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戦乱と武術

 太極拳は支那大陸に伝わる伝統武術です。腕力ではなく、「気」の力を用いて闘うという摩訶不思議な拳法です。中腰の姿勢でゆったりと動くその特異な型の動作は世界に比類すべきものがなく、いまでは健康体操としても広く世界中で愛好されています。

 その太極拳の歴史はじつに古く、唐の時代の文献にすでにその名が現れます。太極拳の源流はさらに紀元前の春秋戦国時代にまでさかのぼることができるようです。

 太極拳の開祖とされているのは、宋の時代の長三丰(ちょうさんぼう)という人物です。信じがたいことに、長三丰は三百七十八才まで生き、仙人になったといわれます。おそらく白髪三千丈式の支那的な修辞なのでしょう。また、南宋時代の岳飛(がくひ)将軍も太極拳をよくし、太極拳の達人だけを集めた精鋭部隊を編成して敵軍と戦ったといわれます。

 その後、支那大陸の各地に太極拳は伝播していきました。高名な使い手としては王宗岳(おうそうがく)陳王廷(ちんおうてい)楊露禅(ようろぜん)などの名があります。

 太極拳という武術のきわだった特徴は、腕力を使わないことです。そのかわりに「気」を使います。気を使うと言っても、何をどうやるのか、筆者にはわかりません。ただ、確かに太極拳の使い手たちは爆発的な力を発揮します。腕力では説明できないことをします。そして、気功をやることで気を鍛錬します。

 古来、支那大陸では力を使う者は下賤の身とされ、王侯貴族は箸や筆より重い物を持たないものでした。よって少林拳をはじめとする拳法は下層庶民の拳法でした。一方、力を使うことを卑しんでいた支那の王侯貴族たちは、力を使わない太極拳に魅力を感じました。そんな理由から、太極拳は王侯貴族に愛好される唯一の拳法となりました。

 そして、清朝末期には支那大陸の全土、下層から上流にいたるまで太極拳は広く普及していたようです。太極拳の流派には陳派、楊派、武派、呉派、孫派などがあり、今日でも各派の型を目にすることができます。

 太極拳各派の技にはそれぞれ特徴があり、一長一短があるようです。その各派の太極拳を集約し、最強の太極拳を編纂(へんさん)せよと命じた人物が現れました。国民党総統の蒋介石(しょうかいせき)です。


 ときは中華民国の時代、孫文から国民党を継承した蒋介石は、北伐によって支那大陸の中原を制しました。ところが、その得意の絶頂期に張学良に裏切られ、西安で軟禁されてしまいます。これはソビエト・コミンテルンの陰謀でした。このとき毛沢東は「蒋介石を殺せ」とスターリンに進言しました。しかし、スターリンはこれを拒否し、「生かして利用せよ」と命じます。おかげで蒋介石は生きながらえましたが、国共合作を強要されてしまいます。

 共産主義を嫌っていた蒋介石は不本意だったにちがいありません。しかし、死命を制せられてしまった以上、やむを得ませんでした。国民党の組織内に数多くの共産主義者を受け入れることになりました。

 国民党内に浸透した共産分子は、スターリンの命令に従って日支間の紛争を煽ります。数々の銃撃事件や騒乱事件を発生させました。盧溝橋事件や広安門事件などです。なかでも最大の惨劇は通州事件でした。北京郊外の通州において二百名以上の日本人が中国保安隊によって残虐に殺されました。このため日本の世論は激昂し、ついに支那事変が勃発します。スターリンの思惑どおりでした。日支が相争えばソビエト連邦が漁夫の利を得ます。

 支那事変が始まると日本軍は連戦連勝します。蒋介石軍は連戦連敗です。蒋介石軍は日本軍に対してまったく歯が立ちませんでした。それもそのはずで、支那の軍隊は劣弱でした。そこには軍律さえなく、兵器も劣等で、すべてが旧式でした。支那軍の将兵はヤクザ者だったり、盗賊だったり、拉致された若者だったりしました。戦意などはなく、誰もが逃げ出すことや生き延びることだけを考えていました。だから蒋介石軍が連戦連敗したのは当然でした。

 それでも蒋介石はしぶとく戦おうとします。軍事的には負け続けましたが、外交とプロパガンダではむしろ日本軍を凌駕します。

 蒋介石は大軍を動員して上海租界を包囲させ、世界の注目を極東に集めました。そうしておいて国際連盟に能弁な外交官を送り込み、日本の非道を訴えさせました。また、妻の宋美麗(そうびれい)を欧米諸国に派遣して被害を訴えさせ、援助を乞わせました。支那側の主張は、虚偽と捏造に満ちた悪宣伝でしたが、極東事情に無知な欧米白人たちは易々とだまされてしまいました。

