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武術の修行

 昭和二年に千葉県で生まれた地曳秀峰(じびきひでみね)は若くして武道に志しました。最初に習ったのは空手です。そのころ空手は唐手と表記されていました。

 いうまでもなく空手は、おのれの筋肉と骨格とを鍛えあげ、それを武器として相手を倒す武術です。地曳秀峰は鍛錬に明け暮れました。型をくり返すとともに、腹筋や背筋をはじめとする筋力トレーニングで身体を鍛えました。手や足を強化するために巻藁を突き、蹴りました。(すね)を強くするためにビール瓶で何度も脛を叩きました。実につらい鍛錬が続きました。上段蹴りの練習では麦わら帽子をかぶり、蹴り上げた足が麦わら帽子の縁に触れるように工夫しました。

 やや小柄な地曳秀峰にとって体格差の克服が大きな課題でした。指を伸ばしたまま相手に打撃を与えることができればリーチが伸びて有利になります。そのためには指を鍛えねばなりません。指を鍛錬するため、地曳秀峰は一斗缶に砂を詰め、その砂を指で突きました。爪の隙間に砂が入りこむのもかまわずに突きました。砂を突けるようになると、次は小豆を突きました。小豆の次は空豆を突きました。そのような鍛錬を毎日続けること数年に及びました。地曳秀峰の爪は先端の三分の一ほどが失われ、指先の皮は(かかと)のように固くなりました。

 鍛錬は続きます。巻藁を指で突くことさらに数年、地曳秀峰の指は火箸のように硬くなり武器と化しました。これならば指を伸ばしたまま相手を突くことが可能です。小柄ではあっても、リーチを長く使えることになり、敵の意表を突くことができます。

 自信が生まれつつあったある日、珍事が起こります。鍛えあげた地曳秀峰の指先が水虫にかかったのです。火箸のように堅かった指先の皮は、一夜にして()け落ちてしまいました。あとには若々しく、みずみずしい皮膚が残りました。数年がかりの鍛錬の成果は、一夜にして失われてしまったのです。大災難です。努力は虚しくなりました。

 やがて大東亜戦争が始まると地曳秀峰も徴兵されました。サイパン島へ出征する予定となりましたが、運よく乗船予定の輸送船が米潜に沈められたため、生きながらえることができました。

 日本の敗戦は、地曳秀峰にとって衝撃でした。

(なぜ日本は負けたのか)

 と思います。

(アメリカとは何だ。なぜ強いのか)

 そうも思います。地曳秀峰は空手の修行に加え、英語の習得を自分に課しました。


 数年間の猛烈な勉強で英語を習得した地曳秀峰は木更津の在日米軍基地で司令官付通訳官として働くようになりました。

 その基地内での出来事です。この日、通訳の任務を終え、同僚たちと基地内のパブでビールを飲んでいました。すると困ったことに、同僚のひとりが暴れ出しました。酒乱癖があったのです。

「おいおい、よせよ。落ち着け」

「うるせー。オレに指図するな」

「やめろって、おい」

「黙れ、バカ、ぶっとばすぞ」

 酒乱の同僚は暴れます。酒の勢いもあり、手に負えません。むろん、空手の技で撃ってしまえば簡単に制圧できます。しかし、相手は同僚なのです。無下に傷付けるわけにもいきません。ほとほと疲弊させられました。この些細な乱痴気騒ぎを地曳秀峰は深刻に受け止めました。

(空手には欠点がある。相手を傷付けることなく制することができない。なにか、もっと別の武術はないものか)

 模索が始まりました。何の疑問も持たずに空手に打ち込む日々は去り、何か別の武術はないかと考え込むようになりました。空手の訓練に身が入らなくなり、焦燥感がつのりました。

 昭和二十年代後半のことで、インターネットも武術雑誌もありませんでした。情報はみずからの眼と耳と足で探さねばなりません。地曳秀峰は、わずかな情報をも見逃すまいと、鵜の目鷹の目で街を歩きました。道端の看板、木造家屋の壁の張紙、人の口の端にのぼる噂、そんなものをたよりに納得できる武術を探し回りました。

 ある日、地曳秀峰は合気柔術の道場を訪ね、教えを請いました。

「相手を傷付けることなく制圧する術はあるのでしょうか」

 合気柔術の道場主は、うなずきながら言いました。

「君は空手をやるのだね。いいから思いっきり突いてごらんなさい」

「はい、では突きます」

 こういう場合、武術家同志には暗黙の了解があり、いっさい手加減をせずに本気で突いていきます。地曳秀峰は正拳で突きました。

「!」

 途端に目の前が真っ暗になりました。何が起こったのかまったくわかりません。地曳秀峰が正気にもどったとき、道場の床板が眼前にありました。右腕にはげしい痛みがあります。しかし、怪我をするほどではありません。これが合気柔術との出会いでした。

