う方がしっくりとくる。背筋がのびた綺麗な姿勢は、自信に満ちていて堂々としており一切の躊躇がない。
「おぉ新子! じゃあ前に来て解いてくれるか?」
「はい!」
教師の期待に満ち溢れた声に、何てことはないという風に答え、前にでたその少女はスラスラと問題を解き、すぐに答えを導き出してみせた。
「うん、正解。流石だなぁ新子」
教師が感心したように手を叩けば、教室中からクラスメイトたちの感嘆の声が上がる。皆からの賞賛の声に包まれて、それでも彼女は得意げになったりするような事もなく、謙虚に笑っていた。
容姿端麗で頭脳明晰。それに運動も出来るのだから、完璧だと周りから言われているのも納得できる。
そんな絵にかいたような存在。それが新子麗香という少女。僕の幼馴染だ。
「いえ、これくらいは」
「はは、謙遜するなって、じゃあ解説するから分からなかった奴はちゃんと聞いとけよ」
教師が僕を見て言う。
嫌味だと思ったけれど、実際に解けなかったのだから仕方ない。しっかり理解するために教師の話に集中しようとすると、前から戻って来た麗香が後ろから僕に耳打ちしてきた。
「あとで私が教えてあげるから、気にする事ないよ」
耳元で囁かれるその慰めの言葉に、僕はただ頷きを返した。
「そうそう、だからこの答えになるの。至は流石だね、すぐ理解できちゃうんだもん」
「うん。まぁ」
休み時間。授業が終わり教師が出ていくと、麗香はすぐさま先ほどの問題の解説を始めた。
学年成績トップの実力は伊達じゃなく、教えた方も上手い麗香の講義には、いつの間にかクラスメイトたちも集まって来ていて、今では周りには人だかりが出来てしまっていた。
「すぐ理解する至もすごいけど、やっぱり新子さんの教え方が上手いんだよ!」
「そうそう! 新子さんに教えてもらったら、馬鹿な俺だってこれくらい分かるようになるって」
「麗香ちゃんってホント凄いよね! 今度私にも勉強教えて欲しいなぁ」
「あッズルい! 私だって麗香ちゃんに教えて欲しいのに!」
「いやぁ至は新子さんが幼馴染だなんて羨ましいわなぁ」
盛り上がるクラスメイトたちに囲まれる麗香と僕。
麗香の注意が離れた頃を見計らって、僕は静かに席を立って輪を抜けた。
「あれ、どこに行くの至?」
あれだけの人数の相手をしながら、離れて行く僕の事もしっかりと見ていたらしい。麗香が僕に呼びかけると、邪魔をしてはいけないとでも言うように、今まで騒ぎ立てていたクラスメイトたちが静まり返える。
「いや、トイレだよ。言わせないでよ恥ずかしいな」
「ごめんごめん。私も一緒に行くよ」
「いやいや、それより皆にも数学の問題教えてあげなよ」
何気なく立ち上がろうとする麗香を僕は慌てて止めた。周りのクラスメイトたちも僕の意見に同意してくれて、麗香は「それなら」と座りなおしていた。
皆の中心になっている麗香を確認して、僕は一人で教室を出る。
トイレには行かない。そのまま通りすぎて階段を下り、渡り廊下から外に出て、設置されている自販機で飲み物を買った。
そのまま自販機の横に座り込んで時間を潰す。
教室にいる時は息が詰まりそうになるけれど、こうして一人でいると随分楽になった。
僕は、麗香がついて来なくてほっとしていた。
いつの頃からだったか、今となっては覚えていないけれど、僕は麗香と一緒にいるのが苦痛になった。
別に嫌いなわけじゃない。ただ一緒にいたくないだけ……。
昔は一緒にいるのが当たり前だった。それがどうして苦痛になったのかというと、単に自分が惨めになる気がするからだった。
学力は平均、運動はあまり得意じゃない。そんな僕の傍にはいつも麗香がいて、僕には出来ない事を軽々とやってのけ、それでいて僕を手助けしてくれる。
周りは僕に見向きもせず、麗香だけが注目されるけれど、それは別に気にならなくなった。平凡以下の男子と、超高校級の女の子がいたら、誰だって女の子に注目するだろう。
僕が嫌なのは僕自身が、麗香と自分を比較してしまう事。
僕には出来ない事も、麗香は簡単にやってのける。
それは勉強だけじゃなく、あらゆる日常の分野、その全てで変わる事がない。
僕には出来ない、麗香には出来る。
僕には出来ない、麗香には出来る。
僕にはできない、麗香にはできる。
そんな現象ばかりが目の前で起こると、嫌でも自分が惨めになってくる。
単に努力が足りないと言われればそれまでだし、実際にそうなのだということは分かっている。
何故なら今では完璧な美少女として皆の中心になっている麗香も、昔はそうではなかったからだ。
僕と麗香が出会ったのは小学校に入る前、家が近所だった僕たちは親同士の交流もあって仲良くしていた。
あの頃の麗香は今の姿からは想像も出来ないと思うけれど、太っていてどんくさかった。
小学校に入ったばかりの頃は、馬鹿な男子からいじめられる事もあったくらいだ。それに勉強もあまり得意ではなく、なんなら僕が麗香に勉強を教えてあげていた事もある。
まぁそれも小学校低学年の頃までの話で、麗香は成長するにしたがって、どんどんと綺麗になっていった。
麗香が痩せるためにいつも運動をして努力していたのを僕は知っている。夜遅くまで必死に勉強しているという麗香を、あの頃は素直に応援していた。
一緒になってランニングしたり、お互いの家で勉強を教えてあげたりして、二人で一生懸命に頑張っていたあの日々は、今でも美しい想い出として僕の心の中に残っている。
今では誰もが認める美少女になって何でもできるようになった麗香が、それでも謙虚な姿勢でいるのはこういう過去があったからなのだと思う。得意にならず、偉ぶる事もない。そんな麗香の性格も、彼女が完璧だと言われている一因だ。
一歩一歩、確実に自信を高めて来た麗香。
僕はあの頃、麗香が成長していく姿を見るのが嬉しかった。
そのはずだったのに、麗香と僕の立場が逆転してからは、素直にそう思う事が出来なくなっていた。
日頃の運動の賜物か、麗香は痩せて背も伸びると綺麗になった。今まで散々馬鹿にしていた男子が掌を返す様は、見ていてとても痛快だった。ただ、今まで一緒にしていた運動に、元々そこまで身体を動かす事が得意じゃなかった僕の方が付いていけなくなった。
毎日一緒にしていた勉強も、学年を重ねるごとに難しくなっていき、中学の時にはもう僕が麗香に教えられる事がなくなったばかりか、麗香から教えてもらう事が増えてきた。
初めのうちは、麗香の成長が素直に嬉しかったはずなのに、高校生になった今でははっきりと自分と麗香の立ち位置が入れ替わってしまっていて、その事を認識してしまってからは、麗香の成長を心から喜ぶ事が出来なくなった。
何も進歩がない自分と、何でも出来るようになった麗香。
その構図ははっきりとしていて、もう取り繕う事も出来ない。
どんどんと成長していく麗香と、何の進歩のなく停滞している自分。麗香は僕なんかでは届かないような場所に行ってしまい、今までの自分の立場はまるっきりなくなった僕は、ただ惨めな気持ちになってしまう。
けれど、本当に一番惨めになるのは麗香が僕を持ち上げる時だ。
「至は流石だね」
「凄いよ至!」
「私がこうしていられるのは、全部の至のおかげだから」
