110:私が守るよ
あの後、私は保健室に駆け込み、精神が落ち着くまで寝かせてもらうことになった。
授業が始まる時間だったが、私は授業に復帰する気にもなれず、保健室の先生の優しさに甘えることにした。
というか、過呼吸になってしまい、授業どころじゃなかったのだ。
しばらくベッドに横になっている内に過呼吸は治まったが、ベッドから出る気になれず、掛け布団に包まったままぼんやりと虚空を眺めていた。
……やっぱり……無理なのかな……。
普通に生きることすら……ただ、友達と笑い合うことすら……私には許されないのだろうか。
彼氏が欲しいとか、モテたいとか、そんな大それた願いは抱かない。
ただ……私は……――。
「失礼します」
保健室の扉の方から聴こえた声に、私はハッと顔を上げた。
どれくらい時間が経っていたのか、イマイチ理解出来ない。
二年もの引きこもり生活で、時間の感覚が未だに狂ったままだ。
けど、今はそんなこと関係無い。
驚いている間に、声の主はどこか覚束ない足取りで、こちらに近付いて来る。
先程の声は……知っている声だった。
私は動揺を隠せず、足音の主を待つことしか出来ない。
しかし、足音が大分近くまで来たのが分かった時、
咄嗟に掛け布団で顔を隠した時、ベッドを囲むカーテンが開いた。
「……神奈ちゃん……」
名前を呼ばれ、私は右目だけなんとか覗かせ、声の主に視線を向けた。
そこに立っていたのは……山谷さんだった。
「……や……山谷さん……」
「神奈ちゃん、大丈夫? 急に教室出て行ったから……心配で……」
そう言いながら、山谷さんはベッドに腰かけ、私を見つめる。
彼女の言葉に、私は顔を隠す掛け布団を握り締める。
……分かってるくせに……。
そんなひねくれた言葉を、内心で吐き捨てる。
山谷さんは悪くない。頭ではそう理解はしているが、イマイチ心が付いてこない。
何より……顔を見られた事実が、私の胸を締め付ける。
折角私のことを許容してくれた彼女が離れていくのが、酷く恐ろしかった。
「……はい」
その時、山谷さんが何かを差し出してきた。
私はそれを見て、目を丸くした。
「……これ……」
「本当は、授業が始まるまでに持って来たかったんだけど……ごめんね? 遅くなっちゃって」
申し訳なさそうに言う山谷さんに、私はマジマジと差し出されたそれを見つめる。
それは、私の付けていた眼帯だった。
あの騒動の影響か、少し汚れていたりはするけど……私のものであることに変わりはない。
私は、左目で掛け布団を顔の左側に当てつつ、右手を伸ばしてそれを受け取る。
すると、山谷さんは上目遣いで私を見ながら、オズオズと続けた。
「えっと……私は、例え何があっても、神奈ちゃんの味方だから……」
「……山谷さん……」
「だッ、男子が変なこと言ってきても、私が守るよ! だから……授業……行こ?」
そう言って微笑みながら、山谷さんは私に手を差し出してくる。
彼女の言葉は嬉しい。
けど、その手を易々と取ることは出来なかった。
「……山谷さんは……私の顔……」
「ん?」
キョトンと首を傾げる山谷さんに、私はそれ以上言葉を続けられなくなる。
山谷さんは、私の顔……気持ち悪いと思わなかったの?
そう聞くことが……なんだか、無性に怖かった。
言葉に詰まっていると、山谷さんはフッと微笑み、私の手を握った。
「ホラ、早く行こう? そろそろ次の授業が始まっちゃうよ」
「あ、ちょっと!」
制止する私を無視して、山谷さんは私の手を引いて保健室を後にする。
私は引っ張られながらも、何とか片手で眼帯を装着した。
それから山谷さんに連れられて教室に戻ると……途端に、視線を集めた。
「ッ……」
一気に視線が自分に集中するのを感じ、私はその場で蹈鞴を踏む。
左目に激しい痛みが走り、呼吸が詰まる。
今すぐ踵を返し、この場所から逃げ出したい欲求に苛まれる。
ダラダラと体中から噴き出してくる冷や汗を感じていた時……右手が強く握られるのを感じた。
「……え……?」
「大丈夫だよ。神奈ちゃん」
優しい声がして、私は顔を上げる。
そこには……――
「行こう?」
――優しく微笑む、山谷さんがいた。
彼女の顔を見た瞬間、私の胸中を覆っていた靄のようなものが、全て晴れていくのを感じる。
微笑みながら手を引かれれば、あれほど強張っていた足が、前に進み始める。
気付けば私は自分の席に座っており、前の席には山谷さんがいた。
……確かに、普通の生活がしたかった。
このクラスの人達のように、当たり前のようにクラスメイトと笑い合い、普通に授業を受ける生活がしたかった。
だけど……これはこれで、悪くないと思う自分がいる。
確かに苦しいし、惨めな人生だけど……本当に信じられる友達がいる。
私なんかを大切にしてくれる、優しい人に出会えた。
見た目のことはどうしようもないし、これ以上なんて望まない。
多くは望まないから……今ある幸せを、大切にしたい。
山谷さんがいれば、それでいい。……それだけでいい。
数少ない幸せを……大切にしたい。