渋谷余話
以下は余談です。
筆者は地曳秀峰老師の道場に通ったことがあります。わたしは肩こりと疲れ目に悩んでいたので、なにかしら健康によいことをしようと思い立ち、軽い気持ちで通い始めました。
高速道路高架下の脇にある雑居ビルの地下が道場でした。道場とはいっても、机と椅子を並べればすぐに事務所になるようなオフィス・フロアです。お世辞にも設備が充実しているとは言い難い印象でした。道場の真ん中にコンクリートの太い柱があって、明らかに練習の邪魔でした。
当初は、太極拳の型を覚えていくのが楽しく、また、いい汗をかけ、疲労がとれましたので気に入りました。道場の雰囲気は穏やかで、指導員の皆さまも丁寧でした。ピリピリした雰囲気は皆無で、むしろ、和やかで笑いのある場所でした。
地曳秀峰老師は、すでに七十代くらいの年令に見えました。小柄なご老人でいつもニコニコしています。少しも強そうには見えませんでした。ただ、ご高齢ながら背筋が真っ直ぐでした。ワイシャツにネクタイを締め、そのうえに黒いカンフー・スーツを着ておられました。
「力を抜くと、気が出ます」
いつも同じ言葉を繰り返しておられました。練習が終わると短時間の講話があります。
「太極拳は武術ですから、身を守るのに役立ちます。気が出るようになりますと健康にもよろしいです。力は必要ありませんから、女性でも高齢の方でも、どなたにもできます。是非、皆さんも身につけていただきたいと思います」
練習には型と推手がありました。型は、套路ともいい、全部で九十九勢からなっています。九十九勢の動作には総て名前がついています。たとえば、單鞭、十字手、雲手、如封似閉、白鶴亮翅、抱虎帰山、海底針、金鶏獨立、玉女穿梭など、とても文学的です。その動きは、当初は珍奇に見えました。いかにも異国風の動作です。その動作にどんな意味があるのか、一向にわかりません。しかし、初心者は教えられたとおりに真似をして覚えていきます。普段使わない筋肉が刺激されて、それなりに気持のよいものでした。
推手は、二人が向き合って右手の甲を合わせたところから始めます。互いに右足を一歩前に出した中腰姿勢から、推したり引いたりして相手のバランスを崩そうとします。この動作の中で実践的な動きを訓練するのです。推手の練習では、地曳秀峰老師はすべての受講者と手合わせをしてくれます。その際、老師は必ず相手の名前を呼びます。誰も名札は付けていません。それなのに、老師はすべての受講者の顔と名前を憶えていました。
「はい、〇〇さん、どうぞ」
わたしは驚嘆しました。顔と名前を覚えるのは容易ではないはずでした。受講者はたくさんいたし、いつ誰が来るか決まっていないのです。不思議にも老師は全員の名前を憶えているのです。
そんなわけで推手のときには老師と身近に接することができます。右手の甲をあわせるたびに老師の手を拝見しましたが、女性的な小さな手です。すこしも厳つくなく、武張っていません。わたしの手よりも老師の手は小さいくらいでした。老人の手というと、皮膚が厚くなり、表面がツルツルに張った手が思い浮かびますが、老師の手の皮膚は実に若々しく、弾力がありました。爪はきれいに整えられていました。
その老師をどう推しても引いても倒すことができません。老師の胸の真ん中を思い切り推したつもりなのに、いつの間にかかわされています。反対に老師から推されると、どうしてもかわせません。
「!」
気がつくと目の前に床があります。自分が床に倒れているとはじめて気づきます。どのようにして倒されたのかさえ覚えていないのです。目くらましにかけられたような気分でした。
おだやかで人当たりの良い老人にしか見えない老師が、実は武術の達人であると認識するまでにわたしには多少の時間が必要でした。
地曳秀峰老師は技を実際に見せてくれました。目の前で包み隠さず見せてくれました。しかし、見る側のわたしに眼力がなかったのでわけがわからず、ただ不思議に見えるだけでした。どうしてそうなるのか、まったくわかりません。何もしていないように見えるのです。
「手首を相手につかまれたとしましょう」
老師の右手首を指導員がぐっと両手で握ります。老師は腕力を使って逃げようとして見せます。
「力では逃げられません」
少しおどけて、わざと眉間に皺を寄せ、相手を振り払おうとしますが、逃げられません。
「力をやめて、気を使います」
老師は左手で指導員の両手をなでるような、軽く推すようなしぐさをします。すると手首がスルリと抜けてしまいます。
「?」
目の前の出来事が実に不思議でした。どうしてそうなるのか全くわからないのです。真似をしてみても、できはしません。わたしは大いに興味を持ちました。
「気」という、実態をつかみにくい不可思議なものが太極拳の要諦であるらしいことにわたしは徐々に気づいていきました。气に米と書いて氣とも書きます。
「お米を食べるといいですよ」
老師が冗談を言ったことがあります。気功という、初心者にとって意味不明な練習は、気を鍛錬するためにおこなうものです。両足を肩幅に開き、中腰の姿勢をとってジッと動かない。両腕の位置には様々なバリエーションがあります。掌を開いて、力を抜くようにと教えられます。人差し指と親指の間を虎口と呼びます。
「虎口を開くと気が出ます」
そう聞いて虎口を開くのですが、うまくいきません。
「手に力が入っています」
