四日目:失ったものと得たもの1
詰め所を出て、美咲は途方に暮れる。
このまま一週間もザラ村に滞在するしかないのだろうか。
昨日のうちに支払いは済んでいたので、いつでも宿屋の部屋は引き払えるのだが、そういうわけにもいかなくなりそうだ。
「……とにかく、エルナの荷物を引き取りに行かないと」
ひとまず宿屋に戻ることにする。
留まるにしても、馬車などの移動手段を得るための資金にするにしても、自分の荷物が無いのだから、旅を続けるためにはエルナの荷物を流用せざるを得ない。
宿屋では変わらぬ様子で女将が出迎えてくれた。
「まあまあ、お帰り! どうだったんだい、お友達は」
美咲は黙って首を横に振った。
「そうか……。でも気を落とすんじゃないよ。ほら、しっかり食べて元気をお出し。朝食もまだだったろう? ほら、あんた、出しとくれ!」
席に案内され、美咲が座ると女将の夫である酒場のマスターがやってきて、ドン、とスープとパンが乗った皿を置く。
カウンターの中に戻ると無言でグラスを磨き始める夫を見て、女将は肩を竦めた。
「うちの人は無愛想だけど、料理だけは上手いからね。今日のパンは焼きたてだから、昨日のパンとは一味も二味も違うよ!」
自信満々の女将に釣られ、視線を朝食の皿に落とすと、確かに出されたパンはふっくらとしており見た目からしていかにも柔らかそうだ。
スープも昨日のような芋は入っていないが、その変わりに色々な野菜の切れ端が雑多に入っていてボリュームがある。
食べ物を目の前にすると、思い出したように身体が空腹を訴え出す。
一口スプーンで掬って口に入れると、じっくり煮込まれた野菜が口の中でふんわりと溶けた。
じわり、と美咲の目から涙が溢れる。
「あ、あれ? もしかして、口に合わなかったかい?」
泣き出した美咲を見ておろおろする女将に、美咲は首を泣きながら横に振った。
「違うんです。美味しいです。とても」
エルナを喪った悲しみと、これから一人で旅をしなければいけない不安で冷え切っていた心が、スープによって温まっていく。
まだ元の世界に戻ってたわけでもないのに、日常が戻ってきた気がした。
自然と顔を綻ばせる美咲に、女将は顔いっぱいをくしゃくしゃにして笑顔を浮かべる。
「そうだろうそうだろう。今日の朝食は屑野菜とワムルッカのベーコンを煮込んだスープに、エルネムゲを練り込んだ自家製パンだよ! お代わりもあるからたんとお食べ!」
美咲は曖昧に微笑んだ。
ワムルッカとかエルネムゲとか言われても、美咲にはさっぱり分からない。
スープに浮かぶベーコンらしきものを口に入れる。
以前なら何が入っているのか戦々恐々としていただろうが、今は不思議と気にならなかった。
主な味付けは塩でやはり薄味なのだが、色々なものが煮込まれているだけあって様々な旨味がスープに溶け出していて、とても美味しい。
パンもスープに浸してふやかす必要がないくらい柔らかく、かといって柔らか過ぎずに手で千切ろうとすると確かな弾力を伝えてくる。
美味しかったけれど、エルナの死体を見た直後だったため、あまり食欲が沸かずおかわりを辞退して荷物を返してもらう。
「あの、これ、代金です」
エルナの道具袋を漁ると銅貨と銀貨が一まとめにされた袋が出てきたので、その中から銀貨を全てカウンターに乗せる。全部で十二枚だった。
銀貨を見た女将が驚いて美咲に銀貨を返そうとする。
「ちょ、こんなに貰えないよ!」
「いいんです。部屋が血で汚れちゃってますし、その弁償も兼ねてますから」
さすがに足りますか? とまでは聞かない。
不用意に金貨を見せるのと同質の行為だと気付いたからだ。
