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大人はそれを青春と呼ぶ

作者: 弥生桃歌

 スマホからけたたましいアラーム音が鳴り響く。

 うるさいな。

 反射的に画面をタップし、音を止めた。

 僕はまだ回りきっていない頭でスマホを手に取って、時間を確認する。七時四十八分。

 ベッドから起き上がり、伸びと欠伸をする。

 いつものように、学校行きたくないな、と思いながら、学校に行く準備を始めた。

 別に、勉強は家でだってできるのに……。

 パジャマをベッドに脱ぎ捨て、ハンガーにかけられたYシャツを手に取る。

 袖を通しながら、カーテンを開け、朝日を浴びる。

 この時期に晴れなんて珍しいな。

 別にさわやかさは感じない。小鳥の囀りの代わりに、ハトたちが電線に並んで、不思議なリズムで鳴いていた。

 今度はズボンと学ランを着ていく。

 ポケットにはハンカチとティッシュを入れておく。清潔さは大切だ。

今日も湿気で蒸しているが、衣替えはあと一週間先である。

左手に腕時計を巻いて、昨日のうちに準備が終わっているリュックサックを片手に提げる。

制服に着替え終えた僕は、階段を下りて、ダイニングに向かう。

両親はもう仕事に行ったようで、テーブルにはラップのかかったサラダとスクランブルエッグ、そしてお弁当が置かれていた。

リュックサックをイスの脇に置き、僕はオーブントースターに食パンを一枚つっこみ、つまみを回した。

冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注ぐ。

ペットボトルを戻し、ゴマドレッシングを取り出す。

コップをテーブルに置き、朝食からラップを外し、サラダにドレッシングをかけたところで、財布を部屋に置いてきたことに気づいた。

冷蔵庫にドレッシングを戻し、自室に財布を取りに行くことにする。

財布を尻ポケットに入れた僕がダイニングに戻ると、ちょうどトーストの香ばしい匂いがする。はずだった。

オーブンを開くと、食パンは白いままだった。

「コンセント入ってないじゃん……」

 もう一度焼くのも面倒だったので、

「いただきます」

と、一言添えて、そのまま口にくわえた。

 席について、朝食を食べ進める。

 食パンを麦茶で流し込み、サラダと冷めきったスクランブルエッグを掻き込む。

 空になった三つの食器を流し台に運ぶと、すでにいくつかの食器が置かれていた。

 朝の皿洗いは僕の仕事である。

 三人分の食器を洗い、次に向かうのは洗面所だ。

 顔を洗って、寝癖を直す。

 顔を上げると鏡には無表情の自分が写っていた。

 無感情な顔をしていると思ったが、これが僕の最高のテンションであり、コンディションである。

 歯を磨いて口をすすぐ。歯磨き粉の味はやっぱり嫌いだ。

 僕は入念に口をすすいだ。

 時計を確認すると、八時二十分を過ぎたところだった。

 そろそろ出ないと、遅刻してしまう。

 僕はダイニングに置いておいたリュックを背負い玄関に向かった。

 家と自電車のカギを持って、靴を履く。

「いってきます」

 誰もいない空間に挨拶をした僕は今日も大嫌いな学校へ行くため、ドアを開いた。


 学校の駐輪場に着いたのは、始業時間ギリギリだった。

 家から学校までにある六つの信号は僕の目についたとき、赤く点灯していた。

 つまりは、信号待ちで時間を取られたのだ

 そんなわけで僕は教室まで小走りで向かうことになってしまった。

 ポケットに入った二つのカギがぶつかり合い、チャラチャラと音がする。

 小走りなのは汗をかきたくないからである。

 そして、運動が苦手だからだ。

 螺旋階段の途中で担任を追い抜いて行く。

「おはようございます」

「ギリギリだぞ」

 担任の小言がを後ろから聞こえた。 

 これで遅刻は免れた。

 教室が見えたところで僕は息を整えるため走るのを止めた。

教室に入り、机の横にリュックをかけ、自分の席に着く。

