決断
デパートの中に設けられたまだ新しい白く綺麗なトイレ。男はその便座に腰を下したまま幾度となく思案を繰り返していた。
――どっちだ? 俺は一体、どっちに入ったんだ?
記憶を漁ってみたところで答えは出ないだろう。あの時の自分が正気でなかったことは自分自身が良く知っている。
錠に掛かったまま一切動かすことの出来ない指を見つめ、彼は答えの見つからない迷宮へと思考を沈下させていく。
この扉を開けた先に待つのは、生か、死か。
決断できないまま、男は現実から目を逸らすように、無意識のうちにこの状況に陥った経緯を思い出していた。
男は崩れかけた両膝に慌てて力を込め必死の思いで壁に手を付いた。何とか転倒は免れたものの事態は深刻だ。もはや一刻の猶予も許されない。
男は自由な方の手で下腹部を擦る。そんなことをしたところで何の意味も無いことは分かっていたが、そうせずにはいられなかった。
「は、早く、トイレに」
壁に支えられるようにしながら、男はゆっくりと、ゆっくりと、生まれたての小鹿のような震える足で前に進んでいく。
「と、遠い」
実際には50メートルも離れていない場所に存在するはずのそれが、まるで地平の彼方にあるかのように遠く感じる。
「あ、あとすこ、うぷっ」
余りの腹痛に吐き気がこみ上げ、男は慌てて口を押えた。
「く、くそ」
毒づきながら、男はこんな状況に自分を追い込んだ相手をぶん殴りたい衝動に駆られていた。この異常なまでの腹痛の原因は分かっている。全て奴が、悪いのだ。
「お、お客様? 流石にその、そろそろ試飲を遠慮して頂きたいのですが」
「ああ? 俺はな、今どの味の飲むヨーグルを買おうかすっげえ悩んでるんだよ。悩んで悩んで、でも答えが出ない。だから試飲を続けてんだよ。なんか文句あんのか?」
「その、他のお客様もご利用するものですから。あまりお一人で飲まれてしまうと他のお客様のご迷惑になってしまいますので」
「たくうるせえなあ。だったら試飲用の商品をすぐに用意すればいいだけだろ。気が利かねえ」
そんなやり取りをしたのが10分前。周囲の白い視線と、青筋を立て始めた店員の眼光に耐えきれず退散――結局商品は購入しなかった――したまでは良かったのだが、
「まさか、ここまで……腹を、下すなんて」
完全に想定外だった。
「くそっ、あの店員め。他の客の迷惑が……じゃなくて、俺の、身体を心配した発言を、しやがれ。そうすりゃ……俺だって、すぐに飲むことをやめたんだ」
プロならそれ位のことを考慮するべきだ。所詮はデパート。百貨店の店員とは違うと言うことだ。そんな風に痛みとは別の部分に必死に思考を向けながら、男はカタツムリの行進のような歩みを続ける。
――耐え、切れる、か?
人としての尊厳が掛かっているのだ。肛門の力は一切緩めることは出来ない。
一歩、一歩、踏み出す足が、まるで強度の高いウエイトトレーニングをしているかのように重い。
意識が朦朧とし始め、全身の筋肉が限界を迎えようとした矢先、彼の目に希望の文字が飛び込んできた。砂漠のオアシスにも引けを取らない希望の場所。
トイレ。
この3文字が、これほど神々しく見えたことはない。
男は最後の力を振り絞りトイレに向かって突進した。
――までは良かった。
彼は自身の尊厳が守られたことに安堵するが、すぐに顔を曇らせてしまった。
――このトレイは。
一度思考を切り周囲――といっても四方を壁に囲まれているのだが――を見渡す。判断材料になるものは、少なくとも彼の目には無いように思えた。
――本当に男子トレイ、なのか? それとも、もしや女子トイレ?
男に突き付けられた問題。それは自身が今どちらのトレイに居るのか、だった。男子トイレならば当然のことだが、なにも気にすることなく出ていく。だが、もし女子トイレだったら?