今でも麗香はそんなふうな事をよく口にする。
別に大した事じゃなくても、そうやってすぐに僕を褒めてくれる。麗香から褒められるということは、クラスメイト達には嬉しい事なのかもしれないけれど、僕にとってはそうでもない。
麗香なら普通に出来る事なのだろうし、出来たらところで別に凄くない事を、そんなふうに褒められても、わざと持ち上げられているようにしか感じないのだ。
昔の麗香は周りから馬鹿にされるような存在だった。だから僕なんかと一緒にいたのも理解できる。けれど、今となっては麗香は周りに人を引き付ける側の存在だ。なのに彼女はまだ僕なんかの傍にいる。
麗香とは対照的にまったく進歩しなかった僕には何も取り柄がない。勉強も運動も、芸術的な面でも、何も人と比べて優れている事がない。本当なら凡人の中に埋もれて、誰からも注目される事のない、クラスでも目立たない存在になっていたはずだ。
今僕がそうなっていないのは、麗香がいつも隣にいるからだ。
人気者の麗香が未だに僕から離れず、僕だけを特別扱いする。
何も出来ない男が人気者の女の子から特別扱いされていたら、羨まれるのが普通なのに麗香の人徳のおかげか、僕まで皆からそれなりに一目置かれるようになった。
麗香に同意するように、皆も僕を褒めてまわりに人が集まって来る。
まぁ皆僕を通して麗香に気に入られたいのだと言う事は分かるけれど、思ってもいない事を言われ続けるのは、想像以上にとても居心地が悪い。口先だけの褒め言葉なんて、もううんざりだ。
ただ、もしかしたらだけど、麗香だけは本心から言ってくれているのかもしれない。
麗香の律儀な性格なら昔の事をまだ感謝していて、逆の立場になりそうな僕に恩返しをしてくれているのかもしれない。
勉強をしていると、分からない所は麗香がすぐに教えてくれる。そのおかげで宿題とかで困ったことはない。
休み時間には必ず僕に話しかけてきて、クラスの中心にしてくれる。一人ぼっちで寂しいなんて場面には一度もなった事がない。
好きで始めたテニス部。僕は昔からやっていたのに、今では追いかけるようにして入って来た麗香の方が大会でも活躍していて、いつもアドバイスをくれる。麗香の言う通りにすると、確実に上手くなった。
麗香はそうしていつも僕を気にかけてくれて、そんな麗香の優しさが、僕には本当に鬱陶しくて仕方なかった。
「あ、こんな所にいた!」
ぼーっと考え事をしていると、一番聞きたくなかった声が聞こえてきた。
顔を上げてみれば、そこにはやっぱり麗香がいて、彼女はそうするのが当然のように、僕の隣に腰を下ろした。
「スカート汚れちゃうよ」
「気にしないから平気。それよりなかなか戻って来ないから心配したんだよ! 具合悪いのかと思って男の子にトイレ見に行ってもらったんだから」
さりげなく恐ろしい事をされていたらしい。
これで本当にお腹が痛くてトイレに入っていたら、僕は大便をしていたと皆の前で報告されていたのだろうか。考えるだけで冷や汗が流れてくる。
麗香は当然の行いだとでも言うような態度をしていて、その声には彼女が本当に心配していたと思わせるような説得力があった。けれど、まさか虐めようとしているのでは、と疑ってしまったのは今の仕打ちを考えれば仕方ないだろう。
「そしたらトイレにいなかったって聞いたから、慌てて探しに来たんだよ。まぁ至のいる所はだいたい想像できるけどね」
どうやら僕の単純な行動パターンも読まれているらしく、麗香は得意げだ。
「ねぇ麗香、そんなに心配しなくても……ただトイレに行って飲み物買いに来ただけだからさ、わざわざ探しに来なくていいんだよ?」
「安心して、私がしたくてやってる事だから至が遠慮する事なんてないんだよ」
何が安心してなのか、僕は一人でいたいから言っているのであって、遠慮しているわけではない。
何も分かってくれない麗香は、ニコニコした顔で寄り添ってくる。
キミは勘違いをしていると、はっきりと伝えようとして、何とか踏みとどまった。
あれは一年生の頃の事だった。僕は自分の惨めさに我慢できなくなり、麗香と距離を置こうとした事がある。別に麗香に突き放すような事を言うわけでも、酷い事をして嫌われるわけでもなく、ただ静かに離れようとした。
麗香に声をかけられても無視はせず、一言二言で離れてこちらからは一切近寄らない。そうすれば段々と一緒にいることも少なくなって、自然と麗香とも距離ができるだろうと思っていた。そんな事を実行するくらいには、麗香と一緒にいるのが辛かったからだ。
その結果どうなったかと言うと――
――麗香に思い切り泣かれた。
僕の家に押しかけて来た麗香は、家族の前で土下座して「至に嫌われてしまいました。全部私が悪いんです。ごめんなさい。ごめんなさい許してください!」と恥ずかしげもなく顔をグチャグチャにして泣き散らかした。
元からうちの両親と麗香の両親は親同士の親交があり、「麗香ちゃんはうちの子とは違っていい子だわぁ」と常日頃から話題に出すほど麗香を気に入っている。
そんな両親の前で麗香が泣いたらどうなるか……結果、僕が親から散々怒鳴り散らされた。
今までの人生で一番だと、はっきりとそう言える程の出来事だったから、あの時の事はたぶん一生忘れない気がする。
「お前なんかのために麗香ちゃんは一緒にいてくれるんだぞ! 感謝はないのか!」
「麗香ちゃんを泣かせるなんて、どこで教育を間違ってしまったのかしら」
「謝れ! 今すぐ麗香ちゃんに謝って、二度とこんな事はするな! 分かったか!!」
父さんに頭を押さえつけられ、床に顔を押し付けられた僕はそのまま麗香に土下座した。
一切躊躇もない力を込められて、抵抗も出来ず、かなりの勢いで頭を床に打ち付けた僕は意識が朦朧としていた。そんな危ないところを助けてくれたのは、他でもない麗香だった。
麗香が止めてくれて僕は解放され、「もう喧嘩はしませんから」と麗香が言うと、あんなに興奮していたのが嘘のように、両親も安心していた。先に謝り始めたのは麗香なのに、何故かその時は僕が悪者になっていて、ひどく唖然としたのを今でも覚えている。
またあんな目に遭うのはごめんだ。
僕は麗香に手を引かれるまま、大人しく教室に戻った。
学校でも家でも、僕は麗香の付属物。
皆に囲まれていても、それは麗香への通り道的な扱いで僕自信を見てくれる人は誰もいない。友達も親も話題にしてくるのは皆麗香の事だけ、まるで自分は麗香のために存在しているような気がして悲しくなる。
そんな中でもただ一人だけ、僕を見てくれる人がいる。
それは、麗香だ。
麗香はいつも僕を見てくれている。
僕が一人でいれば寄り添ってくれるし、困っている事があれば助けてくれる。分からない事も教えてくれて、麗香は常に僕の傍にいようとしてくれる。
けれど、麗香のその行動が僕を酷く惨めにする。
僕には出来ない事を、いとも簡単にやってしまう麗香。
僕が先に始めたのに、後から僕よりもいい成績を軽々と残す麗香。
意識しなければいいなんて言われるかもしれないけれどそれは無理だ。
麗香の方から近づいてきて、頼んでもいないのに僕の問題を全て解決していく。その姿はまさに完璧で、僕は自分が存在している意味が分からなくなる。