 教師不在の教室はザワザワと騒がしい。

「おはよう、今日はいつも以上にギリギリだね」

朝から何がそんなに楽しいのか、左隣から弾むような声がする。

そちらを向くと、声の主は頬杖をついて、笑っていた。 

「おはよう、ヒナタさん」

 僕が挨拶を返したところで、先ほど追い抜いた担任が入ってきて、日直に号令を促した。

 彼女はまだ何か言いたげにこちらを見ていたが、点呼が始まると前を向いて、静かに自分の名前が呼ばれるのを待っていた。

 今日も大嫌いな学校での一日が始まった。


 一時間目から四時間目のほとんどの時間を僕は睡眠にあてた。

 一時間目の数学は何とか意識を保っていた。しかし、二時間目の現代文は読んだことの

ある小説で退屈だった。

ヒナタさんの透き通った声の音読が子守唄

に聞こえた僕は、そのまま意識を手放した。

 そんなわけで、僕が目を覚ましたのは四時間目終了、兼昼休み開始のチャイムが鳴ったときだった。

 チャイムが鳴ったとき、誰かに肩を叩かれたような気もするが、気のせいだろう。

 もしくは、あきれた教師が教室を出ていくときに小突いて行ったのだろう。

 生徒たちは友人と昼食を摂るため、お弁当を持って、思い思いの場所に移動していく。

 何もしなくても腹は減るようで、僕の腹からは空腹を訴える音がしていた。

 僕は腹の要望に応えるため、リュックを漁り弁当を探す。

 しかし、入っているのは教科書やノートなど、勉強道具だけだった。

「入れ忘れた」

 朝の行動を思い出すと、リュックに弁当を入れた記憶がなかった。

 きっと、今もダイニングのテーブルにぽつんと置いてあるのだろう。

 お弁当は夕飯にしようと思ったが、今の季節は食中毒が怖いので止めておくことにした。

 もったいないな。

 僕は仕方がないので購買へと足を運ぶことにする。

 階段を降りていると、踊り場の窓から中庭が見えた。

中庭では、ベンチでヒナタさんとその友人がランチタイムを楽しんでいた。

 彼女は視線の先に誰かを見つけたようで大きく手を振っていた。

 僕は、昼になっても元気だな、と思いながらその場を後にした。

 購買は、昼食を求める生徒でごった返していた。

「はぁ」

 思わず、ため息が出た。購買なんて初めて来たが、こんなにも混みあう場所だったのか。

 人の熱気がこもっていて、立っているだけでも汗が滲んできた。

僕は人混みが嫌いなので、客足が減るまで、図書室で時間をつぶすことにした。

 

 ほぼ無人の図書室はとても静かだった。

 ここだけ、時が止まったようである。なんて、つまらない比喩が頭によぎる。

 広い図書室をエアコンひとつで快適空間にすることは不可能なようで、先ほどではないにしても、じめじめとしていた。

 貸出カウンターでぼんやりと座っている司書さんに軽く会釈し、本棚に目をやる。

新刊コーナーを物色し、一冊の文庫本を手に取る。

名前を聞いたことのない作家だった。ページをめくり、著者紹介の部分を読む。

どうやら、これがデビュー作らしい。

ほかに気になる本もなかったので、僕はその一冊の本を借りることにした。

本を借りた僕は購買に向かうか決めるため、時計を確認する。

思ったよりも長居していたようで、僕は生徒と共に食べ物もなくなっているのではないかと心配になった。

来た道を少し早足で戻ると、買い物をする生徒は数人になっていた。

客が少ないとは、すなわち商品も少ないということであった。

ある程度覚悟していたが、腹持ちのよさそうな弁当類や、惣菜パンはほとんどなくなっていた。

売れ残っているのは、菓子パンくらいだった。

僕は二個入りのフルーツサンドと見るからにサクサク感のないクロワッサンを手に取り、購買のおばちゃんにお金を払った。

ついでに、隣の自販機で紙パックのレモンティーを買った。

ガコンと音がしたので、取り出し口に手を入れる。

落ち方が悪かったのか、角が少しへこんでいた。

零れたわけでも、味に支障があるわけでもないが、少しだけブルーな気分になりつつ、僕は教室へと戻った。

 

