105:ただいま
あれから、自分がどう過ごしていたのか、イマイチ覚えていなかった。
アイに話しかけられたような気がする。それに答えたのか否かも……覚えちゃいない。
ただ、ぼんやりと生きて……抜け殻のように、日々を消費していた。
空っぽなままで生きて……気付いたら、退院していた。
アイをまた独りにすることに抵抗はあったし、罪悪感だって湧いた。
だけど……どうしようもなかった。
彼女の為に入院を引き延ばすのも無理だったし……心理カウンセラーの言葉が、未だに私の中でグルグルと渦巻いていた。
幽霊は、見て見ぬふりをするべきだ。
だけど……生きている人達は、私に対して普通に接してくれないじゃないか。
テレビじゃ数多くの人が私の顔を見て気味悪がり、叔父さんやその奥さんだって、口には出さないけれどその目に憐れみの感情が滲んでいる。
言葉にしなくても、分かる。嫌なくらい、その感情が直接伝わってくる。
それに比べて、幽霊はごく普通に私と接してくれた。
記憶が無いからこそ……常識が無いからこそ、私の異常に気付かずに接してくれる。
……幽霊に依存したくなるのも……仕方ないじゃないか……。
「……はぁ……」
車窓から見える、後ろに流れていく景色をぼんやりと眺めながら、私は小さく溜息をついた。
あのカウンセリングから、もう何度目の溜息だろう。
多分、軽く三桁くらいにはなっているんじゃないかと思う。
どれだけ悩んでも答えは出ずに、結局退院してしまった。
これから、私はどうすることが正解なのだろうか。
もう、ごく普通の生活なんて無理だろうし……けど、私は普通に生きたい。
二律背反の願いを抱えてしまっていることに、なんだか自分自身に呆れてしまう。
また溜息をついていた時、車がとある家の前で止まった。
「……ここは……」
「ホラ、下りるよ」
車の運転をしていた叔父さんの言葉に、私は扉を開けて、車から降りた。
扉を閉めて顔を上げると、そこには……昔、私が住んでいた家が、静かに佇んでいた。
「まだ、家に君の荷物とか残ったままだからね……大切なものとか置いてあると思うし、自分で取りに来た方が良いと思ったんだ。……もし辛かったら、何が欲しいかだけ言ってくれれば、後は僕がやるけど……」
「いえ……自分で、取りに行きます」
叔父さんの言葉に、私はそう答えた。
……手に汗が滲むのを感じる。
彼の言う通り、辛いけれど……これはきっと、乗り越えなければならない壁だと思うから。
私は汗の滲む手で服の裾を握り締め、大きく深呼吸をした。
「じゃあ……鍵を開けるよ?」
叔父さんの言葉に、私は小さく頷く。
すると、彼はポケットから取り出した鍵を、家の扉に差し込んだ。
恐らく合鍵だろう。
叔父さんが手首を回すと、カチャリと乾いた音がした。
……鍵が開いたらしい。
「さぁ、どうぞ」
微笑みながら言い、叔父さんは扉を開けた。
……懐かしい我が家。
もう数えきれない程に見て来た家の玄関が、全く別物のように感じた。
最後に玄関を潜ったのは……旅行に行く前日の、学校から帰った時。
その日は一学期の終業式があり、翌日からの旅行……そして、約一ヶ月の夏休みを楽しみにしていた。
……こんなことになるなんて、思いもしなかった。
「……ふぅ……」
小さく息をつき、私は玄関に向かって、一歩踏み入った。
不思議と、足取りは軽かった。
頭の奥に響く心臓の音が、やけに大きく聞こえる。
私は込み上げる緊張を抑えながら、ゆっくりと歩いて行った。
「……ただいま」
玄関を潜った私は、そう小さく呟いた。
私の声に応えてくれる人は、いない。
手に汗が滲むのを感じながらも、私はゆっくり歩いて、靴を脱いで廊下に上がる。
フローリングの床を踏みしめながら、私は廊下を歩き、階段を上って自分の部屋に向かった。
残暑による、蒸れたような暑さと……慣れ親しんだ我が家の匂い。
私の部屋は廊下の一番奥にあるため、その過程で……両親が使っていた部屋の前を、通る。
お母さんの使っていた香水の香りや、お父さんの書斎から漂うインクの香り。
微弱に残った、慣れ親しんだ香りが、私の鼻孔をくすぐる。
胸が苦しい。けど、私は頬を伝う冷たい汗を拭いながら、前に進んだ。
両親の部屋の前を抜けると……私の部屋があった。
私は汗で湿った手でドアノブを握り締め、捻り……扉を開けた。
「……っはぁ……」
部屋に入ると、途端に力が抜けた。
茹だるような暑さも相まり、溶けるように体から力が抜けていく。
服の胸元をバフバフと扇ぎながらも、私は荷物を準備するべく、部屋を見渡した。
叔父さん達に迷惑は掛けたくないし、服とか、日用品はあるものを持って行った方が良いと思う。
後は……お父さんが書いた小説は持って帰りたいな。
元々小説とかを読む方ではないけど……お父さんの小説は、好きだから。
それと、お母さんが着てた服も……いつか大きくなった時に、お古として着られるかもしれない。
それ以外は、今は良いかな……なんて思いつつ、私は視線を窓辺の方に向けた。
「……あっ……」
つい、声を漏らす。
そこにあったのは……小学校の入学式の時に撮った、両親との写真だった。
近くにいた別の子のお母さんに頼んで撮ってもらった、家族三人での画像。
満面の笑みを浮かべながらピースをする私を挟むように、楽しそうに笑う両親が写っていた。
ここまで両親を失った悲しみに耐えられたのは……なんだかんだで、両親の顔を見ていなかったからだ。
記憶の奥底に封印して、この家に来ても、必死に思い出さないようにしていた。
……思い出したくなかった。
でも、やっぱり無理だ。
どれだけ頑張っても……耐えられそうに無い。
私は唇を噛みしめ、必死に涙を堪える。
嗚咽を漏らしそうになるのを、必死に我慢する。
泣くな。泣いたら……二人が心配する。
泣き顔なんて見せられない。
前に進むんだ。
折角生かして貰ったんだから……お父さんとお母さんの分まで、幸せになるんだ……。
……なれるのかな?
こんな見た目で……幸せになることなんて、出来るのかな……?
なりたいよ……。
「……幸せに……なりたい……」
必死に涙を堪えながら、私は小さく呟いた。
……きっと、決して叶うことは無いであろう……願いを。