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武術の伝承

 蒋介石が王樹金を文化特使に任命し、世界各国に派遣したのは、そこに政治的意図があったからです。中華民国に伝わった伝統武術を世界に広めることを通じて国威を発揚したかったのです。

 一方、支那大陸の武術家にとって不幸だったのは、中国共産党によって伝統を破壊されてしまったことです。それが武芸であれ、芸術であれ、文学であれ、産業であれ、技術であれ、すべての伝統を共産党は壊していきました。このため支那大陸では伝統武術の継承が途絶え、形骸だけが残りました。形ばかりの継承者はいるものの、内実が伴いませんでした。このことは蒋介石と王樹金にとって幸いでした。

 王樹金は世界各国で正宗太極拳を演武し、その会場で挑戦を受け、その強さを示し続けました。ときにはテレビ局の企画でプロボクサーと戦ったりもしました。こうした興行を王樹金は好みませんでしたが、任務達成のためにはやむを得ませんでした。

 人が会いに来れば、拒みませんでした。誰にでも会いました。その用件が教えを請いたいというのであれば受け入れ、挑戦したいというのであれば即座に戦いました。ですから地曳秀峰の訪問を王樹金が受け入れたことも決して特別なことだったわけでなく、それが王樹金の日常だったのです。

 突然に来訪し、挑戦してきた空手家を王樹金が苦もなく撃退する様子を地曳秀峰は偶然に目撃しました。その日、王樹金の投宿先で歓談していると、突然に訪問者が現れました。それは空手世界選手権大会で優勝したことのある日本人の空手家でした。

「試合を申し込みたい」

「そうか、庭に通しなさい」

 王樹金は、散歩にでも出かけるように起ち上がり、庭に出て空手家と向き合いました。

「さあ、どうぞ」

 これには空手家の方が驚いたようです。いきなり試合ができるとは思っていなかったようです。しかし、空手家は千載一遇の好機と思い直したらしく、しばらく静かに向かい合っていましたが、すさまじい気合とともに突進し、蹴りを繰り出しました。王樹金は、これをスルリとかわすと、右掌の一撃を空手家の胸に入れました。空手家は吹っ飛んで地べたの上を転げ回りました。相当な苦痛のようです。やがて空手家は痛みをこらえて起ち上がろうとします。

「まだ、くるか」

 王樹金は膝蹴りを入れて空手家を気絶させました。そして、空手家を部屋に運ぶと横臥させ、気功治療を施しました。太極拳による打撃は気功治療によらなければ回復しないのです。空手家が正気を取り戻すと薬湯を飲ませ、充分に休ませてから帰しました。

 この一部始終を見ていた地曳秀峰は驚嘆するほかありませんでした。王樹金の圧倒的な強さ、泰然自若とした態度、敗者に対する手厚い看護、何から何まで理想的な武道家です。心の底から尊敬の念が湧いてきました。世界中の武術家の挑戦を随意に受け続けるという日常の困難さを想像したとき、地曳秀峰は気の遠くなるような思いがしました。

 かつて宮本武蔵は必ず「見切り」をしたといいます。相手を調べ、実地に見て、「此奴なら勝てる」と見切った上で挑戦するのです。だからこそ、宮本武蔵は生涯無敗でした。

 武蔵のような心得が兵法だとするなら、王樹金はあまりに放胆すぎました。尋常な精神と術力では一瞬たりともこの状況に耐えられないでしょう。しかも、王樹金は一九八一年に亡くなるまで、こうした生活を何十年も続けたのです。行住坐臥、一年三百六十五日、まったく油断できなかったに違いありません。しかも、ことごとく挑戦を打ち砕いたのです。


 王樹金の訪日回数は、その生涯で二十一回でした。その来日を一日千秋の思いで待ちながら、地曳秀峰は日々の鍛錬を続けました。

 王樹金師範が来日した際の定宿は、神道夢想流杖道の清水隆次範士宅でした。地曳秀峰はときどき訪ねて王樹金師範の消息を聞き、また、時候の挨拶を欠かさぬようにしました。そして、王樹金師範が来日すれば、ただちに推参して挨拶し、指導を願い出ました。王樹金師範は求めに応じて個別指導してくれます。その場所は、頭山道場だったり光林寺の境内だったりと変わりました。

