十三日目:朝の一幕1
美咲が起きたのは、朝日が昇る少し前だった。
外で鐘が鳴り、その音で目覚めたのだ。鐘は二回鳴っていたから、現在時刻はちょうど二レンディア。日本時間に直すと四時四十分頃だ。
室内と同じように外もまだ暗いが、後一レン、つまり十分もすれば空は白み始めてくるだろう。
ベルアニアの朝は早い。冒険者ギルドも、それは例外ではない。まあ、職員の通勤と準備があるから、一般の家庭よりかは多少遅いのではあるが。
ベッドから上体を起こした美咲は、くうくう寝息を立てているミーヤを起こさないようにそっとベッドから抜け出すと、大きく伸びをした。
「うう、さむ」
刺すような冷気を肌で感じ取り、思わず声を漏らして美咲は両腕を摩った。
「いたっ」
その拍子に腕に痛みが走り、美咲は反射的に左腕を庇う。
左腕に巻いた包帯が目に入り、ゲオルベルに噛み付かれて怪我をしていたことを思い出して、美咲の肌に鳥肌が立った。
あの時のことを思い出すと今でも寒気を感じる美咲だが、そのおかげで残っていた眠気も晴れる。
(……顔でも洗ってこよ。あ、でもその前にミーヤちゃんを起こそうかな。起きた時に私が居なかったら心配させちゃいそうだし)
腕は痛むものの、アリシャが手当てしてくれたお陰か、痛みの度合いは昨日よりかはマシになっている。痛いことは痛いけれど、動けないほどではない。左腕を使って無理をしなければ、戦闘だって出来るだろう。
一人で宿屋の裏の空き地にある井戸に行こうと思った美咲は、思い直してミーヤと一緒に行くことにした。
勘違いでなければだが、美咲はミーヤにとって家族同然の存在に思われているようだ。美咲を姉と慕うミーヤは、美咲と離れることを酷く嫌がる。
昨日森に行った時もそうだ。直前まで一緒に行くとごねていたし、帰ってからは美咲の旅についていくとまで言った。
危険だから駄目だといっても聞かないし、無理やり置いていっても後々問題になりそうなので、美咲はしぶしぶミーヤの同行を認めている。魔物使いの笛で魔物を手懐けることさえ出来れば、最低限の自衛くらいはできるだろう。本心を言えば置いていきたいが、ミーヤの気持ちも理解できるので仕方ない。
「起きて、ミーヤちゃん。朝だよ」
小さな声で話しかけ、毛布に包まって寝ているミーヤの肩を揺する。
本当は朝どころかまだ朝日が昇ってすらいないのだが、ベルアニアの住人の多くはこれくらいの時間に起き出すので、朝と表現することに何の問題もない。
「うにゅ……お姉ちゃん、あと一バル……」
むにゃむにゃとミーヤは寝言のようにそんなことを言った。
一バルと聞くと少しの時間のように思えるが、その実日本時間の単位に直すと七十分、つまり一時間を越えている。そんなに待っていたら、冒険者ギルドに着く頃にはめぼしい依頼は無くなっているだろう。
だが、美咲はミーヤのそんな様子に少しホッとした。
いつもは無邪気なミーヤだが、夜はよく悪夢を見て飛び起きたり夜泣きをしたりすることがあるのだ。出会ってからまだ数日も経っていない。今日もうなされていてもおかしくはなかった。
(マシになったみたいで、良かった……。でも、それとこれとは話が別だし、起きてもらわないと)
美咲は心を鬼にして、ミーヤから毛布を剥ぎ取りにかかった。
「さっ、寒い! 寒いよ!」
さすがに外気に晒されると目が覚めたようで、ミーヤが悲鳴を上げて飛び起きた。
「……お姉ちゃん、酷い」
もっと寝ていたかったのか、恨みがましい目を向けてくるミーヤに、美咲はにっこりと笑いかけた。
「おはよう、ミーヤちゃん。ほら、着替えて顔を洗いに行こう。そうしたら冒険者ギルドに行く途中で串焼き買ってあげるから」
「……うん!」
串焼き効果は覿面で、ミーヤはたちまち機嫌を良くした。
道具袋から自分の着替えと一緒にミーヤの着替えも取り出して、ミーヤに手渡す。
ミーヤは自分の道具袋というものを持っていないので、ミーヤの分の荷物も美咲が預かっているのだ。
(ゆくゆくは、ミーヤちゃんの道具袋もちゃんと買ってあげないとなぁ。道具屋で売ってるかな?)