外に出た時、たまたま利用者と鉢合わせる、なんてことになったら! 自分はなんと言われるだろうか。怪訝な顔をされて終わり、ということはないだろう。変態呼ばわりされるか、それとも警備員を呼ばれ警察に突き出されることになるか。
あの気の利かない店員がニヤニヤしながら、自分を警官に突き出す姿が脳裏に浮かび、彼は眉間に深い皺を作る。
「…………」
どんな結末が待っているにせよ、あまり自分にとって好ましいものではないだろう。
――まあ、落ち着けよ俺。
深呼吸で焦った頭を冷やし、彼は目を瞑った。そのまま周囲の音に集中する。少なくとも今現在利用者はいないようだ。
――なら、このまま出るべきだ。
男子トイレにしろ、女子トイレにしろ、利用者が居なければ関係ない。よし、と気合いを入れ錠を外そうとしたところで、彼は慌てて指先を制止させる。
タタタ、と小さな足音が近付いて来たのだ。
――や、やべえ! けど、チャンスだ。
小刻みに震える指先をゆっくりと錠から外し、男は両耳に意識を集中した。利用者の声を聞くことが出来れば答えを出すことが出来る。
――どっちだ? どっちなんだ?
焦る気持ちを抑えることが出来ず、男は扉に耳を押し付けた。彼の耳に届いた声は、
「おしっこおしっこ」
「…………」
女児のモノだった。
――ガキじゃ意味ねえんだよ! バカか! 判断材料にならねえよ!
思わず声に出して叫びたい衝動をぐっと押さえ、男は内に湧き上がった怒りをゆっくりと吐き出す。こんなところで叫んでは、今まで悩んでいた意味がない。
――まあいいさ。ガキが居なくなったら、とっとと脱出だ。誰も来るなよ。
祈るような思いと共に男は必死に耳をそばだてる。その祈りが通じた訳ではないだろうが、女児は思いのほかすぐにトイレを後にした。
――…………よし。誰も来ないな。
今度こそ、という気持ちと共にゆっくりと錠を動かしていく。
――よし! これで脱出できる!
そう男が思った矢先、またもや人の足音がトイレの中に響いた。ビクリと肩を揺らし、男は再び錠から手を離す。
――くそっ! ふざけるなよ。毎回毎回狙いすましたように。
毒づきながらも男は情報欲しさに扉へと耳を押しあてた。今度こそ、何か貴重な情報が手に入る、かもしれない。
――足音は……ふむ。なんというか重厚だな。一歩一歩がトイレに響く。それに、歩幅が結構あるぞ。すげえデブで大柄な女…………いや、これは。
「あら? ちょっとうそ、メールが着てたの気付かなかった」
野太い声を上げた利用者。間を開けることなく、カチカチと携帯電話を操作しているような音が響き始める。
「もう近くまで来てるなんて。しょうがない」
そう言うと利用者は用を足すことなく、慌てた様子でトイレを出て行った。やることもやらずに出るとは。大してもよおしてなかったのだろうか。
――まあ、なんでもいいさ。あの声は確実に男だった。足音も男のものなら納得だ。
へへ、と短い笑いを漏らし、男は意気揚々とトイレの扉を開けた。
開けてから、
「…………あれ?」
丁度トイレに入ってきた女性客と目が合っていた。
「は? え? な、なん……え?」
目の前に立つ人間の性別を脳が受け付けず、言葉が意味をなさないまま口を出る。が、男が事態を正しく把握するよりも、女性客が現状を把握する方が早かった。
「へ、変態よおおおおおおおお」
「うわああああああああああ」
女性客の叫びに釣られるように男も叫び声を上げる。訳が分からないまま、男は女性客を突き飛ばすようにしてトイレから一目散に飛び出した。
――なんで? なんでだ? 確かに、確かにさっきの利用者は男だった。男のはずだったのに。なんで女が入ってくるんだよ。
「はあはあはあ」
軽い混乱に陥りながら走る男。その歩みが彼の意思とは無関係に唐突に、止まった。
「いてえ」
前も見ないまま走った結果、彼は他の客と盛大に正面衝突してしまったのだ。ただし、苦痛の声を上げ、無様に床に尻餅をついたのは男だけで、ぶつかられた客は何事もなかったように立っている。
「あら、ごめんなさい。大丈夫?」
客はぶつかってきた男を咎めるでもなく、優しげな眼差しと声を男に向ける。すっと差し出された手を見つめ、
「ねえ、本当に大丈夫?」
再び掛けられた気遣いの声を聞いたその瞬間男は突然悟った。
「なんでお前が女子トイレ使ってんだよ! このカマ野郎!」
「あら? ちょっとやめて」
目の前に立っていた客。190センチは下らない筋骨隆々の体躯をした金髪ロングの大男に殴り掛かり、
「あ?」
男は男性客が振るった腕の衝撃で盛大に宙を舞っていた。
――もう絶対にデパートなんて利用しねえ。
重力に導かれるまま自由落下をする僅かな合間に、彼は固く心に誓った。
「ぐえ」