相変わらず物価には疎いままだが、聞くべきではないことを美咲も少しは学習した。
動揺した顔で美咲の顔と手元の銀貨を見比べる女将の手を、美咲はそっと閉じさせる。
「どうか受け取ってください。その代わり、もう一度立ち寄ることがあったら、また美味しい料理を食べさせてくださいな」
「……まあ、そういうことなら、受け取っておくよ」
しぶしぶ銀貨を懐に入れる女将に頭を下げ、美咲はエルナの道具袋を背負い、宿屋を後にしようとする。
「ちょっと待ちな!」
後ろから声をかけられて振り向くと、気を取り直したのか女将が元のたくましさを感じる笑みを浮かべて立っていた。
「その頭のまま出て行く気かい。切り揃えてあげるから、そこにお座り。あんなに貰ったんだ、それくらいのサービスはさせとくれ」
女将は美咲にそう言い放つと、奥に引っ込んで鋏と櫛に清潔そうな布を持って戻ってきた。
「子どもが独立するまでは八人兄弟姉妹の髪を私一人で切ってたもんさ。腕は確かだから安心おし」
言われるがままに椅子に座り直した美咲の首筋に布を巻きつけて、鋏と櫛を構える姿は確かに堂に入っている。
「……ありがとうございます」
振り向いてぺこり、と小さく頭を下げる美咲に、女将がきょとんとする。
「さっきからやってるその動作はなんだい?」
「あ……。私の国の、感謝の意を伝える動作で、お辞儀っていいます。この国では伝わらないんですね」
「ベルアニア人じゃないのかい。得心がいったよ」
鋏と櫛をテーブルに置き、女将は腕を後ろに組んで片足を下げ、軽く腰を落とす。
「これがベルアニアでの感謝の仕方さ。挨拶にも使えるから覚えておいて損はないよ」
美咲は心のメモ帳にお辞儀の代わりの動作をメモした。この世界に来てから、カルチャーショックを感じてばかりなのがおかしくて、美咲は思わずくすりと笑った。
大人しく椅子に座る、美咲の髪を女将が櫛で梳かし、器用に鋏で毛先を整えていく。
長さそのものは切られてしまった以上もうどうにもならないが、見た目だけはこれで随分マシになった。
「ベルアニアじゃ髪が短い女は大概が娼婦だから、髪が短いっていうのはそれだけで差別が多いんだ。旅を続けるなら面倒ごとに巻き込まれないよう気をつけなよ」
女将の忠告に美咲は素直に頷く。
髪が短い女は娼婦が多いというのは初耳の情報だった。
しばらくすると女将は髪を切る手を止めて鋏と櫛を片付け、布で首筋についた毛を払い落とし、床に散った髪の毛を箒で掃いて片付ける。
「さ、終わったよ。水瓶で出来上がりを確認しとくれ」
美咲は席を立ち、カウンター内に失礼して水瓶を覗き込む。
水瓶の水面には、ロングヘアーからショートヘアーになった美咲が映っていた。
髪が長かった時はどちらかといえば物静かな雰囲気だったのが、髪を切ったせいか活動的な雰囲気になっている。
反射的にお辞儀をしそうになった美咲は、頬を染めて両腕を後ろに回し、片足を引いて腰を落とした。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
女将がにっこりと微笑むのを見て自分も笑顔になり、美咲はもう一度感謝の意を動作で伝えた。
■ □ ■
ザラ村は小さな村だ。
牧畜が盛んで特産品があり、村の規模の割りには村人たちは裕福な暮らしを営んでいるが、それでも余っている馬車というのは中々無いようで、美咲は結局馬車を手に入れることはできなかった。
「どうしよう……」
このままザラ村に留まるとしても、滞在費はかかる。
一週間の宿代に銀貨二十一枚、切り詰めたとしても一日で食事代含め銀貨三枚と銅貨十五枚はかかる計算だ。