そんなことを考えながら着替えているうちに、ミーヤの着替えも終わったようだ。
鎖帷子などの防具はつけず、防寒に外套を羽織る。
布きれを二つ手に部屋から出ようとした美咲は、踵を返して勇者の剣を鞘ごと手に取った。
「やっぱり、これが無いと落ち着かないや」
すっかり手元に武器を置いておくのが当たり前になってしまった自分に苦笑しつつ、腰の剣帯に勇者の剣を指した。
「お姉ちゃん、ミーヤも外套欲しい」
「ああ、ごめん。そうだったね」
再び道具袋を漁った美咲は、ミーヤの外套を引っ張り出して渡した。
ふんだんに毛皮が使われた、もこもこの外套だ。防寒対策に、厚めのものを選んだので、多分美咲が着ている外套よりも温かいだろう。
美咲の外套はエルナが美咲のために用意しただけあって、材料の布に貴重な竜の鱗が縫い付けられた対刃、対衝撃、対魔法に優れた逸品なのだが、毛皮よりも防寒性は低く、そこがたまに傷だ。
「ふふ、ぬっくぬくー。あったかい」
マントを羽織ったミーヤは微笑んで美咲の傍に立った。
おそるおそる手を伸ばしては引っ込めるミーヤに、美咲は手を差し出す。
「手、繋いで行こうか」
にっこりと美咲が微笑むと、ぱあっとミーヤの顔にも笑顔が浮かんだ。
「うん!」
差し出した美咲の手を、小さなミーヤの手が握り締める。
手を繋いで、美咲とミーヤは部屋を出た。
起きたばかりの頃よりは多少白み始めているものの、まだ外の太陽は昇っておらず、廊下は薄暗い。
足を踏み外さないように、美咲はミーヤを連れて注意しながら階段を下りた。
一階に下りると、裏口に回って外に出る。
とたんにひんやりとした冷気が顔に吹き付けてきて、美咲は首を縮こまらせた。
「寒いね、お姉ちゃん」
「そうだね。早く顔を洗おう」
井戸の釣瓶で水を汲み、顔を洗う。
アリシャの馬車から水桶を借りることも考えたが、どうせ鍵がかかっていると思い断念した。
「うひゃっ」
ばしゃっと顔に水をかけた美咲が水の冷たさに変な声を上げた。
「冷たいけど、気持ちいいね!」
ミーヤも同じように水で顔を濡らして、きゃあきゃあ笑う。
「うん、そうだね……」
予想以上の水の冷たさに、美咲は辛うじて平静を装った。
手を赤くしながらも、美咲は年上の威厳を崩すまいと我慢して顔を洗う。
洗顔を終えると、持ってきた布切れで顔を拭いた。ミーヤにももう一つの布切れを渡し、自分で顔を拭かせる。
布切れはもちろん清潔なものを選んだ。間違っても昨日使ったような雑巾のような布ではない。元々エルナの荷物に入っていたものである。ハンカチやタオル代わりになるし、複数枚入っているので地味に便利だ。
すっきりしたところで、声をかけられた。
「ちゃんと今日は起きれたか。おはよう二人とも」
「おはようございます、アリシャさん」
振り返った美咲は、見慣れたアリシャの姿を目にして挨拶する。アリシャもいつもの姿に武装だけ解いた状態で、腰に護身用の短剣を鞘ごと差していた。
外套をつけていないので、鍛え上げられた肉体が服を押し上げていて、内側からでも筋肉が張り詰めているのがよく分かる。マントがない分寒そうに見えるが、鍛え方が違うのかアリシャは平然としている。
アリシャもまた手に布を持っていた。美咲やミーヤと同じように顔を洗うつもりなのだろう。
釣瓶を井戸の中に落とすと、それなりに美咲が苦労して引き上げていたのに比べ、アリシャはするするといとも簡単に引き上げていく。
その重さを知っている美咲としては、相変わらずのアリシャの怪力に感心するばかりだ。ポンプや滑車のような便利なものはなく、井戸に直接縄が括りつけられているだけなので、摩擦の力まで加わるというのに。
さらには釣瓶そのものの重さに加え、引き上げる時は水の重さも合わさり、なかなか重い。
一人で引き上げきった釣瓶の水を惜しみなく使い、アリシャは顔を洗った。