学校では誰かに話しかける事なんてなくなった。どう頑張っても結局は麗香の話題になるからだ。
好きだったテニス部も最近はあまり行かなくなった。麗香が入ってからは部活もクラスにいる時と変わらなくなったから。
家でも学校でも、麗香、麗香とその名前ばかり。
本人もずっと僕に付いてきて、麗香にそんな意図がない事は分かっているけれど、僕には何もできないという惨めさを味わわせてくるためにいるのかと錯覚してしまう。
どこに行っても麗香のおかげで自分が惨めな存在だと思わされる。けれど、そんな僕にも心安らぐ場所が一つだけある。
放課後になった瞬間に教室を飛び出した僕は、その唯一の場所に向かっていた。
学校の最寄り駅から家とは反対方向の電車に乗り、住宅街から離れて都市部の主要駅で降りれば、目的地はすぐそこだ。
大きなビルに入っている学習塾。
ここが唯一の心安らぐ場所であり、僕が一番好きな所だ。
高校生にもなれば塾に通う事くらい珍しくもないと思うけれど、クラスメイトには塾通いをしている人はあまりいない。
わざわざ勉強しによく行くなと言われた事もあるけれど、僕にとってここは最高の場所だ。
よくて平均と元々僕の学力は高くない。二年になって勉強のレベルもあがり、成績も下がってきた時、何気なく親から言われた塾という提案に僕は飛びついた。
自分でもこのままじゃいけないと思っている。もっと勉強したい! と言えば親も渋ることはなかった。
評判がいいからとわざと離れた所にある塾を選んだ甲斐もあり、ここには麗香はもちろん、クラスメイトも一人もいない。
誰からも麗香の話をされる事もなく、自分で麗香と自分を比較して落ち込む事もない。
塾だから成績順に名前を張り出されてりもするけれど、そこには麗香の名前もない。いつも成績は下の方だったけれど、麗香の名前がないだけで新鮮な気持ちで勉強をする事が出来た。
一週間に二日だけの塾。
それが僕にとっての何よりの楽しみだった。
だからだろうか、自分では意識していなかったけれど、周りからは僕はよほど楽しそうに見えていたらしい。
「いつも楽しそうですね」
そんな風に声をかけられたのは休憩室で休んでいた時だった。
その声色からは普通の世間話なんて感じはまったくしなかった。とげとげしい空気を隠そうともせず、なんなら少し馬鹿にしたような意図すら見え隠れしている。
僕に声をかけてきたのは、ほっそりとした小柄な女の子だった。休憩室には他に人がいないから、間違えようがない。
こちらを見ている目は、不機嫌そうに細められていて、瞳の奥には我の強そうな意志を感じる。
肩まで伸びたセミロングの髪は茶色に染められていて、その髪色は塾では他にいないこともあって、印象的で覚えていた。
たしか同年代。塾の成績優秀者として、いつも名前が張り出されている女の子だったはずだ。
塾に知り合いなんていないし、もちろん今目の前にいる女の子とも一度も会話をした事はない。
それでもこうして敵意のような物を向けられているからには、何か気に入らない事をしてしまったのだろう。お気に入りの場所を失いたくなかった僕は、穏便に済ませるためにすぐ謝ろうと思ったけれど、何が原因かも分からないままでは下手に謝る事もできない。とりあえず彼女の言葉を待ってみる事にした。
「いつも笑ってますけど、そんなに勉強が好きなんですか?」
「えっと、そうですね」
「その割には成績は良くなさそうですね。一度も名前を見た事がないですよ?」
明らかにこちらを馬鹿にしたような声色。特に接点もない女の子から、こんな風に罵られる理由が僕には特に思いつかない。
単に自分が成績優秀者だから下の人間を馬鹿にしているだけだろうか。それくらい単純なら分かりやすくていいのだけど……。
「うん。頑張ってはいるんだけど」
「私から言わせてもらえば、ヘラヘラ笑ってる時点で努力してるとは言えないと思いますよ。見てて反吐が出そうです。目に入るといつもイラつきました」
煽るような彼女の言葉。ただ、その言葉からは単に馬鹿にしているというより、何か分からないけれど、彼女の憤りのような物を感じた。
勉強に対する並々ならぬ想いでもあるのかもしれない。自分が本気で取り組んでいるところに、ヘラヘラしている奴がいたからイラついたのかと思った僕は、今後の事も考えて大人しく謝ることにした。
「ごめんなさい。本当は勉強が好きというわけじゃなくて、ここに来るのが好きなんです」
「はぁ? 何言ってるんですか?」
「えっと、僕の傍にはいつもある人がいるんです。その人はすごい優秀で、クラスメイトとか、僕の親も、皆がその人を褒めるんですよ。学校とか家にいるといつもその人と自分を比べちゃって、勝手に惨めな気分になるんですけど、ここにはその人がいないので、比べられたり自分で比べる事もしなくて済むから、だからここに来るのが楽しいんです」
きっと、急に自分語りを始めた僕はさぞかし気持ち悪い事だろう。ただ、そういう理由で笑ってしまっていただけで、不真面目にしていたわけではないと、そう伝えられたら充分だ。
あとは目に着かないように、ひっそりとしていれば、この女の子がまた絡んでくる事もないだろう。
そう思って話をしていると、僕の予想とは違って、彼女は身を乗り出して僕の話に聞き入っていた。
「いつも一緒にいるって、それって兄弟ですか?」
「あ、いえ、幼馴染です。小学校からずっと同じ学校で、家も近いから両親も知ってるんですよ」
「……家族じゃなくても、親から比べられたりするんですね」
「えっと、僕の親はですけど」
よく分からないままに黙り込んでしまう彼女。しばらく待ってみたけれど、もう何も言ってこないみたいで、僕はこれ以上イラつかせないように休憩室から離れる事にした。
「あの、これからは不快にさせないように気を付けますから、それじゃあ」
「……待ってください!」
急に袖を掴まれて驚いた。振り返ると彼女自信も自分の行動に驚いたようで、慌てて手を離して頭を下げて来た。
「さっきはすみません! 私、イライラしてて、関係ない貴方にあたってしまいました。本当に失礼なことをして、ごめんなさい」
その謝罪には最初に話しかけられた時とは打って変わって、とげとげしい空気は一切感じられない。本当に申し訳ないと思っているようで、その変わり具合に戸惑ってしまう。
「えっと、お気になさらず」
そう言うのが精一杯だった。ただ彼女の様子を見るに、どうやらこれ以上絡まれる事もなさそうで、安心して休憩室から出ようとすると、また彼女に袖を掴まれていた。
「えっと、まだ何か気に入らない事でも?」
「ち、違います! あの、わ、私もなんです!」
意を決したように叫ぶ彼女。その大きな声はきっと休憩室の外まで響いているだろう。僕は怒られないか気が気じゃなくなった。
「とりあえず落ち着いてください。その、声が大きいですよ」
「す、すみません!」
聞いてくれているのか分からない反応を返されて困る。注意する間もなく、また彼女が喋り始めてしまいって、とりあえず僕だけは大人しくしていようと静かに座りなおした。