注意されてしまいます。指一本といえども無造作に身体を動かしてはいけないようでした。手や腕には意識が行き届きますが、胴体には注意が向きません。また、知らず知らずにアゴを噛みしめていたりします。顔の力も抜かねばなりません。ひとは、無意識に無駄な力を入れているものです。
「腹式呼吸をすると良いです」
そう聞いて、そのようにすると腹筋に力が入ってしまいます。力を抜く、という単純なことが実に難しいのです。わたしとしては力を抜いているつもりなのですが、気づかぬところで力が入っています。気功のポーズをとる前に手足をブラブラさせて、それで力を抜いたつもりになっていても、それほど簡単なことではないとわかるまでにずいぶん時間がかかりました。
「ダラダラしてはいけません」
力を抜いても腑抜けになってはいけないともいわれました。ほどよく力を抜き、ほどよく残すらしいのです。
(いったいどうすれば、いいんだろう)
理屈好きなわたしは、太極拳の本を何冊か買って読んでみました。それは無駄な努力でした。役に立たない知識がやたらと増えて理屈っぽくなるだけのことでした。知識だけの武術など無用です。
地曳秀峰老師は、理屈を口にしませんでした。
「力を抜いてください」
「力を抜くと、気が出ます」
「太極拳は気の武術です」
「気が強くなると、身体が丈夫になります」
「気が出るようになれば、いつか指が火箸のようになります」
いつも決まり切った言葉をくり返すだけの説明に、理屈っぽいわたしは不満を感じたりしました。しかし、これはわたしの思い違いでした。言葉で説明しなかったのは、むしろ老師の誠意だったと今では思います。百万の言葉を費やしたところで、不可思議な体術を説明できるものではありません。身体でやることは身体で覚えるしかないのです。これは太極拳に限らず、水泳でも、自転車でも、逆上がりでも同じです。
老師はいつもニコニコしていました。指導員の方々も微笑をたたえているようでした。これも気を出すための工夫だと聞かされました。力を抜くために微笑しているのです。結果、教えられる方も教える方もみんなニコニコすることになります。そのせいもあって道場はいつも和気藹々とした雰囲気に包まれていました。荒っぽい言葉などは一度も聞いたことがありません。
いつもギスギスしている会社の雰囲気とは大違いでした。威張りくさって怒鳴り散らす上司、いつも駆け引きと打算が裏にある同僚同士の会話、そういう打算的人間関係に辟易していたわたしは、老師に人格的な魅力を感じたし、太極拳を通じてできあがったコミュニティを気に入りました。
地曳秀峰老師はごくまれに、型の一部を演武して見せてくださいました。その際の身体の姿勢の美しさ、動きのしなやかさはとても七十代の老人には見えませんでした。若々しい武人が突如として現れた感じです。
(世の中にこういう人がいるんだ)
わたしは何か貴重な人物にめぐり会えたように感じました。
(人間というものは鍛錬すればこうまでなるのか)
老いて衰えず、ということが実際にあるのだと教えられました。そもそも今の時代に武術で身を立てている人がいるということが驚きでした。
わたしは、太極拳そのものよりも、老師の講話が楽しみになってきました。毎回、ごく短い時間ですが、講話をしてくれました。その内容は太極拳のこと、「気」のこと、修業時代の苦労話、王樹金老師のことなどでした。
地曳秀峰老師が王樹金老師のことを心の底から尊敬しているらしいことは、言葉の端々から感じられました。指導員の方々も同じです。そこには強固な師弟関係があるようでした。
いま思い返して記憶に残っているのは、次のような言葉です。
「中国では三十才を過ぎて少林拳をする者は無茶と笑われます。三十才を過ぎたら誰もが太極拳に切り換えます」
「ご年配の空手の先生が恐い顔をして竹刀を振り回しているでしょう。あれは自分の衰えをごまかしているんです」
「私が空手の鍛錬をしている頃は体調も人相も悪かったんです。それが太極拳をやるようになったら体調も良くなり、人相も良くなったんですよ」
ひとを外見で判断してはいけない、というのは常識ですが、わたしは太極拳の道場に通うようになってから、いっそう強くそう思うようになりました。何の変哲もなさそうなオジサンやオバサンが実は相当な太極拳の使い手だったりするのです。若くて可愛い女の子だからといって油断できません。推手の手合わせをしてもらうと強いのなんの、こちらは形無しです。地曳秀峰老師がそうであるように、強そうにみえない人が強いのです。筋肉は目に見えますが、気は目に見えないということです。
(世の中、誰が強いのかわかったものではないなあ)
わたしは以前よりも謙虚になりました。
地曳秀峰老師は包み隠さず技を披露してくださり、身体の使い方を教えてくれました。しかし、わたしにとっては猫に小判、豚に真珠でした。結局、わたしは「気」を理解できないまま、あきらめてしまいました。それでも、ある種の満足感がわたしには残りました。
(良いものを見ることができた)
そんな感想です。高齢であるにもかかわらず超人的な技をくりだす老師、太極拳という不思議な武術、見た目を裏切る太極拳の使い手たち、強いけれどもあくまでも謙虚な人々、それらを見たという感慨です。渋谷の雑踏の片隅にある雑居ビルの地下で、数千年前からつづく伝統武術が今も伝えられているということに一種の不思議さを感じました。