 教室に戻ると僕の席はなくなっていた。

 男子数人が一カ所に集まって談笑していたからだ。

 その一人が僕の机に腰かけていた。

 彼らは僕が戻って来たことに気づかず、談笑を続けていた。

 面倒くさいな。

 僕はUターンをして教室を出る。

 廊下を歩いていると、教室も窓の外から見える中庭も、笑い声で溢れていた。

 うるさいな。

 静寂を求め、向かう先は屋上である。とは言っても、そこは立ち入り禁止で施錠されている。

 なので、僕が行くのは屋上手前の踊り場である。

 あそこなら、静かに時を過ごせるだろう。

 僕は先ほどより、一階分多く階段を上がる。

 こちら側の階段からは中庭は見えない。

 見えるのは無人の校庭だけだ。

 屋上手前の踊り場は校庭と同じく無人だった。

 ほかより一回りほど大きく、どこからか隙間風が入ってきていて、案外快適だ。

 屋上への扉は少し色褪せた南京錠で施錠され、素手では開けられそうになかった。

 鈍器になるものがあれば、壊せそうだったが、今僕が手に持っている物は、文庫本とパン。そして、すでにつぶれた紙パックだけだった。

 僕は屋上の扉に寄りかかって座り、手を合わせる。

「いただきます」

 フルーツサンドはデザート感が強めだと思い、先にクロワッサンに手を付ける。

 見た目通りサクサク感は無く、バターロールを食べている気分だ。

 袋を見ると、しっかりとカタカナで『クロワッサン』と書かれていた。

 最後の一口を飲み込んだ後、持っていかれた水分を取り戻すため、紙パックにストローを挿した。

 一口飲んで、フルーツサンドを頬張る。

 果物の酸味を無理やり生クリームで誤魔化したような味だった。

「そりゃ、売れ残るな」

 僕は二個目に手に取り、そう呟いた。

 そういえば、朝食でも僕はパンを食べていた。

 おにぎりくらいなら探せばあったのだろうか。あったとしても、味には期待できないのだろうが。

 そんなことを思いながら、僕はフルーツサンドを口に押し込んだ。

 そして、一気に残りのレモンティーを飲み干した。

「ごちそうさまでした」

 僕は近くにあったごみ箱にごみを捨て、再び扉にもたれて座る。

 五時間目までまだ時間に余裕があった。

 僕は先ほど借りた小説を読むことにする。

 最初はありがちな話だと感じていたが、読み進めてみると、これがなかなか面白い。

 今回は当たりだな。

 僕はどこかから聞こえる風と誰かの足音をBGMに本を読み進めていた。

 足音が聞こえなくなったとき、頭の上から、自分の名前が聞こえた。

「ねぇ、こんなところで何読んでるの?」

 どうして、彼女がここに。

「あのさ、ヒナタさん。読書中に話しかけるのは、読書家には御法度だよ」

 僕は顔も上げずに、そう答えた。

「それは失敬」

 彼女は僕の口調に合わせて返事する。

 そして、何を思ったのか彼女は僕の顔を覗き込んできた。

 どうやら、立ったまま腰を横に折り曲げて覗き込んでいるようだ。その姿勢絶対、つらいだろうに。

 僕の視界の端で彼女の肩まで伸びた黒髪がちらついた。

「どういうつもりだい」

「本のタイトル見ようと思って」 

ヒナタさんはそのままの姿勢で答えた。

声が少し震えているので、やはり、無理な体勢なのだろう。

 ヒナタさんが覗き込んでいたのは、本だったようだ。

「そっか」

 それだけ言って、僕は読書に戻る。

 彼女も本のタイトルを知れて満足して、帰るだろう。

 ヒナタさんは体勢を戻し、何度か腰をひねった。

「ここ風通しも良くて心地いいね。私もここで涼んでいっていいかな?」

 正直一人でゆっくりしたかった。

 しかし、この踊り場を占領する権利は僕にはない。

 学校はみんなで使うものだ。

 僕は文庫本の文字を目で追いながら、肯定の言葉を紡ぐ。

「もちろんだよ」

「やったー、よいしょっと」

 そして彼女はそのまま、僕の隣に体育座りをした。

 いや、なんでだ。人間一人分も空いてないぞ。彼女のパーソナルスペースはどうなっているんだ。