「私、姉がいるんですけど……頭がよくて今はいい大学に通ってるんです。私、親にいつも姉と比べられてて、それで塾にも通わされてて、今日もイライラしてて貴方にあたってしまって……けど貴方の話を聞いてたら、なんだか共感しちゃって、あぁ、うまく纏められないけど、本当にごめんなさい!」
心からあふれ出してくるようなその言葉を聞いて、なんとなく彼女の境遇が理解できた気がした。
近い場所にいる完璧で優秀な存在。
嫌でも比べられてしまうし、自分でも意識して比べてしまう。
きっと彼女も、僕と同じで惨めな思いをしていたのだろう。
それが分かれば、もう理不尽にイライラをぶつけられた事も気にならなかった。深く事情を聞こうとは思わない。話す彼女も辛いだろうし、聞いているだけで僕も辛くなりそうだ。
「あの、もう気にしないでください。えっと、お互い大変ですね」
「……ふふ、そうですね。ありがとうございます」
ぎこちなく笑いかけてみると、よっぽど変な顔だったのか、彼女も少し笑ってくれた。
不機嫌そうな顔から一転して、とても可愛らしい笑顔だった。
「私、速水恭子って言います」
「あ、すいません、僕は相良至です」
「あの、もしよければ……これからも話しかけていいですか?」
「え? それは、別に構いませんけど」
「いきなりごめんなさい。同じ境遇なんだと思ったらつい」
「いえ、僕も周りにはこんな悩み言える人がいないので」
そう答えると速水さんは嬉しそうな顔を見せてくれた。
お互いに似た境遇の者同士の出会い。
速水さんとの出会いは、最初こそ最悪だったけれど、僕にとってかけがえのないものになっていくのだった。
速水さんと塾で会話をするようになってから、僕たちは急激に仲良くなっていった。
塾の休憩室が僕たちの憩いの場所。とくに相談したわけじゃないけれど、いつも同じ時間に休憩室で会うのが僕の楽しみになった。
初めての会話で、すでにお互いの深い部分にある悩みを知ってしまったからか、お互いに気恥ずかしいいという事がなくなったのかもしれない。
自然とプライベートなことも話すようになったし、普段なら思い出したくもない、自分のコンプレックスの相手の愚痴も聞いて欲しいとすら思った。
「え? じゃあその新子さんって人は家にまで普通に入って来るって事?」
「そうだよ。昔から遊びに来てたから僕の親も我が子のように普通に受け入れるからね、僕がいないときに部屋にいれてたりするくらいだから」
「うわぁ、それはキツいわ。しかも親の前で泣かれるとか、ご愁傷様としか言えないわね」
「あれはキツかったなぁ。たぶん人生で一番親から怒鳴られたし、なんで麗香があそこまで僕に構うのか意味が分からないよ」
「相良君の事が好きなんじゃないの?」
「まさかぁ……まぁ麗香の事なんて僕には分からないし、分かりたくもないけどね」
「嫌いではないって言ってたけど、よっぽど嫌いじゃない。まぁ私もそうだけど」
「お姉さんなんて、いつも家にいるから逃げ場ないじゃん」
「ホントにね。大学生になって家から出て行ってくれたけど、一年前はもっとキツかったわ。それこそこんな風に愚痴を聞いてくれる人もいなかったし、もっと早く相良君と会いたかったな」
何気なく言われたその言葉に、僕の心臓が大きくはねる。
言った本人も、後からなんとなく恥ずかしくなったらしく頬を少し赤く染めていた。そんな彼女の顔を見ていると僕も溢れる思いが止まらなくなる。
「僕も、もっと早く速水さんと会いたかったな」
「あ、そ、そう?」
「うん。速水さんとこうして喋るようになってからね、毎日楽しいんだ。麗香といると落ち込む事はあるけど、塾に来たら速水さんに会えるなって思うとなんだか頑張れるんだよね」
「えっと、ありがとう」
「いや、こちらこそ、毎日の活力をありがとう」
「いや、私の方も相良君と話すの楽しみだから」
今まで誰にも言えなかった想いをお互いに吐き出し合える相手。僕にとって、すぐに速水さんの存在はとても大きなものになっていった。たぶん、彼女からもそう思ってもらえていたと思う。
元から麗香から離れられる唯一の場所で、自分から好きで通っていた塾がもっと楽しみになった。
今までは週二日だったけれど、親に頼んで週四日まで増やしてもらった。
元々部活には行かなくなっていたし、成績も塾に通い始めてから少し上がっていたから親にも反対されることはなかった。
速水さんの親は勉学に厳しいらしく、週五日で塾に通っているから、平日はほぼ毎日のように顔を合わせるようになった。麗香から離れられる時間が増えて、その分を速水さんと一緒に過ごす。
雑談する時間も日に日に増えて、速水さんから勉強を教えてもらえたりもした。僕にとって塾での時間は楽しいもので、日々の活力として満足していたけれど、どうやら速水さんは塾だけでは満足できなかったらしい。
「ねぇ、連絡先教えてよ」
「え? どうしたの急に?」
「いや、もし家で分からない所があったら教えてあげるわよ。それに、塾の無い日もストレスは発散できた方がお互いよくない?」
髪の毛をくるくると指でいじりながら、そんなもっともそうな理由を語る速水さん。
若干の不安を滲ませたようなその表情は、安心させてあげたくなるような庇護欲をそそられた。
「……分からないところがあったらいつでも連絡していいから」
「うん。ありがとう」
僕は顔が熱くなっていて、絶対に赤くなっているだろうなと思ったけれど、速水さんの顔もほのかに赤く染まっていて、同じだと思うと恥ずかしさよりも嬉しさが大きくなった。
それからは毎日のように連絡し合うようになり、塾がある日でもそれは関係なかった。
別に僕たちは付き合っている訳ではない。まだお互いに苗字で呼び合っているし、実際に会うのは塾でだけという関係。けれど速水さんの事を意識していないというのは嘘で、僕の中では速水さんが日に日に大きな存在になっていた。
そんなある日の事。
『実は行きたい所があって』
『今度の日曜日、一緒に出かけない?』
速水さんから送られてきたメッセージに、心臓が高鳴りだす。
大きな鼓動が耳のすぐ傍でなり始めて、身体が熱を持ち出した。
僕の返答はもちろんイエス。
メッセージを送るとすぐに速水さんからも返事が来た。
『ありがとう。すごい楽しみ』
そんな短い分に、彼女の気持ちが凝縮されているような気がして、僕は胸の高鳴りが止まらなかった。
ただ、どうしても僕は邪魔されてしまう運命にあるのかもしれない。
次の日の学校で、僕は選択を迫られる事になった。
「日曜日に皆で遊びに行く事になったんだけど、至も行くよね?」そう笑顔で聞いてきたのは、他でもない麗香だ。
一緒に遊びに行くことを本当に楽しみにしているというような純粋な笑顔。大抵の男の人は一発で落ちそうな、思わず見とれてしまう程の表情を向けられて――
――僕は少なくない苛立ちを感じた。
「私が計画したんだよ! 最近は至が塾の時間増やしちゃったからちょっと寂しくて……一緒に楽しもうね!」
普通に聞けば可愛らしいそんな言葉も、僕には傍若無人なものに聞こえる。なんで僕が断ることをかんがえていないのか、そんなに暇な奴だとでも思われているのだろうか、その考え方に苛立ちは増す一方だ。
「至はいいよなぁ。新子さんからこんなに想ってもらえてさぁ」