 先述したとおり、当初は気功の訓練に終始していました。しかし、地曳秀峰の身体からはなかなか「気」というものが発現しませんでした。師匠は真摯に指導し、弟子は真剣に学んでいました。それでも「気」が出てこない以上はどうしようもありません。

(気が出なければ先へは進めない)

 太極拳修行の基本はなんといっても「気」です。そこで停滞している者に、その先を指導することは通常ありません。しかし、滞在期間に限りのある王樹金師範は、この熱心な日本人に太極拳と形意拳の型を教え、日本を去りました。


 正月よりも盆よりも新緑の春よりも紅葉の秋よりも王樹金師範の来日を待ち焦がれて生活していたのが、この時期の地曳秀峰です。

 その年、王樹金師範の来日は真冬になりました。例によって個別指導を願い出ました。その日、王樹金師範と地曳秀峰はふたりだけで光林寺の境内にいました。

「自分ひとりではもったいないから」

 地曳秀峰は仲間を誘ったのですが、ひとりもついてきませんでした。

「いやあ、気功はもういいよ」

 それでやむを得ず、ひとりで指導を受けていたのです。

「形意拳」

 王樹金師範が言います。地曳秀峰は形意拳の型をくり返します。人気のない寒々しい境内を何度も往復しました。そのうち汗が噴き出してきました。あまりの熱さに地曳秀峰は拳法着を脱ぎ、上半身は肌着一枚になって形意拳の型をくり返しました。

「次、大成気功」

 王樹金師範は言うと、自らも気功をはじめました。地曳秀峰も肌着姿のまま気功をはじめました。こんどは一転、ジッとしていなければなりません。しばらくすると地曳秀峰の身体は寒風にさらされて急速に冷えていきました。やがて寒さに耐えられなくなりました。

(ダメだ。風邪をひく)

 地曳秀峰は脱ぎ捨てた上着を着なおして、気功をはじめます。ふと見ると、王樹金師範の身体が何か白いものにおおわれています。

(何だ?)

 よく見ると、それは湯気でした。王樹金師範はジッと気功をしています。それなのに身体から熱気を発し、その熱気が真冬の冷気に触れて湯気となっていたのです。風が吹くと、その湯気が巻き上がりました。王樹金師範の首筋は汗で照り返っています。

(すごい。これが気功なのか)

 地曳秀峰は驚嘆しました。すぐに気功の姿勢をとりましたが、地曳秀峰の身体は冬の冷気に浸透され、湯気を出すどころか、ひたすら冷えて寒いばかりです。

(なんてことだ。毎日毎日、気功をやってきたというのに、まったくダメだ)


 日本を離れる間際、王樹金師範はただならぬことを地曳秀峰に言いました。

「身体で感得しないとわからないから、撃たれてみなさい」

「わかりました。お願いします」

 地曳秀峰に躊躇はありませんでした。王樹金師範の指示に従って地曳秀峰は横を向きました。その腕に、軽く正拳の突きが入ります。すると地曳秀峰の身体が二十センチメートルほど浮き上がり、次の瞬間には地面にたたきつけられていました。その痛みに地曳秀峰はうめき声を上げます。空手で撃たれた痛みとも、合気柔術の技にかけられた痛みとも違います。腕を撃たれたはずなのに全身に痛みが反射し、共鳴しているのです。

(なんだ、これは)

 はじめて体験する種類の痛みに耐えながら、太極拳の驚異的威力を再認識しました。

(是が非でも太極拳を身につけたい)

 常人ならば、太極拳をあきらめてしまうところでしょうが、地曳秀峰の場合、ますます太極拳への執着を強くしました。武術に対する異常なまでの好奇心と探究心がこの人物の特徴でした。


 数ある人生の選択肢のなかで武術家という職業を選ぶことほど投機性の高い選択はないでしょう。武術の修行には長い時間がかかりますし、身体的な苦痛ばかりか生命の危険さえ伴います。一生をかけて修行しても奥義に到達できる保証はありませんし、怪我を負うかも知れません。しかも勝負の世界です。挑戦されたら闘わねばなりません。逃げるわけにはいかないし、闘った結果、敗北して負傷するかも知れません。さらに、経済的な負担も大きなものです。教えを請うためには教授料を支払わねばなりません。合気柔術の道場も教授料を取りましたし、王樹金師範も取りました。王樹金師範の教授料はとびきり高額で、合気柔術道場の十倍に近い金額でした。それでも地曳秀峰は惜しみなく教授料を支払いました。それほどに武術修行に入れ込んでいたのです。幸い、在日米軍基地内で司令官付通訳官を務めていたおかげで高額な教授料を支払うことができました。