 そもそも、この広い空間で隣に座る必要があるのか。

 僕は左隣から漂ってくる甘い香りを振り払うため、目の前に並ぶ文字に集中することにする。

 彼女の髪はいつもサラサラとしているので、きっといいシャンプーとリンスを使っているに違いない。

 そうでなければ、こんなに枝毛もなく、艶々しているはずがない。

 ヒナタさんはブレザーのポケットから、取り出したお菓子の包み紙を開け、赤い飴玉を口に放り込んだ。

 時折、カラコロと飴玉が歯に当たる音がする。

 そういえば、ヒナタさんって意外と唇薄めだよな。リップや口紅を塗っている姿をたまに見るけれど、そんなの必要ないくらい魅力的だ。

 そんでもって、笑った時に見える歯が真っ白できれいなんだよな。彼女の本当に楽しそうに笑うし、それでいて、どこか上品さがある気がする。

 ヒナタさんは話しかけてこないが、さっきから、話したそうにチラチラとこちらを見てくる。

 ヒナタさんの目って、瞳が大きいんだよな。人間の瞳の大きさはみんな同じと聞いたことがあるが、あれは嘘だったのか。

 そんな小動物みたいにうるんだ目で見ないでほしい。

黒目が宝石みたいに輝いてるよ。黒いダイヤモンドって感じだ。 

いや、それだとトリュフのことになってしまう。あれ、石炭の比喩だっけ。どちらにしろ誉め言葉になっていない。

くそ、余計なことを考えてしまうし、自分の一部分から発せられる音がうるさくて、全然集中できない。

この音はヒナタさんにも聞こえてしまっているのだろうか。

僕は彼女にばれないように、視線だけチラリと送る。

僕の瞳に一瞬だけ映った彼女は、自分の膝を見つめながら、いつもの笑顔を浮かべていた。

それなのに、どこかつまらなそうな気がした。

何か話したいことがあるようだが、僕が読書中だから、我慢しているのか。

 ああ、やっぱりヒナタさんはいつだって優しくて、すごくかわ……。

 僕は文庫本を閉じた。

「あ、ごめん。やっぱりお邪魔だったかな」

 僕の行動に反応して、ヒナタさんは慌てて立ち上がろうとする。

「いや、違うよ。ちょうどキリのいいところまで読んだから」

 嘘である。しおりも挟み忘れたが、途中からまともに読めていなかったので、どうでもいいことだ。

「優しいね」

 ヒナタさんは再び、僕の隣に座りなおす。

「じゃあ、少しおしゃべりしようよ」

「構わないけど、中庭で友達と過ごさなくていいのかい?」

 僕が善意からそう言葉に、彼女はムッとした表情をした。

「過ごしてるでしょ。友達と」

ヒナタさんは僕と自分を交互に指さした。

そうじゃなくて、もっと仲のいい友逹とだよ、という言葉を僕は飲み込んだ。

「それで、君はどうしてここに? よく来るのかい?」

 ぼくは彼女がここへ来たときから、浮かんでいた疑問をぶつけた。

「ううん、自分の席が大好きで、ほぼ一日中座ってる君が、購買のほうに向かってたり、

教室に入ろうとして止めてたり、いろんなところをうろうろしてるのが珍しかったから、追いかけてきた」

 なるほど、こちらから見えるということはヒナタさんのほうからも見えていたということか。

「お弁当を忘れたから、購買に行っていたんだよ。」

「なるほどね。で、教室に戻ったら、愛用のいすが誰かに使われてました。って感じでしょ?」

「そんな感じ。中庭からわざわざ聞きに来るような話じゃないよ」

 座られていたのは机だが、わざわざ訂正するほどのことでもないだろう。

「それで、こんなところまで来たの? あははは、君らしいね」

 何が面白いのかよく分からないが、彼女が楽しそうなので良しとする。

 舐め終わってしまったのか、再び飴玉をポケットから取り出した。今度は二つ。

「一個あげるよ」

袋を開け、一つを口に含みながら、もう一つの飴玉を僕に差し出した。

「ありがとう」

 僕は厚意に素直に甘え、それを受け取る。

 色からしてオレンジ味のようだ。

 口に放り込むと強い甘さが舌いっぱいに広がった。