「あぁ、羨ましいったらないね」
「相良君の事もちゃんと考えてあげててさ、麗香ちゃんってやっぱり優しいよね!」
周りからもそんな声が聞こえてくる。
僕が日曜日に麗香たちと遊びに行くのは、もう全員に周知された事のようだ。
なんで僕の予定を勝手に決められなければならないのか。
僕は麗香の所有物じゃない。
「……ない」
「え? どうしたの至?」
「あ~ごめん麗香。日曜日は別の予定があるから無理だよッ」
伝え方にはこれでも気を遣った。
行くわけないだろ! と叫びたい気持ちを理性で押さえつけて、いつも通りの穏やかな声で、いつも通りの緩やかな口調で、やんわりと行けない事を伝えた。
なんでそうしたかと言えば、感情をそのまま言葉にしてしまったら、麗香にどんな反応をされるか分からないからだ。
両親の前で泣かれた時の事を思い出す。
今この状況で、あんな事になったら、クラスに居づらくなるのは間違いない。
だからこそ、穏便に済ませようと気を遣った。
そのはずだったのに、僕は一瞬身体が震えるほどの恐怖を感じた。
無理だと伝えた瞬間に、麗香から表情が消えた。
周りを魅了するような笑顔は消え失せて、吸い込まれそうな黒い瞳に、穴が開きそうな程見つめられた。
僕は動けなかった。麗香も動かない。
ただ、その真っ黒な瞳だけが、せわしなく動いていて、僕の全身を舐めわすようにとらえている。
想像したように泣くでもなく、怒り出すでもなく、ただ僕を見つめてくる麗香。こんな表情は今まで一度も見た事はなかった。
「……ってなに?」
「え? な、なに?」
まるで動いていないように見える麗香の口から、呟くような低い声が漏れて来た。聞き返すと目を見つめられ、黒々としたその瞳が怖くなった僕は目をそらした。
「予定ってなに?」
「僕にも友達と遊びに行く約束くらいあるからさ」
「学校にいる至の友達には、そんな予定ないはずだけど?」
さらりとそんな事を言われて震えそうになる。確認したわけでもあるまいし、なんでそんな事をはっきりと言えるのか理解できない。ただ麗香が納得していない事は確かだ。
「塾の友達だからね、学校の人は関係ないよ」
「……へぇ、塾の」
麗香はかみしめるように呟いた。そこまでは考えていなかったのかもしれない。
「いくら麗香からの誘いでもさ、先に約束してた人に悪いでしょ? だから今回は仕方ないと思うんだけど」
畳みかけるように正論で武装する。
先に約束していたのに他の人と遊ぶから、なんて理由でキャンセルするのはいくら何でも酷すぎるだろう。麗香もそれを否定はしないはずだ。
「……」
「……」
相変わらず無表情で見つめてくる麗香。何を考えているのかまったく分からない。
もしかして、ここまで言ってもまだ何か納得していないのかと身構えた時――
「そうだったんだね! そういう事なら仕方ないかぁ。うん、残念だけどまた今度にしようね至!」
――今までの能面のような表情が幻だったかのように、麗香はまた笑顔に戻っていた。
「え? あ、あぁ、そうなんだ! ごめんね麗香」
「いいのいいの、そんなに気にしないで、でも次は一緒に遊んでくれると嬉しいな」
「そ、そうだね、予定がなければもちろん僕も参加するよ」
「約束だからね! じゃあ皆、至は残念だけど、私たちは予定通りに楽しもうね」
思わず拍子抜けしそうになる。
今の麗香にはさっきまでの不気味な空気は感じない。前の時のように泣きだしたりもしないで、すぐにこちらの言い分を認めてくれた。
何か不穏なものを感じた気がしたけれど、考えすぎたと自分に言い聞かせる。だって普通は予定があれば仕方ないで終わる話だ。つまりこれで普通なんだ。麗香も、もう大人になったのかもしれない。そう考えれば、変に警戒するのが馬鹿らしくなってきた。
クラスメイトたちとはしゃいでいる麗香を見て、安心した僕はホッと胸をなでおろした。
「ぅ、ぅぅ、まさかホラー映画だったなんて」
「ごめんって、そんなに苦手だとは思わなくて」
「むしろ速水さんはああいうの平気なの?」
「結構見るから……あ、ひ、引かない?」
「引かない引かない! すごいなぁって思うよ」
「そ、そっか……ならよかった」
待ちに待った日曜日の午後、僕は予定通りに速水さんと一緒の休日を過ごしていた。
少しだけ警戒していた麗香も、あれからは特にごねるような事もなく、きっと今日はクラスメイトたちと遊んでいるに違いない。
心配事もなくなって今は思う存分速水さんとの休日を満喫している。
塾以外で会うのは今日が初めてだった。待ち合わせ場所に行くと、時間より早く着いたのに、先に速水さんが待っていてくれて、慌てながらも嬉しかった。
いつもとは違うシチュエーションで会う速水さんは、なんだか普段よりも可愛らしく見えた。いつもは制服な分、私服姿も新鮮だったし、塾ではない場所でも速水さんがいるという事実に、自然と胸がドキドキしてくる。
喋りながら適当に歩き、速水さんが観たがっていた映画を一緒に見て、それから少しこじゃれたレストランに入って、二人で早めの夕食を食べた。
両親が厳しい速水さんの家では、午後の時間を自由にするだけでも相当大変だったみたいで、僕のためにそこまで頑張ってくれたのかと思うと、胸が熱くなるのを止められなかった。
「もし成績落ちたらヤバイかも」
「えぇ?! だ、大丈夫?」
「平気平気。最近さ、勉強に身が入るっていうか、なんか調子いいんだよね。相良君と話すようになって、前より休憩とか多くなったのに、なんか不思議だけどね」
「あ、僕も最近すごく調子いいよ! 速水さんがよく教えてくれるし、絶対成績上がってると思うんだ」
「このまま二人で遠くの大学でも目指しちゃう?」
「う、速水さんのレベルの大学となると、僕はもっと死ぬ気で頑張らないとね」
「あはは、いつでも勉強付き合ってあげるわよ」
「頼もしいかぎりです」
食後もずっと話をしていると、どうでもいいチャットで僕のスマホが揺れて時間が表示された。
それを見た速水さんが今までの楽しそうな表情を曇らせる。
どうやらもう時間のようだ。
僕たちは名残惜しさで動かない身体を無理やりに動かして店を出た。
「あ~あ、もう時間かぁ……ホントは一日中一緒にいたかったな」
思わず漏れた。そんな表現が適格かもしれない。
周りには人がいない。暗くなった静かな帰り道で、速水さんがボソッとそんな事を呟いた。
言った本人がすぐに顔を真っ赤にして口を押えていた。言われた僕も多分負けないくらいに赤い顔をしているに違いない。
僕たちの間に沈黙が流れる。
ただ、嫌な感じはしない。
熱に浮かされたような、ドキドキして、それでいて心地いい感覚。
「また、二人きりで会いましょう。僕も速水さんともっと一緒にいたいです」
「……約束だからね。また何とかして時間作るから、絶対一緒に過ごしてよね」
「はい、約束です! いつでも言ってください、僕の時間は速水さんのためにあけておきますから」
熱くなる心のままに言葉を紡ぐ。
熱のこもったような瞳で見つめられる。
その瞳から目を離せないでいると、何かを期待するかのように速水さんが瞼を閉じた。
目を閉じた速水さんに、少し見惚れる。