 合気柔術は、合気という不思議な技を使います。三十才を手前にして地曳秀峰は力に頼らない合気柔術に出会い、護身術としての有用性を感得し、その習得に専念するようになりました。

 奥山龍峰、細野恒次郎、吉田幸太郎といった合気柔術の師に接した地曳秀峰は、ひとつの感懐を得ます。

(空手とはまったく違う)

 技が違うのは当たり前なのですが、それだけではなく、心の持ちようが違いました。空手の道場はピリピリと緊張しているものです。空手の師が道場に現れると空気が凍りつきます。空手の師は怖い顔で弟子たちをにらみつけ、大声で気合を入れます。それが当たり前だと思ってきました。

 ところが、合気柔術の道場はリラックスした雰囲気に包まれています。合気柔術の師たちは大声を出すこともなく、むしろ穏やかで静かで、ユーモアさえただよわせて指導します。合気柔術の師が道場に入ると、道場の緊張感がむしろ弛みます。

 それまで空手の鍛錬で心身を堅く鍛えてきた地曳秀峰は、根本から発想の転換を迫られました。空手から合気柔術への転進は容易なものではありませんでした。合気を使おうとしてもうまくいきません。そもそも合気とは何なのか、つかみ所がありません。力を抜こうとしてもなかなか抜けません。抜いたつもりでいても抜けていないのです。

(何をどうすればいいんだ)

 合気柔術の師は隠し立てすることなく技を見せてくれます。それでもわからないのです。目の前で見ていても、その技がなぜ効くのかわかりません。真似をしても効きません。合気は目に見えないのです。合気がわからない以上、目で見てもわかりません。地曳秀峰は茫然としてしまいました。

 そもそも体術というものを言葉で伝えることは不可能です。直接、手とり足とり教えてさえ伝えることは難しい。受け取る方も同じです。わからないのです。それでも、空手や少林拳であれば、身体の動きや筋肉の使い方を注意深く観察することで真似ることができます。しかし、合気という実態のないものをを、どうやって真似ればよいのでしょう。外見だけを真似しても意味がありません。合気を体得しない限り、どうしようもないのです。教える方も教わる方もじつに不如意です。

 とはいえ、合気柔術は相手を傷付けることもできれば、相手を傷付けることなく制圧することもできます。地曳秀峰は合気柔術にのめり込んでいきました。寸暇を惜しんで練習し、寝ても覚めても合気のことを考え続けました。仲間がひとりでもいれば、ああでもない、こうでもないと互いに研究しました。

「武道ができればあとは何も要らない」

 そういう仲間に恵まれていたことは幸運でした。武道こそが人生の主題であり、仕事などは雑事に過ぎない。そんな仲間は練習が終わると一杯飲みながら武術談義をするのが常でした。

「やはり基本が大切だ」

 議論の帰結はいつも同じでした。


 地曳秀峰の修行は進み、合気柔術道場の師範代となりました。許可を得て、木更津在日米軍基地内に道場の支部を開き、そこで米兵や自衛隊員に柔術を教えました。力自慢の米兵は腕力を頼んでかかってきますが、そんな米兵には合気柔術がじつによく効きました。自衛隊員には座り込みをするデモ隊を排除する方法を教えました。柔術の技を応用すると、座り込んでいる人間を簡単にごぼう抜きできるのです。


 「各派武道大会」のチラシを地曳秀峰が目にしたのはそんな頃でした。その演武者のなかに王樹金という名がありました。太極拳拳法師範という肩書きです。この人物のことは新聞にも書かれていました。「中華民国政府が任命した文化特使であり、台湾を拠点に世界を飛び回っている中国拳法の使い手」だと言うことでした。その師範が昭和三十五年六月に来日するのです。

(中華民国政府の特使なら相当な武辺に違いない。そもそも太極拳というのはどんな武術なのか)

 好奇心旺盛な地曳秀峰はつよく興味を引かれ、各派武道大会に足を運びました。場所は日比谷公会堂でした。

 何番目かの演武者として登場した王樹金師範は、まず太極拳の型を披露しました。

(なんだ、これは)

 今までに見たことのない動作です。空手とは似ても似つかないし、合気柔術の型とも違います。ゆったりとした動きで力感がなく、まるで踊りのようでもありました。次いで、王樹金師範は形意拳を演武します。これには納得がいきました。空手の型とやや似ていたからです。ひととおり演武を終えた王樹金師範は大胆にも会場に向けて呼びかけます。

「我と思わん者あらば、我が腹を突け」

 これは予定外のことでした。すると、幾人かの武道家が壇上に上がりました。地曳秀峰は迷ったものの、自重しました。相手のことをよく知りもしないのに挑戦するのは無謀というものです。そして、王樹金師範も無茶だと思いました。

(いったい、どういうつもりなんだ。日本にだって強い者はいる。戦争に負けたからといて日本をなめているのか)

