107:殺さないで
「なんであんな子を預かったのッ!」
奥さんの怒号が、家中に響き渡るのではないかと思う程に響いた。
ビリビリと空気が震動しているような錯覚を感じながら、私はその場で蹈鞴を踏んだ。
あの子、って……私のこと……?
……私について話している……?
そう思った時、気付けば私は、歩き出していた。
裸足でフローリングの床を踏みしめ、唯一光が点いている部屋を目印に、歩いて行く。
暗い廊下を壁伝いに歩き、私は、半開きの扉の前に立った。
それから、扉の隙間から中を覗いた。
「まぁまぁ……そう怒らないで」
そう言うのは、叔父さんだった。
二人は向かい合うように置かれたソファにそれぞれ座り、何かを話している。
宥める叔父さんに、奥さんは「怒ってないわよ!」と怒鳴りながら立ち上がる。
……いや、怒ってるじゃん……。
「ただムカつくだけ! 学校にも行かずに一日中部屋に閉じ籠って!」
「仕方が無いじゃないか。あの子は両親が……」
「そう言われても無理よ! 何が嫌って、あの顔よ! あんな気味の悪い顔……思い出すだけで鳥肌が立つわ!」
容赦のない言葉のナイフが、私の体に……心に、容赦なく突き刺さる。
気味の悪い顔……か……。
やっぱり、どれだけ誤魔化しても、それは変わらないんだ。
でも……直接言われたのは、初めてだ。
今まで、大人達は私の顔を見ても、気持ち悪いとか言わなかった。
内心では思っていただろうけど、言葉にはしなかった。
テレビの芸能人の反応だって、なんだかんだテレビ越しに言われたことだったので、ダメージは少なかったと思う。
初めてぶつけられたその言葉に、私は、その場で立ち尽くすことしか出来なかった。
震える手で左目に触れ、眼帯を握り締める。
気持ち悪い見た目なのは知っている。
知っているから……否定できなくて……辛いんだ……。
一人で呆然とする私を他所に、当の本人はソファに座り直し、溜息をつく。
それから頬杖をつき、小さく続けた。
「……こんなことならいっそ……一緒に死んじゃえば良かったのに……」
その言葉に、頭を鈍器で殴られたような衝撃を感じた。
……一緒に……死ねば……良かった……?
私は……死ねば良かったの……?
今まで、死ぬことは間違いだと思っていた。
だって、お父さんとお母さんが、その身を挺して救ってくれた命なのだから。
どれだけ辛くても、死んだらいけないと思っていた。
両親の分まで生きなきゃいけないと思っていた。
でも……死んでも良いの?
もう、頑張らなくても良いの?
このまま……楽になっても、良いの?
あぁ、でも、それはダメだ。
私が死んだら、両親の犠牲が無駄になってしまう。
でも、私が生きていることは間違いらしくて、本当は死ぬことが正解らしくて、でも両親は私に生きて欲しいらしくて、私は死んだらいけないらしくて、でも死んでほしいらしくて、私の存在は気持ち悪いらしくて、ムカつくらしくて、でも生きることが正解らしくて、私は間違っているらしくて、正解なんて無いらしくて、結局どうすれば良いのか分からないらしくて、だから私はもうどうすれば良いのか分からないらしくて、だから、だからもう、何も分からない。どうすれば良いのかも分からない。私は誰? なんで生きてる? なんで死なない? なんで死ねない? なんで? なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで……。
ショックのあまりに、膀胱はその機能を停止してしまったようで、じんわりと下半身に温もりが広がるのを感じた。
鼻を刺す異臭と、足元を湿らせる水たまりが、徐々に私の頭を冷ましていくのを感じる。
自分がしでかした失態と、それに伴う羞恥により、私の頭は徐々に平常な思考を取り戻していく。
……あぁいや、平常って何だ?
私なんかが、何を、平常を名乗っているんだ?
すでに、そんな言葉とはかけ離れた見た目で、かけ離れた人生を送っているくせに?
そんな私の思考が……平常なはずがないだろう。
失禁してしまった動揺から咄嗟に手を動かした時、半開きだった扉に手が当たる。
ギィ……と軋むような音を立てながら、扉はゆっくりと開いて行く。
すると、部屋の中にいた二人は会話を止め、こちらに視線を向けた。
驚きと動揺が入り混じったような、何とも言えない感じの表情で、こちらを見ている。
今、私はどんな顔をしているんだろう。
頬の筋肉が引きつっているのを感じる。
私は今……笑っている? 泣いている? 怒っている?
鏡が無いから分からないし……分かろうとも思わない。
ただ、一つだけ分かることは……気味の悪い顔、ということだけ。
「……明日から……学校、行くよ……」
小さく、掠れた声で、私は呟いた。
一歩前に歩くと、ピチャッ……と、嫌な水音が響く。
下半身に湿った嫌な感触を覚えながら、私は続けた。
「学校……行くから……だから……」
殺さないで……と掠れた声で呟くのと、涙が頬を伝ったのは、ほとんど同時だった。
私がどうするべきなのかは、まだ分からない。
だけど、一つだけ分かることは……ここで死ぬべきじゃないということ。
正解が分からないなら……探し出してやる。
自分が、生きていても良い存在なのか、死ぬべき存在なのかを、見つけ出してみせる。
だけど、それまでは……私が生きることを、許して欲しい。
自分が死ぬべき存在だと分かったら、すぐに死んでやるから。
これからの人生は、私の存在意義を見出すまでの……執行猶予だ。