 

(ダメだ。居ても立ってもいられない。いっそ、こちらから台湾へ行くか)

 王樹金師範の来日を待ちきれなくなった地曳秀峰は台湾への渡航を思い立ちました。当時、海外渡航には制限があり、手続きがいろいろと面倒でした。それでも地曳秀峰は数名の仲間とともに渡台しました。

 王樹金師範は歓待してくれました。喜色を満面にして迎え入れ、わざわざ案内人を付けて観光案内までしてくれました。台北の道場で稽古をし、台湾人の太極拳仲間ができ、練習の励みになりました。以後、地曳秀峰は台湾渡航を折に触れてくり返します。


(いっそ、王樹金師範を自分で招聘してみようか)

 地曳秀峰の銀行口座には相当な金額がありました。在日米軍の通訳官として高給を得ていたからです。しかし、木更津からアメリカ軍の司令部が撤退したため通訳官の仕事はなくなっていました。だから、この預金は重要な将来の蓄えでもあります。

(しかし、いまこそ使うべきではないか)

 太極拳に対する地曳秀峰の情熱は常軌を逸するまでに燃え上がっていました。王樹金師範に手紙を書いて意向を確かめるとともに、招聘に必要な予算を見積もってみました。招聘するとなれば、謝礼金から渡航費、日本滞在中の宿泊費、交通費、食費など一切合切を負担せねばなりません。種々考案した結果、招聘の費用はなんとか賄えることがわかりました。

(やれるぞ。なにがなんでも太極拳を身につけたい。やるなら今だ。今をのがしたら後悔する)

 とはいえ心配でもあります。すでに地曳秀峰は結婚し、子供も生まれていました。預金を使い果たせば、心細いことになります。

 迷いに迷いましたが、結局、地曳秀峰は決断し、私財を投じて王樹金師範の招聘を実行しました。

 王樹金師範は喜んで日本に来てくれました。地曳秀峰は、王樹金師範の身辺にくっつき、中華料理店での食事から日用品の買い物から雑談の相手まですべてをやりこなしました。むろん、太極拳の訓練もしました。また、王樹金師範の指導を希望する人々のために便宜を図りました。

 王樹金師範は、この異常なまでに熱心な日本人を信頼し、心を許しはじめました。日々の雑談のなかで武術習得の心得やヒントを教えたり、滅多に教えない技を特別に教えたりしました。地曳秀峰は感激しました。

 しかしながら、真摯な努力が必ずしも報われないのが武術の世界です。師匠がいかに教えても、子弟がいかに懸命に鍛錬しても、伝承が達成されるとは限りません。太極拳は「気」の武術です。「気」を会得しない限り、型をどれだけ覚えても意味はないのです。

 たとえば、こんな話があります。武田惣角(そうかく)という合気道の達人がいました。幕末から明治にかけて活躍した人物で、植芝盛平に合気道を伝えたことで知られます。武田惣角の長男は合気道を志し、生涯にわたり鍛錬を続けました。そのため手首が太股のように太くなりました。しかし、それでも合気道の奥義には到達できなかったといわれます。奥義に達する者と達しない者の差異が何なのか、まったくわかりません。そこが武術の厳しさであり、残酷さでもあります。

 その意味で地曳秀峰の熱意は尋常ならざるハイリスクな投機だったといえるのです。


 その日も地曳秀峰は太極拳の鍛錬に余念がありませんでした。気功、太極拳、形意拳とひととおりの訓練を終え、さらに気功にとりくみました。

(なんだろう)

 いつもとは何かしら異なる感覚を手に感じました。

(これが気なのか?)