 マンゴー味だった。

 別に嫌いではないが、想定していた味のギャップに少々驚いた。

「適当に渡しちゃったんだけど、マンゴー嫌いだった?」

「普通かな」

「普通かー。何か好きなものとか無いの?」

 好きな果物か。あまり考えたことなかったな。 

 桃かな。お菓子やジュースで桃味の商品を見つけると、つい買ってしまう。

 これが好きってことなのだろう。

「桃」

「ふぇ! 何、いきなり⁉」

 僕の返答にヒナタさんは顔を真っ赤にして口をパクパクしていた。

「何って、ヒナタさんが好きな果物を聞いてきたんじゃないか」

 彼女はいったい何を勘違いしているのだろうか。

 ヒナタさんは一瞬だけキョトンとした後、恥ずかしそうに赤くなった頬を覆った。

「うん、そうだね。私が聞いたんだった。おいしいよね、桃」

 彼女は、そう言って、ポケットを漁り、飴玉をいくつか取り出し、一つ選び取り、あとはポケットにしまった。

そして、選ばれたピンクの包みの飴玉を僕に渡した。

「はい、桃味」

「ありがとう。まだ口に残っているから、あとでいただくよ」

 僕はもらった飴玉をポケットに入れた。

「うん」

 ひとことそう言って、ヒナタさんは黙ってしまった。

 僕から、話すこともないので、マンゴーの味を味わいながら、外を見る。

 白い雲がちらほらと見えるが、雨雲ではなさそうだ。

 今日はカッパの出番はなさそうだ。

「あ、そういえば」

 思い出したように、ヒナタさんが口を開いた。

 彼女のほうを向くと、顔はいつもの白い肌に戻っていた。

 結局、恥ずかしがっていた理由は、分からずじまいである。

 掘り返すのも、マナー違反だろう。

「何だい?」

「中庭から手を振ったとき、無視したでしょ」

 ヒナタさんは僕を責めるように目を細めた。

「そんなの、気づかなかったよ」

 僕はとっさに嘘をついた。

「でも、私が中庭にいるの知ってたじゃん」

 彼女はさらに目を細めた。これがジト目ってやつか。

「ごめん。まさか、僕に手を振っているなんて、思いもよらなかったんだよ」

 僕は正直に言って頭を下げた。

「だろうね。そんなことだろうと思った」

 彼女はヘニャっと口を緩ませた。

「ねぇ、君って自分のこと無表情で無感情だだと思ってるでしょ? でも、意外とわかりやすいよ?」

 彼女はいたずらっぽく笑う。

「数学の授業はいつもつまんなそうで、すぐ寝ちゃうし。本を読んでるときは楽しそうだよ。ちょっとだけ、頬が緩んでるもん」

彼女は言葉を続ける。

「結構優しいところもあるよね。ごみがごみ箱から溢れてるのに気づくと、押し込んでおいてくれるし。ご飯のときも『いただきます』と『ごちそうさま』を忘れない。学校あんまり好きそうじゃないのに、毎日遅刻もせずに登校してきてる」

 彼女の話を聞く僕は、今どんな表情をしているのだろう。無表情なのだろうか。それとも……。 

 ふいに、ヒナタさんはとても優し気に微笑んだ。 

「見てくれてる人はちゃんといるんだよ」

 ヒナタさんは立ち上がってスカートの埃を払う。

「名残惜しいけど、教室に戻ろっか」

 彼女が僕の腕時計指さす。予鈴五分前。

 僕も立ち上がって、お尻を軽く叩く。

「そうだね」

「またおしゃべりしようね」

「あぁ、学校は毎日あるから、そんな機会いくらでもあるさ」

「そんな呑気なこと言ってると、後悔するよ。学校生活なんてあっという間なんだから」

 僕たちはごみ箱に包みを捨て、教室へと向かった。

 教室に戻る途中、僕はトイレを言い訳にヒナタさんと別れた。 

 理由は二つ。一つはヒナタさんと二人で教室に戻ると面倒なことになりそうだからだ。

 もう一つは、鏡を見るためである。僕に表情があるだって。

 親にも、何考えているか分からないと言われているのに。

 頬引っ張ったり、指で口角を上げてみるが、手を離すとすぐにいつもの無表情に戻ってしまった。

 五時間目が始まってしまいそうだったので僕は教室に戻った。 

 