 壇上では無造作に対決が始まっていました。ひとりの武道家が王樹金師範の腹を正拳で突きました。すると、王樹金ではなく、突いた方の武道家が大きくはじき飛ばされました。

(どうしたんだ。なぜ)

 観衆の誰もが不思議に思いました。次の武道家は王樹金師範の大腿部を蹴り上げました。すると蹴った方の武道家がうずくまって脚を抱えました。一方、王樹金師範は平気な様子で立っています。結局、十数名の武道家が挑戦したものの、ことごとく王樹金師範に跳ね返されました。しかも、王樹金師範は何ら攻撃をしていないのです。ただ、相手に突かせたり、蹴らせたりしただけです。それなのに、なぜか攻撃側が吹っ飛び、身体を痛めているのです。地曳秀峰は、その強さに驚嘆しました。

(どうしてあんなことができるんだ。何が起こった?)


 以来、地曳秀峰は太極拳と王樹金にとりつかれてしまいました。

(あの技はなんだ。知りたい。学びたい)

 日比谷公会堂で見た王樹金師範の演武と勇姿が脳裏から離れなくなりました。しかし、王樹金師範は早くも離日し、どうしようもありません。

 その一年後、地曳秀峰は欣喜雀躍していました。

「王樹金師範が再来日する」

 昭和三十六年各派武道大会のチラシに王樹金の名が載っているのです。新聞各紙に目を配り、情報を集めました。新聞記事には王樹金師範の予定と滞在先が書かれていました。

(よし、もういちど王樹金師範の技をこの目で確かめて、そのうえで教えを請おう)

 地曳秀峰は王樹金を追いかけました。明治神宮における奉納演武では、ほかの武道家と共に王樹金師範も太極拳の型を演武しました。大きな玉砂利の上での演武は難しいはずですが、王樹金師範の姿勢には一点の揺らぎも隙もありません。そして、各派武道大会は昨年の再現となりました。王樹金師範は演武を終えると会場から挑戦者を(つの)りました。数名の武道家が壇上にのぼり、挑戦しましたが、ことごとく弾き飛ばされました。

(やはり、凄い)

 地曳秀峰は王樹金師範に教えを請うことを決心します。しかし、どうにも気後れしてしまいます。人間は恋い焦がれた対象には臆病になるものかも知れません。

 数日後、地曳秀峰は合気柔術の仲間とともに王樹金師範の滞在先を訪ねました。そもそも会ってくれるのか、言葉は通じるのか、いろいろと不安でしたが、それらは杞憂でした。王樹金師範は気軽に会ってくれ、通訳をつとめてくれる人もいて、話は簡単に通じました。

「個別に指導してあげよう」

 日時と場所を決めて辞去しました。地曳秀峰は天にも昇る思いです。すべてがうまくいったのです。

 翌週からさっそく個別指導が始まりました。地曳秀峰と数名の合気柔術仲間は期待に胸をふくらませて王樹金師範の直接指導を受けました。しかし、その内容は気功でした。ずっと気功ばかりです。

 当時の日本人は気功を知りませんでした。同じ姿勢で何十分間もジッとしていなければなりません。決して楽ではありません。そして、問題は身体的苦痛よりも、むしろ無知から来る不満でした。気功をしているあいだ、頭には数々の疑問が浮かんできます。

(なぜ、こんなことをするのだ。何の意味があるんだ。何も教えてくれないじゃないか)

 何度か通ったものの王樹金師範の指導は気功ばかりでした。このため地曳秀峰の仲間は不満を口にし、ついには脱落していきました。

「あんなもの意味ないじゃないか。オレはもう行かないよ」

「日本人には技を教えないんだよ」

 地曳秀峰とて疑問を感じないわけではありません。しかし、王樹金師範が各派武道大会で見せたあの凄い威力を思いだし、自分に言い聞かせました。

(これは何かの基礎訓練だ。そうに違いない。きっと何かある)

 地曳秀峰はそう信じ、新しい仲間を募っては王樹金師範の元に通いました。そのうちに王樹金師範の帰国が近づきました。王樹金師範が離日する直前、こんな出来事がありました。

「君は合気柔術をやるそうだが、技をかけてごらん」

 言われた地曳秀峰は遠慮なく技をかけ、関節を固めようとしました。しかし、王樹金師範の身体は柔らかくしなやかで、どうやっても技が決まりません。スルリと手首が抜けると、ポンと打たれました。それだけで地曳秀峰の身体は床に倒れていました。

(合気柔術がまったく効かない。なぜだ。あの技を知りたい。気功が必要ならやるまでだ)

 王樹金師範が日本を去ったあとも地曳秀峰は気功を練習し続けました。かといって気功の意味が分かっていたわけではありません。ただ、あの無敵の強さを持つ王樹金師範が「やれ」と言ったことに間違いはないはずだと信じただけです。気功の練習を毎日つづけながら、王樹金師範の再来日を待ちました。


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