綺麗だった。
僕はひきつけられるように顔を近づけていき、もう唇が触れそうなところまで顔を近づけた。
けれど、それ以上は行けなかった。
ただの意気地なしなのかもしれない。けれど、僕は速水さんの事をもっと大切にしたいと思った。
キスは出来なかったけれど、その代わりに速水さんの手に指を絡ませると、少し驚いたような表情で速水さんは目を開けた。
「……してくれないの?」
「その、速水さんを大切にしたくて、もしよければ、今度、ちゃんとプレゼントとか、伝えたい言葉とか、考えて来るから!」
失望されたかもと思ったけれど、そんな事は杞憂だとすぐに分かった。
手を強く握り返されて、肩に体重がかかってくる。速水さんの全てが愛おしかった。
「約束、破ったら承知しないわよ。楽しみにしてるからね」
「うん。僕も次に会える時が楽しみだよ」
少しでも別れる時間を伸ばしたくて、僕たちは寄り添ったままゆっくりと帰り道を歩いた。
僕にとって、人生で初めてのデートを終えた次の日、いつものように月曜日がやってきた。
昨日、速水さんと過ごした時間が幸せ過ぎて、その余韻に浸ったままだった僕は学校で少し意外な展開に遭遇する事になる。
いつもなら僕より先に学校にいるはずの麗香が、今日は見当たらなかったのだ。
別に寂しいとか、いて欲しいと思っていた訳でもない。むしろいつもより静かな時間を過ごせると思い、別に探したりわざわざ連絡もせずにいた。
「さっき連絡があったんだが、新子は体調不良で今日はお休みするそうだ」
そのまま時間が過ぎて始まったホームルーム、教師が開口一番にそう言った途端、教室が落胆に包まれた。皆麗香がいないという事に悲しんでいた。
そんな僕はというと、ただ驚いていた。
これまで麗香は、何かあると別に頼んでもいないのに必ず僕に連絡をしてきていた。
今日みたいに休む時も、いつもなら学校に着く前には本人から直接連絡が来ていたと思う。
それが今日はなかった。
この時点ではまだ、驚いただけ。連絡もおっくうになるくらい具合が悪いのかもしれないと考えていた。
「麗香ちゃん大丈夫かなぁ」
「あぁ、心配だな」
「昨日も急用が出来たって結局遊べなかったしね~」
だが、周りから聞こえてきた会話で少し引っかかるものがあった。
昨日、僕が速水さんと遊んでいた時、麗香はクラスメイトたちと遊んでいる予定だった。僕が行けない事も納得してくれて、きっと麗香はそっちで楽しんでいるのだとばかり思っていたけれど、どうやら昨日麗香は参加していなかったらしい。
なんとなく、本当になんの根拠もないし、ただなんとなくだけど、嫌な予感がしたのだ。
そんな僕の不安が杞憂だとでもいうように、何事もなく過ぎていく学校での時間。
むしろ麗香がいない分、いつものように嫌な気分になる事もなく平和に過ごす事ができた。
今日は塾が無い日で、速水さんには会えない。それだけが残念だったけれど、麗香のいない穏やかな一日はなかなか悪くなかった。
『昨日は楽しかったね?』
帰り際、速水さんから送られてきたメッセージに思わず微笑む。
『昨日はありがとう。今から塾?』
『そうよ。今日は来ない日よね?』
『うん。今週は明日から』
『そっか、寂しいな』
昨日一緒に過ごしたからだろうか、速水さんがストレートに想いを伝えてくれるようになった。こんな短い文面でも、見ているだけで悶えてしまいそうになる。
『僕も寂しい』
『明日、待ってるからね』
『うん。いっぱい話そうね』
やり取りを終えて、スマホをポケットにしまう。
僕は晴れ晴れとした気分で歩き出した。
速水さんと出会えてから、僕は悩みを共有してもらえて随分と気持ちが楽になった。相変わらず麗香といるとモヤモヤとした気分になってしまう事もあったけれど、速水さんと仲良くなるほどに麗香の事を気にしないでいられるようになってきた。
速水さんの事を考えているだけで、身体が温かくなってきて、幸せな気分になれる。
当たり前だけど、僕はこの気持ちが何なのかもう分かっていた。
今までモテた事なんてない男の考えで、あてにならないかもしれないけれど、速水さんから僕に向けられている気持ちも、同じものだと感じている。昨日の帰り際、目を閉じていた彼女が僕に何を求めていたかを考えれば、間違いではないと確信が持てる。
儚くて尊い、大切な気持ち。
いつまでも心の中にしまっておけはしないもの。昨日伝えようかとも思ったけれど、この気持ちを軽いものだと思われたくなくて我慢した。
また二人で遊ぶ約束をしている。僕はその時に、この想いを伝えるつもりだった。
そう思っていたのに、僕は昨日告白しなかった事をすぐに後悔する事になった。
家に帰ると、何故か体調不良で学校を休んだはずの麗香がいた。
なんで? と聞こうとして開いた口からは声が出ない。
麗香と一緒にいた両親が明らかに怒っているのが分かったからだ。
「至、そこに座りなさい」
低く押し殺したような声で父さんが言った。ふざけたり逆らえるような空気じゃない。
促されるままに、テーブルの反対側に一人で座る。
向こう側には鋭い目つきをした父さんと、がっかりとしている母さん。そして、まっすぐにこちらを見つめてくる麗香が座っている。まるで麗香がこの家の人間で、僕が部外者になった気分だった。
「至、父さんはがっかりしたよ。もちろん母さんもな。何の事を言われているか、当然分かるな?」
そんな事をいきなり言われても分からない。ただ、馬鹿正直に分からないと言ってはいけない事くらいは分かった。
昔、麗香に両親の前で泣かれた事を思い出す。あの時の怒り具合といったら、もう少しで殴りつけられそうになったくらいだ。今感じている空気も、あの時とまったく一緒だ。
僕が黙っていると、こんどは母さんにため息をつかれた。
「あのね至。私とお父さんは、貴方を遊びに行かせるために、塾に高いお金を払っている訳じゃないのよ」
そんな当たり前の事を言われて、一瞬思考が追い付かなくなった。いったい何が言いたいのだろうか。塾に通い始めて成績も上がり、母さんも喜んでいたはずなのに……。
僕の混乱を見抜いたのか、ここまで黙っていた麗香がやっと口を開いた。
「あのね至、私偶然見ちゃったの」
そう言って麗香が取り出したのはスマホ。
画面に映っていたのは、寄り添って歩く僕と速水さんだった。
見た瞬間にすぐ分かった。帰り際の時だ。
麗香が画面をスライドすると、顔を近づけている僕と速水さんの姿が映し出された。この撮られ方だと、まるでキスをしているように見える。
「塾の友達と遊びに行くって言ってたからちょっと心配だったけど、案の定だったね。最近塾に行く時間を増やしたのは勉強のためじゃなくて、この子に会いに行くためなんでしょ?」
「ち、違う!」
「往生際が悪いよ。こうして証拠があるんだから。このままじゃ塾に行っても意味ないよ。至の成績も落ちちゃうし将来のためによくない。だからご両親に報告させてもらったの」
この女は何を言っているのだろう。
パパラッチか、それとも僕のプロデューサーにでもなったつもりなのか。なんで幼馴染にこんな事を両親に報告されなければいけないのだろうか。当然の義務のような態度をしている麗香の考えがまるで理解できない。