 日本にも落ち度がありました。国家の方針を定める大政治家がおらず、くわえて訥弁(とつべん)国家ゆえに為す術を持ちませんでした。つまり、外交戦と情報戦では蒋介石の方が勝っていたのです。

 蒋介石はこれに満足せず、活用可能なものは何でも活用しようとし、さらに考えます。

「そうだ。伝統武術があるではないか。岳飛将軍の故事にならい、全土から達人を集め、最強の太極拳を編纂せよ」

 蒋介石の命令は実行に移されました。一九四〇年(昭和一五)、支那の全土から二十名ほどの太極拳の達人が南京中央国術館に集められました。各派の老師たちは、普段ならば仇敵視しあう仲でしたが、このときばかりは互いに協力し、各派の長所短所を分析しつつ、新たな太極拳の体系を完成させました。これが正宗太極拳です。各派の長所だけを集めた最強の太極拳です。各派の老師たちは、みずから正宗太極拳を会得するだけでなく、弟子たちにも習得させました。すでに太極拳の極意を身につけていた老師らは、急速に正宗太極拳の達人として成長していきました。

 そのなかに王樹金(おうじゅきん)という青年がいました。術力に優れていた王樹金は、とくに選ばれて蒋介石の身辺警護の任につきました。


 支那事変は、あいかわらず日本軍の連勝です。蒋介石軍は敗北を重ね、南京、武漢、宜昌、重慶と逃げ落ちていきます。王樹金もこれに従いました。

 蒋介石の身辺警護は緊張の続く任務でした。なにしろ国民党内には数多くの共産分子が入り込んでおり、一瞬の油断さえ許されません。共産分子は絶え間なく蒋介石を監視しています。そして、スターリンの命令がくだれば、蒋介石を殺すに違いありませんでした。

 日支政府間では幾度となく停戦交渉が持たれました。しかし、その都度、破綻(はたん)しました。蒋介石は、内心では講和を望んでいたかも知れません。しかし、コミンテルンの監視下にあっては、交渉まではできても講和に踏み切ることは不可能でした。そして、支那事変はついに大東亜戦争へと発展します。


 日米通商航海条約の破棄、在米日本資産の凍結、対日石油輸出禁止など、アメリカ政府による数々の圧迫政策に耐えきれなくなった日本政府はついに対米英蘭開戦を決意したのです。大東亜戦争が始まると、日本陸軍は満洲に関東軍を置き、支那に支那派遣軍を配置して万全を期しました。やがて太平洋方面でアメリカ軍の反攻に遭い、同方面の兵力を割かざるを得なくなった日本陸軍は、支那大陸における積極作戦を発動できなくなりました。おかげで蒋介石は重慶にとどまり続けることができました。

 一九四五年(昭和二〇)八月、日本軍が降伏すると情勢が一変します。負け知らずだった支那派遣軍は蒋介石軍に投降することになりました。蒋介石は日本軍を武装解除すると、数年のうちに日本本土へ送還しました。蒋介石は国際法を遵守したのです。この点、関東軍将兵を長年にわたってシベリアに抑留したソビエト軍とは大きく異なりました。


 支那大陸では中国共産党と国民党との内戦が勃発します。いちはやく満洲をおさえて日本資産を接収した毛沢東は、戦いを有利に進めます。対する蒋介石は苦しい立場となりましたが、従来どおりアメリカからの支援を頼みの綱としていました。

 ところが、そのアメリカが態度を変えました。アメリカ政府は蒋介石への援助を打ち切ったのです。これまでもアメリカ政府の蒋介石に対する態度は幾度も変転していました。蒋介石が国共合作をするとアメリカは蒋介石を支援し、蒋介石が中国共産党と敵対するとアメリカは蒋介石を敵視するのです。この変転を略述すると次のとおりです。

 そもそも国共合作を推進したのは中華民国を建国した孫文でした。蒋介石は孫文の方針に従います。蒋介石はソビエト連邦に留学し、ソ連において軍事を学び、帰国して軍官学校を開きました。孫文の死後、共産主義に疑問を感じた蒋介石は、共産党員を国民党内から排斥し、国民党の実権を掌握しました。すると、なぜか、アメリカ政府は蒋介石のことを独裁者だと非難しはじめました。アメリカの新聞各紙は蒋介石を悪人のように書き立てました。