 午後の授業には、全く身が入らなかった。

 まぁ、午前中もほとんど寝ていたので、同じようなものなのだが。

 英語の構文も戦国時代の出来事も、全く頭に入っていない。

 まぁどうせ、もともと知っている知識だろうから、聞いてなくても特に問題ない。

 それよりも、昼休みの出来事が頭から離れない。

 彼女が発した言葉を何度も繰り返し反芻したが、しっくりとこなかった。

 だから、ずっと考えている。

 それは、今この清掃の時間でも同じだった。

 ほうきで埃を掃いていく。次第に教室のごみが一カ所にまとまっていくが、僕の考えは一向にまとまらない。

 もしかして、学年が一つ上がり、数カ月経ってもまだ、誰とも交わろうとしない僕がいつもと違う行動をとったことを心配してくれたのかもしれない。

 実際、彼女もそう言っていた。

 僕はちりとりで集めたごみをごみ袋に入れ、ごみ捨て係のクラスメイトに託した。

 彼女はいつだって誰にだって優しい。 

 それは一年前から知っていることだ。

 だから、こんな僕にも優しい。

 だって、僕と彼女は朝と夕方に挨拶を交わすだけのクラスメイトなのだ。

 たまたま二年連続で同じクラスになって、今年はたまたま隣の席になった。

 それ以上でもそれ以下でもない。 

 優しい女の子がクラスに馴染めない男の子に手を差し伸べた。これはそんなありふれたお話だったのだろう。

 端に寄せてあった机と椅子をクラスメイト達で並べ直したところで、僕はそう結論付けた。

 無理矢理納得することにした。

 明日からは、また挨拶を交わすだけのクラスメイトに戻ってしまうのだろう。

 僕と彼女は住む世界が違うのだ。


 掃除が終わり、放課後が訪れた。

 各々駄弁ったり、部活に向かう準備をしていた。

 僕は帰宅部なのでこのあと予定は皆無である。リュックサックに荷物を詰めて帰るだけだ。

「バイバイ」

 リュックサック背負った僕にヒナタさんは手を振った。

「じゃあね、ヒナタさん」

 部活の支度をしている彼女に挨拶をして、

僕は教室を出た。

 これで元通りである。

 

 靴を履き替え、昇降口を出る。 

そこまでの段差があるわけでもないのにどうして昇降口というのだろう。なんて、どうでもいいことに気づきながら、僕は駐輪場に向かった。

自分の自転車に近づいたところで、ポケットからカギを取り出した。

その時、何かがポケットから零れ落ちた。

下を見ると、先ほどもらった飴玉だった。

せっかくなので、包みを開け、口に放り込み、空の包みには再びポケットに戻ってもらう。 

桃の優しい甘みが口に広がる。

そこで僕は自分の、そして彼女の勘違いに気が付いた。

彼女が顔を真っ赤にしていた理由である。

僕は彼女に好きな果物を聞かれたので、桃だと答えたが、僕は質問の意味を取り違えていた。

確か、あのとき彼女は好きな『果物』ではなく、好きな『もの』を聞いてきていた。

つまり、彼女はもっと広く曖昧に質問してきていたということだ。

話の流れで勘違いしてしまったが、僕の返答は果物でなくともよかったのだ。

読書や睡眠と答えてもよかったのである。

だから、彼女は桃を果物ではない別のものと勘違いしたのだ。

とはいえ、ヒナタさんの勘違いも大概である。

普通はそんな勘違いしない。天然な彼女ならではという感じである。

喉につっかえていた小骨も取れたところで、自転車にたどり着いた。

 自転車を駐輪場から引っ張り出したところで、後ろから、僕の名前を呼ぶ声がした。

「やぁ、ヒナタさん、また会ったね」

 振り向くと、ラケットの入ったバックを背負ったヒナタさんがニコニコしていた。

 テニスが楽しみなのだろうか。

「もう帰っちゃうんだね」

「帰宅部だからね。ヒナタさんは、これから部活みたいだね」

「君も何か部活入ったらいいのに。文芸部とかさ」

「うちは文芸部ないよ」

「それは残念だ」

 中身も何もない話をしているのにヒナタさんは楽しそうである。

「ねえ、何してんのー」

萌望(もも)、早く行こーよー」

 少し遠くで、ラケットバックを背負った女子数人がヒナタさんを呼んでいた。

「あ、私もう行かなきゃ」

 彼女は部員たちに、今行くー、と返事した。

「じゃあね、バイバイ、また明日」

 ヒナタさんは別れの挨拶を全部まとめて言った。

 あと、さよならくらいしかないぞ。

 ふと、彼女の学校生活はあっという間だよ、という言葉が頭をよぎった。

 それなら、返す言葉は簡単だ。

日向(ひなた)さん、また明日」

 僕はすでに背中を向けていた彼女に、そう返事した。

 振り向いたヒナタさんは、僕の顔を見てひどく驚いた表情をした後、満足そうに満面の笑みを浮かべた。

 こんなに嬉しそうなヒナタさんは初めて見たかもしれない。

「また明日!」

 ヒナタさんは弾むような声色で僕に言って、大きく手を振りながら走っていった。

 スキップと見間違うような軽い足取りの彼女を見送って、自転車にまたがった。

 あんな笑顔が見れるなら、明日はこっちから挨拶してみようかな。なんて思いながら、自転車を漕ぐ。

 校門を越えたところで、ふと気がついた。

「明日、土曜日じゃないか……」

 ぽつりと呟いた言葉は、どこか残念さを孕んでいるように聞こえた。

 きっと気のせいだろう。

 だって、僕は『学校』が大嫌いなのだから。


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