 気功の姿勢をとってみます。指を開いた両手に何かしら普段とは違う感覚があります。なにか温かい気体のような、つかみ所のないものがまとわりついている感じです。

(これが気なんだろうか)

 半信半疑です。床につきましたが、気になってしかたがないので、起き出して気功をやってみます。しばらく気功の姿勢をとっていると、その感覚が現れました。

(これが気なのか。そうならしめたものだ)

 明け方まで気功をやり続けました。

 地曳秀峰が感じ始めたある種の感覚は徐々に強くなっていきました。気功をやりはじめるとすぐに手にそれを感じるようになり、その感覚を身体の各部位に移動させることができるようになりました。

(だぶん、これが気だ)

 地曳秀峰は天にも昇るような気持ちになりました。

「ちょっと正拳でついてみてくれ」

 合気柔術の道場で仲間に頼んでみました。腹部に可能な限り気を集めるようにしておいて、そこを突いてもらいました。

「うぐっ」

 やはり突かれると痛みを感じます。しかし、幾分か通常よりも痛みが軽いように思いました。

「どうした。腹筋を鍛えているのか」

「いや、そうじゃないんだ。気を集めてみたんだが、オレの腹は硬いか」

「さあ、どうだろう」

 気があるような、ないような、気が出ているような、出ていないような、そんな状態がしばらく続きました。

(よし、冬になったら試してみよう)

 真冬になったら屋外で気功をやってみようと思いました。かつて光林寺の境内で王樹金師範が見せてくれたように、身体から湯気が立ちのぼらせるようなことができるかどうか。

 地曳秀峰は冬の到来を待ち、つとめて屋外で気功を試みるようになりました。寒天での気功は、やはり寒い。しかし、心なしか、以前とは感覚が異なっているように感じます。寒いことは寒いのですが、それなりに耐えられます。孤独な鍛錬が続きました。


 その年、王樹金師範が来日したのは夏でした。地曳秀峰は、いつものように推参し、御機嫌を伺い、教授を受けました。

(!)

 地曳秀峰の進境が著しいことに王樹金師範はすぐ気づきました。

(気をつかんだな)

 王樹金師範の指導はいっそう精妙かつ厳密になりました。地曳秀峰の演ずる太極拳の型がわずかでも狂っているとペシペシとたたいて修正します。このペシペシが痛くてたまりません。しかし、地曳秀峰はいつもどおり食らい付いて貪欲に学び続けます。

 「気」が出ない、「気」がわからない、というのが長いあいだ地曳秀峰の課題でした。しかし、わかってみると簡単なことでした。

(気づくかどうか、ただ、それだけだ)

 しかし、この意外と低いハードルを越えられずに太極拳をあきらめる人が多いのは残念なことだと思いました。


  極意とは己がまつげの如くにて  近くあれども見えざりにけり

 

 千葉周作の得道歌を思いだし、自身に起こった幸運に感謝しました。武術修行という、人生を賭けた大投機に地曳秀峰は成功しました。地道な鍛錬によって「気」の運用を身につけ、誠実な態度で王樹金師範の信頼を得、ついに正宗太極拳の奥義を授けられ、正統な伝承者となりました。


 しかしながら、これはゴールではなくスタートでした。正宗太極拳の伝承者となった地曳秀峰は、日本における正宗太極拳の普及という重い任務を背負うことになりました。ところが現状は、わずかな人数の弟子を抱え、定まった練習場もない状況です。

 地曳秀峰は、王樹金師範の指導方法をそのまま踏襲しました。太極拳に興味を示してくれる人はそれなりにいましたが、なかなか「気」をつかめないままに離れていく場合が少なくありません。それでも「気」を理解できた弟子が現れ、徐々に増えていきました。

 やがて雑居ビルの一角を賃貸し、道場を開くことができました。すると、挑戦者が現れるようになりました。地曳秀峰は、王樹金師範と同じように、いつでも手合わせをし、相手を負かし、必要なときは気功治療を施しました。

 太極拳道場の経営は徐々に軌道に乗り、健康ブームにも乗って受講者が増えていきました。


 無敵を誇った王樹金老師が急死したのは一九八一年です。その死因は、小さな傷口から侵入した破傷風菌でした。その生涯の概略は先述したとおりです。王樹金老師の功績により、正宗太極拳は台湾、日本、欧州へと普及していきました。蒋介石に与えられた任務を見事に全うしたといえるでしょう。


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