 その後、西安事件に遭った蒋介石が国共合作を受け入れると、アメリカ政府は蒋介石を支援しはじめます。アメリカのメディアは論調を激変させ、蒋介石を「優しいおじさん」と評しました。アメリカは、共産党と合作して日本軍と戦う蒋介石を支援し続けます。いわゆる援蒋ルートという長大な補給路を開拓してまでアメリカは蒋介石に莫大な援助物資を送り続けました。

 ところが日本の敗戦後、国共内戦状態になると、アメリカは手のひらを返して援蒋政策を打ち切りました。このため蒋介石は苦境に立たされます。

 第二次世界大戦の前後を通じ、アメリカは不可解なまでに共産主義を支援しつづけました。ソビエト連邦と連合し、防共国家だったドイツと日本を打倒してスターリンを助け、中国共産党と敵対する蒋介石への援助を打ち切って毛沢東を助けたのです。

 結果、蒋介石は国共内戦に敗北します。行き場を失った蒋介石は台湾へ逃げ出しました。王樹金もこれに従いました。王樹金は妻子を天津に残したままでした。


 台湾は、長いあいだ支那の王朝にとって化外の地でした。それが清国領となり、日清戦争後に日本領となっていました。日本の台湾統治はおよそ半世紀でしたが、日本が敗北して日本軍が武装解除されていたため、台湾は軍事的な空白地帯でした。国共内戦に敗北した蒋介石が台湾を目指したのは当然だったでしょう。

 蒋介石の台湾統治は苛烈な独裁主義でした。多くの悲劇が生まれました。これは台湾史における暗黒の一頁であり、外省人と本省人の対立を深刻化させました。蒋介石は、日本が台湾に残した資産を接収し、国家の基礎を固めました。

 蒋介石と共に台湾に渡った王樹金は、しばらく警護の任務についていましたが、やがて台北に太極拳の道場を開き、台湾に正宗太極拳を伝えることになりました。


 そのころの台湾で武術といえば少林拳か空手でした。太極拳はほとんど知られていませんでした。台湾の武術家たちは新来の武術に興味を覚え、王樹金の道場を見学に来ました。そして、太極拳の動作の奇妙さに眼をみはり、ある者は驚嘆し、ある者は絶句し、ある者は嘲笑しました。

「なんだ、あれは」

 少林拳や空手とはまったく異質だったのです。静かでゆるやかな太極拳の型の動作からは力強さがまったく感じられません。少林拳と空手の基本は力強く、素早い動作です。その基本からまったく逸脱しているのです。しかも、王樹金はきわめて礼儀正しく穏やかな人物で、表面上、強さをまったく感じさせません。

(あれなら、勝てる)

 腕自慢の武術家が王樹金に挑みます。道場経営というものは、なかなか大変なものです。道場破りが来たら、闘わねばなりません。断れば「アイツは弱い、逃げたぞ」と風評を立てられてしまいます。そうなったら入門者は来なくなり、道場経営は成り立ちません。ですから王樹金は挑戦を受け続けました。そして、勝ち続けました。

 王樹金が勝ち続けるにつれ、衆目がひとりの人物に集まりました。洪老師という少林拳の達人です。洪老師は台湾でいちばん強いと評判の人物で、一撃で水牛を倒すとさえいわれていました。

 立会人たちが見守るなか、いよいよ洪老師と王樹金の対決が実施されました。そのルールは洪老師に有利なものでした。まず、洪老師が王樹金の腹を二度だけ突きます。それに王樹金が耐えたら、こんどは王樹金が洪老師の腹を二度だけ突くのです。こうして、どちらか先に倒れた方の負けです。先制攻撃できる洪老師が明らかに有利です。

 洪老師は自信満々に王樹金の腹部に正拳突きを入れました。しかし、王樹金はビクともしません。王樹金は「気」を腹部に集中させて洪老師の打撃を跳ね返したのです。太極拳は不思議な武術です。目に見えない「気」を運用するのです。「気」を腹部に集中させれば腹筋は装甲のようになり、「気」を拳に集中させれば正拳は砲弾のようになるのです。

 洪老師は内心あせりましたが、気を取り直して裂帛の気合とともにさらに一撃を加えました。しかし、王樹金は顔色ひとつ変えません。ルールどおり攻守ところを変えて王樹金が洪老師の腹を突きました。はた目には力感のない突きでしたが、その正拳は砲弾でした。洪老師は崩れ落ちて気絶し、病院へと搬送されていきました。

 このような経緯で正宗太極拳は台湾に普及していきました。


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