食費と宿泊費だけでそうなのだから、入浴代わりに身体を拭くためにお湯を貰ったりすれば余分に金がかかる。
やはり女性として身体が汚いのはいただけないので、せめて村にいる間だけでも一日に一回は身体を拭いておきたい。
本当はたっぷりと贅沢にお湯を使って洗いたいのだが、この世界の状況では無理な話だ。
さらにいえば、滞在している間も金は減り続けるのに、今の美咲には所持金を増やす手段がない。
エルナは美咲に持たせた額ほど自分では持っていなかったようで、何とか働き口を見つけなければ、いざ乗合馬車が来ても金が無くて乗れない、などという本末転倒な結果になり兼ねない。
働いて稼ごうにも、そもそもザラ村のような小さな村では、雇用は全て村人の中で完結しているだろうから、余所者の美咲が働けることはないだろう。
ラーダンに行けば働き口があるかもしれないが、そもそもそのラーダンへの旅を足止めされている真っ最中なので意味が無い。
王都に戻るにしても、エルナの転移魔法を挟んでいるため、美咲一人では無事に辿り着ける保証はない。むしろ途中で野垂れ死ぬ可能性の方が高い。
美咲は村の入り口に立って困り果てていた。
いっそのこと無茶を承知で旅立とうと思ったものの、遭難することが目に見えていてやはり二の足を踏んでしまったのだ。
「……ん?」
何か振動音のような音が断続的に聞こえてきて、美咲は耳を澄ませる。
目を凝らして前方を見つめると、朝靄の向こうから何かがガラガラと音を立てながらやってくる。
「馬車だ……」
偶然か、それとも天の配剤か。
一台の幌馬車が、美咲の前に現れた。
馬車が村の外に止まり、中から人が降りてくる。
出てきた人物が銀髪の女性だったことに、美咲はまず驚いた。
(奇麗な人……)
きらきらと日に照らされて輝く髪が風に靡き、ふわりと揺れる。
長衣の上から胸部を守る鋼鉄製の鎧をつけ、同じく鋼鉄製の長剣を腰に佩き、手足を鋼鉄製の防具で覆って武装している。
鎧の上からは、厚い布で織られている、獅子が刺繍されたマントを羽織っている。
馬車自体も所々が金属板や金具で補強され、馬車を引く馬もそれに似合って大型で、がっしりとした屈強な体格だ。というか、口元から除く歯がどう見ても牙なので、見た目が似ているだけで実はこの世界の馬は馬じゃないのかもしれない。
翡翠色の目が睥睨するように動き、美咲を捉えた。
女性と目が合った瞬間、美咲は走り出していた。
目を丸くする女性の前まで駆け寄り、両の拳を握り締めて叫ぶ。
「あの、どちらへ向かうご予定ですか!?」
「え、ラーダンだけど……」
喜びのあまりその場で快哉を上げそうになるのを、美咲は辛うじて堪える。
「乗せていってください! 私もラーダンに行きたいんです!」
降りてきた女性は、美咲を不審げに見つめる。
「悪いけれど、友人でもない、知人でもない会ったばかりの人を乗せるわけにはいかないよ。乗合馬車を利用したらどうかな」
美咲は項垂れる。
(まあ、普通は断られるよね……)
予測していたことなので、美咲はめげずに喰い下がった。
「じゃ、じゃあ今からでも私のことを知ってください! それで信用に値すると思ったら、馬車に乗せていただけませんか!? お金は払いますから!」
女性はしばらくきょとんとする。
やがて闊達に笑い出すと馬車から縄を取り出し、村の柵に馬車を固定した。
「面白い子だね。いいよ、今から朝食を取るつもりだったから、食事しながらでも良ければそこの酒場で話そうか」
「あ、ありがとうございます!」
腕を後ろに組んで片足を下げ、腰を落として美咲は感謝の意を示すと、すでに歩き出していた女性の後を追って駆け出した。