「ふう。朝方の井戸水は冷たくて気持ちいいねぇ」
手持ちの布で顔を拭きながら、アリシャがそんなことを言う。
顔を洗った時、その冷たさに驚いて気持ちいいなどと思うどころではなかった美咲は憮然とした顔をした。
「私は冷たいを通り越して、痛いくらいでしたけど」
真冬の冷蔵庫に入れっぱなしにしていた水のように井戸水はきんきんに冷えていて、手を浸すとたちまち真っ赤になり、痺れるような痛みを美咲に伝えてきたのだ。元の世界の湯沸かし器が心底欲しくなるくらいだった。
不満そうな顔の美咲に、アリシャはくっくっくと笑う。
「精神の鍛え方が足りないんだよ」
「む。これでも結構自分では鍛えられたと思ってるんですけど」
ジト目でアリシャを睨み、美咲は唇をつんと尖らせた。
ベルアニアに召喚されてからもうすぐ二週間が経とうとしているが、そのたった二週間で美咲は様々な経験をした。
エルナを失い、ルアンを失い、ルフィミアを失い、自分の弱さに歯噛みして、それでも美咲なりにもがきながら一歩ずつ踏み重ねてここまできたのだ。
できることなら、美咲は変わることなく元の世界に帰りたかった。この世界に適応していけばいくほど、元の世界に戻った時には異物にしかならないことを理解していたから、本当なら、戦いだってしたくなかった。
けれど、それではこの世界で得た大切な人たちを守れない。それを思い知らされたから、美咲は戻った後のことはあえて考えないようにして、ただ強くなろうと努力している。
「私に言わせればまだまだだね。言っておくけど、美咲が経験した悲劇なんて、このご時勢いくらでもその辺りに転がってる。辛い目に遭っても、悲しい思いをしても、鼻で笑って前に進むのが一人前の証さ」
美咲には、アリシャの言うことが納得できなかった。
言いたいことは何となく分かる。ミーヤが両親と生き別れてしまったように、誰もが大なり小なり大切な人との予期せぬ別れを経験している。美咲が経験したことなど、それらに比べれば、確かに不幸の範疇には入らないのかもしれない。
でもそれでも、つらいものはつらい。悲しいことは悲しい。
頭では分かっていても、実際に経験すると、その重みに潰されそうになる。そうして思うのだ。どうして自分だけがこんな目に、と。
(運が、悪かったのかな)
元々がただの高校生だった美咲には、特別な力など無い。一応魔法の影響を受けない、という異能があるが、それは美咲でなくともこの世界に召喚された時点で誰にでもつくものだ。何も特別なことではない。
実際、美咲に求められたのは、異世界人としての特質だけだった。
きっと、本来召喚されるはずの人間なら、他にも多くのものを期待されていたのだろう。
けれど、美咲は傍から見てもはっきりと分かるほど、弱い。武術の心得など無く、立ち居振る舞いはまるっきり素人のそれなのだ。見る者が見ればすぐに分かることだから、そのことはすぐに知れたに違いない。
魔法を打ち消す、その点を除いて美咲に特筆できる特技など無い。
だから、呼び出されたのが美咲であったことにも意味はない。魔王にとってはきっと誰でも良かったのだ。美咲でなくとも、戦いとは無縁の無力な人間であれば。
それでも、王子は美咲の体質に賭けて美咲を送り出した。
魔族との戦いにおいて、その体質はあまりにも大きなアドバンテージなのだ。それこそ、窮地に陥った人類が望みを賭けるほどの。
「精神修養が足りないってことですか。むう」
肉体的には少しはマシになってきたと自信を深めていた美咲は、天狗になってはいけないと気持ちを引き締める。初心に帰るのだ。
「滝にでも打たれるべきですかね」
「どうしてそうなったのかは分からんが、風邪引くなよ」
修行には滝。元の世界ではそこそこ有名な話のはずなのだが、この世界の人間であるアリシャには伝わらないことに、美咲はため息をついた。