「ふ、ふざけないでよ麗香! こんな盗撮まがいの事をして、何のつもりだよ!」
「いい加減にしろ!!」
身を乗り出して麗香に詰め寄ろうとすると、父さんに倍以上の声で怒鳴り返されたて胸倉を掴まれた。
「麗香ちゃんはな! お前が道を踏み外さないように、わざわざ私達に報告に来てくれたんだぞ。父さんと母さんは感動したよ。昔からお前の面倒を見てくれて、今でもこうしてお前の事を真剣に考えてくれているんだぞ! それが何で分からない? お前は、麗香ちゃんに感謝すべきなんだぞ?」
分かるわけがない。
こんな盗撮まがいの事をされて、親にまで報告されて、なんで感謝なんてしなきゃいけないのか。
「お前が不純な目的で塾に行ってるのははっきりした。こんなどこの馬の骨ともわからん不埒な女と遊んでたら将来のためにならん。もう塾には解約の連絡をしておいたから、明日からは真っすぐ家に帰って来なさい」
「は? ま、待ってよ! どう言う事?」
本気で頭が真っ白になりそうだった。
今父さんは何と言った? もう塾は解約したと言ったのだろうか。通っている僕には何の話もなく、麗香の話だけを聞いただけで、そんな事までしてしまうというのか。
「どういう事も何もそのままだ。女目当てで行っているのなら、もう塾には通う必要はない」
「ち、違うよ父さん! その子とはたまたま仲良くなっただけなんだ! 勉強はちゃんとしてるよ。成績だって少し上がっていたでしょ?」
「どうせその子に良いところを見せようとしただけだろう。付き合ったりした瞬間に勉強もおろそかになるに決まっているじゃないか。この女も塾で男あさりしてるくらいだ、どうせ碌な女じゃない」
「!? 速水さんを馬鹿にするなぁああ!!」
僕は叫んだ。喉が潰れても構わないから今の言葉だけでも訂正させてやりたかった。速水さんは僕の人生で出会った誰よりも素晴らしいひとだ。自分のおかれた境遇にも負けず、自分の意志を持ち続けられる強い女性。彼女に出会えていなければ、僕はずっと腐っていたままだった。
そんな速水さんを馬鹿にされるのは何よりも許せなくて、叫んだ僕はあっけなく机に叩きつけられた。
「それが自分の親に言う言葉か至!! ふざけるな!! 謝れ! 父さんと母さんに謝れ!」
父さんに僕以上の声で怒鳴られ、力づくで机に頭を押し付けられる。まったく身動きが取れない僕は、それだけで、もう何も言えなくなった。僕が抵抗しないのを見て、それから父さんも力を抜いた。
「あのな至。父さんも母さんもお前が心配だからやってることなんだぞ? それに今更お前が何を言っても塾にはもう通えないんだ」
「……じゃあ勉強はどうするんだよ」
「それは心配するな。麗香ちゃんがしっかりと見てくれるとわざわざ言ってくれたからな。麗香ちゃんがいてくれたら父さんたちも安心だし、お前もちゃんと感謝するんだぞ」
満足気に頷く父さんを見ていると、もう何を言っても無駄な気がした。
麗香の事をまるで自分の娘のように思っているのか、麗香の言う事が絶対になっている。僕の言葉なんてまったく届かない。
「心配しないで至。私がちゃんと勉強は見てあげるし、変な女からも守ってあげるから」
こんな事をしておいて、なにをふざけた事を言っているんだと思った。
でも、麗香の目は真剣そのもので、たぶん心の底からそう思っているのかもしれない。
わざわざ学校を休んだのはこのためだったのだ。僕に塾を止めさせるために、事前に両親を説得した。しかも、クラスメイトたちの遊びを断っていると言う事は、初めから僕のあとをつけていたのかもしれない。
僕は麗香が恐ろしくなった。
思わず速水さんの声が聞きたくなって、ポケットのスマホに手が伸びる。
「そうだわ! 至、貴方携帯を出しなさい」
「は? な、なんで?」
「貴方を誘惑している女と連絡できないようにしないといけないでしょ! まったく汚らわしい。そうでしょ、麗香ちゃん?」
「えぇ、至の将来を考えたらその方がいいですね」
今まで黙っていたと思ったら、母さんが急にそんな事を言い出した。
どんな事を吹き込まれたらこうなるのか、僕には想像もつかないけれど、母さんも麗香も本気で言っているらしい。
「い、嫌に決まってるでしょ!」
「至!! お前の携帯料金は誰が払ってると思っているんだ! ふざけた事を言っていないで、さっさと出せ!」
父さんに胸倉を掴まれて引き寄せられた。
もう、この家には僕の味方なんていない。それがはっきりと分かった。
掴まれて動けないままでいると、麗香にスマホを盗られた。
ロック画面を設定しているのに、麗香はまるで何でもないかのようにロックを外す。教えた事なんてないのに、意味が分からない。
「やっぱり頻繁にやり取りしてますね。今日もさっきまで連絡を取り合ってたみたいです」
「本当ね、会いたいって書いてあるわ。やっぱり塾には勉強って嘘をついてこの子に会いに行っていたのね」
もう言葉も出なかった。
たとえ家族だとしてもプライベートはあるはずなのに、しかも麗香は家族ですらない。
「これは没収する。どうせなくても困らないだろ、お前のためなんだからこれくらいは我慢しなさい。父さんと母さんに嘘をついていた罰だ。言っておくが、このくらいで済んだのは麗香ちゃんがお前を庇ってくれたからなんだからな。感謝しておきなさい」
「安心して至。何か連絡したいときは、私を通して連絡したあげるから。それと、これからは毎日一緒に帰って、家で一緒に勉強会だからね! 私が教えてあげれば塾に通うよりすぐに成績良くなるから!」
胸を張って笑う麗香。綺麗だとか見惚れそうだとか、普通の人ならそう思うのかもしれない。けれど、僕にはそんな風には見えなかった。
ストーカーのように人を付けてきて、観察でもしていたのかロックの番号まで知られていて、そんな事をする奴は普通に気持ち悪い。犯罪者だと訴えたい。
ただ、麗香は完璧に上手くやった。人の両親に僕よりも気に入られて、自分の正当性を確固たるものにした。
僕はこの女に負けたんだ。僕はなんの取り柄もない高校生だ。塾の月謝だって、スマホの料金ですら払えない。
麗香に親を取り込まれた時点で逆らう事が出来なくなった。
何も言えなくなって項垂れる。
「元気出して至! これからも私がずっと傍にいてあげるから」
耳元で囁く麗香の声はどこか恍惚としていて、もうただの幼馴染だと思う事なんて僕には出来なかった。
それから、麗香に完全に管理される生活が始まった。
朝起きる時間から寝る前まで、僕のスケジュールは全て麗香に完璧に管理されている。
麗香は登校前には迎えに来るし、学校でも片時も傍から離れない。下校も必ず一緒にして、その後は家で二人きりの勉強会をする。
夜まで一分一秒でも麗香が僕から離れる事はなく、全てを麗香に決められる日々。
逆らえはしない。僕の親も味方につけた麗香は家族公認で僕の管理をしている。
もし嫌がるような事があれば、すぐに麗香から報告されて家族会議が始まるだろう。
しかも会議とは名ばかりで、麗香の話だけを信じる両親から一方的に怒られるだけだ。
誰も僕の話は聞いてくれない。どう抵抗しても、何をやっても無駄。
すべてを麗香に決められる毎日。そんな日々を過ごしてるうちに、僕は自分の意志が段々となくなっていくような気がした。
そんなある日の事。
放課後になり、麗香に手を引かれるまま帰っていると、昇降口に誰かが立っていた。
うちの制服じゃない。けれど見覚えのある制服。
思わず駆け寄ろうとして、きつく繋がれた手が僕を離してはくれなかった。麗香はそのまま僕の手を引いて引き返そうとする。
「相良君!」
それでも昇降口にいた速水さんは僕に気が付いてくれたみたいだった。声を上げて駆け寄って来てくれる。僕も速水さんの元に行きたかったけれど、麗香が手を離してくれない。睨みつけると、麗香が顔を寄せてきて、僕の耳元で囁いた。
「…………だよ」
麗香から言われた言葉の意味を考える。
「待って相良君!」
呼びかけてくれる速水さんに、僕は……何も答える事が出来なかった。
「それ以上近寄らないで」
速水さんから僕を隠すように麗香が前に出る。睨み合う形になった二人の間には、異様な空気が漂っていた。
「貴女が新子さんね。相良君から話は聞いてるわ」
「そういう貴女は塾で至をたぶらかしていた人でしょ? 学校にまで押しかけて来るなんて一体何を考えているの?」
「たぶらかしてって、失礼な事言わないでよ! 私たちは、その、お互いに一緒にいるのが楽しくて」
「何それ、至の恋人にでもなったつもりなの?」
「こ、恋人では、まだないけど……」
「恋人でもないのに、約束もなく他校まで来て昇降口で待ち伏せするなんて、貴女まさかストーカーなの?」
「ち、違うわよ! 私は急に塾に来なくなった相良君が心配で……ねぇ、相良君! 何とか言ってよ!」
近づいて来ようとする速水さんと距離を取るように、麗香が僕を遠ざける。
「至に近づかないで、貴方に付きまとわれて怖いって怯えてるんだから」
「そんなわけない! だって私たちは、その……」
「何? 付き合ってないんでしょ? ストーカーさん?」
「その呼び方止めてよ! ねぇ相良君、どうして何も言ってくれないの? 私、貴方のことが心配で来たのよ。その人の事が嫌いだったんでしょ? ねぇ、どうして何も連絡してくれなかったの?」
速水さんの声に悲痛な色が混じる。
二人きりで遊んで、また遊ぶ約束をして、その時に告白する事まで速水さんは伝えていた。それが次の日から急に塾にも来なくなって、連絡すら取れなくなる。速水さんの立場からしたらわけがわからないだろう。
心配してわざわざ学校まで来てくれたのが奇跡だ。そこまで僕に心を開いてくれていたという事なんだと思う。
本当に嬉しかった。
けど、僕にはもうどうしようもない。
『あの女と一切口を利かないで、さもないとあの写真を彼女の両親にもばらすわよ。厳しいご両親にバレたら、きっと彼女大変だよ』
麗香から言われた言葉がよぎる。
あの写真とは、僕の両親にも見せられた写真の事だ。うまい角度で撮られていて僕と速水さんがキスをしているように見えてしまう。
速水さんの両親が厳しいのは知っていた。優秀な姉に比べられて塾に通わされ、毎日勉強に励む日々。あの日は何とか休みを貰えたらしかったけれど、あんな写真を見せられたら、両親にどう思われるか分からない。最悪、速水さんの自由を今まで以上に奪ってしまうかもしれない。
そう思うと、僕は速水さんのためにも、麗香に従うしか道はないような気がした。
「ちょっと、至が怖がってるから止めてよ!」
「そんなわけない……貴女、貴女ね! 相良君に何かしたんでしょ? 相良君はいつも言ってたわ、貴女と一緒にいるのが苦痛だって、そんな人と望んで一緒にいるわけないもの!」
「へぇ、そんな事を……至が言うわけないじゃない」
「嘘じゃないわよ!」
「これ以上至に付きまとうなら、こっちも容赦しないわよ。職員室に駆けこんで貴女の事を通報するわ」
「なッ!?」
「大人しく帰るなら今日だけは見逃してあげるわよ」
勝ち誇った顔で、挑発的な事を言う麗香。驚いていた速水さんも、ただの脅しではないと気付いたのかもしれない。泣きそうな顔で僕を見つめてくる。
「ねぇ相良君、お願いだから何か言ってよ」
「……」
「私、毎日塾で待ってたんだよ? 今度いつ二人で会えるかずっと話したかったの」
「……」
「ぅ……あの日、二人で一緒に過ごした時、私が何かしちゃったのかな?」
「……」
「ごめん。ごめんね。謝るから、また声を聞かせてよ。また二人で会いたいよ。相良君と出会えてから、私、本当に毎日が楽しかったの」
「……ッ」
「だから急にいなくなられたら寂しいよ。お願い、声を聞かせて! 次二人で遊んだ時、私に何か伝えてくれるんでしょ!!」
「……ぅぅッ!」
僕は歯を食いしばって耐えた。
喋ってしまったら、速水さんは今まで以上に両親から縛られた生活を送らなければならないかもしれない。
なんとか声は抑えられたけれど、気持ちは抑えられなくて目からは涙が溢れて来た。情けないけれど、それが見えたら速水さんにも僕の気持ちが伝わるかもしれないと思った。
そんな甘い考えを打ち消したのは麗香だった。
僕を自分の胸に抱き寄せて速水さんからは隠された。
「無駄だよ」
それは僕に言った言葉なのか、それとも速水さんに向けたものなのだろうか。
どっちにしろ、僕たちはそれで心が折れてしまった。
「早く私たちの前から消えてストーカー、さもないと職員室に助けを求めるから」
「ぅ…………さようなら相良君」
その一言が胸に突き刺さる。
涙で霞んで、離れて行く速水さんの背中がよく見えない。
不意に顔を掴まれて、向きを変えられた。
正面には麗香の顔。
麗香はとても綺麗で、そして醜悪な、満面の笑みを浮かべていた。
「な、なんで、こんな事するの? 僕の事なんか、ほっといていてよ」
僕の口からでたのは心からの本心で、せめてもの抵抗。今までは麗香の反応が怖くて心にしまっていたもの。
「麗香の周りには沢山人がいるんだから、僕なんてどうでもいいでしょ! もっとカッコいい人に付きまとってよ! 目立たない僕なんかもう忘れてよ!」
あふれ出る気持ちに任せて麗香を睨みつけた。
それでも麗香は笑っている。僕の言葉なんてまるで聞こえていないみたいに、愛おしそうに僕を見つめてくる。
「至はね、私のヒーローなんだよ。昔の私を助けてくれたのは至なんだから」
「そんなの、子供の時の事じゃないか。普通そんなに引きずらないよ」
「至の言いたい事もわかるよ。でもね、いい事でも悪い事でも、やった方はすぐ忘れちゃう。大した事はしてないってね。だけどね、やられた方はいつまでも覚えてるんだよ。凄い事をされたんだってね。それが嫌な事なら怨みになるし、嬉しい事だったら憧れとか恋とか、そういう感情になるの」
そう語る麗香は、恍惚とした表情をしていて、常軌を逸したその目には、本当に僕以外は何も見えていないような気がした。
「だからね、私は至を離さないよ。もう変な虫が寄って来ないように、私が至を完璧に管理してあげるから」
もう僕は麗香の顔を直視出来なかった。そらした視線で速水さんの姿を探す。
けれど、もうどこにも彼女の姿は見えなくて、僕は麗香に抱き寄せられたまま、もう麗香から逃げる事なんてできないって、ただ諦めるしかなかった。