十二日目:初めての負傷8
風のせせらぎ亭の受付で今日の宿泊代金を支払うと、美咲はミーヤを連れて部屋に向かう。アリシャとは元々別の部屋だが、ミーヤは宿に泊まる金すら持っていなかったので、必然的に美咲と同室になっていた。
ミーヤの手を引きながら、美咲は財布代わりの巾着の中身を思い出し、ため息をつく。
(もういくらも余裕がないから、そろそろ稼がないと)
美咲が今使っている巾着は、元々エルナが持っていたものだ。美咲の荷物は早々に盗まれてしまったし、エルナ自身も死んでしまった。故人の遺物をネコババするのは気が咎めるが、背に腹は変えられないので、美咲はエルナの荷物を使って旅をしてきた。
旅を見越してか、エルナの財布には元々それなりの額が入っていたものの、盗まれた美咲の荷物に入っていた分に比べると少ない。今ではほとんど使い切ってしまっている。
具体的には、もう明日以降の食事代が無い。幸い宿屋の代金は十日分支払っているので、まだ三日は泊まれるが、さすがに食事を抜きたくはないし、お風呂に入るのは無理だとしても、せめて街にいる時くらいは毎日身体を拭くためのお湯だって借りたい。
そのためには、明日はミーヤの魔物使いの笛で魔物を手懐けに行くつもりだが、ついでに冒険者ギルドで依頼を受ける必要があるだろう。
どこで魔物を狩るかも重要だ。魔物の生息地で真っ先に思い浮かぶのは今日アリシャに連れて行ってもらった森だけれど、あそこはただでさえ美咲一人でも苦労するのに、ミーヤまで連れて入るのは危険すぎる。別の場所がいい。
(他に魔物が出てきそうなところって、何処だろう)
美咲とて、魔物の生息地には詳しいわけではない。むしろ知らないことの方が圧倒的に多い。何しろ美咲はこの世界にとっては異邦人だ。美咲が会ったことがあるのはゴブリンにゲオルベルくらいで、他のモンスターについては全く知識が無い。
(そういえば、あの薬草の群生地には、はぐれ魔物が出ることがあるって、前にルアンが話してくれたっけ)
森などに生息している魔物と比べると、はぐれ魔物は単独で行動している分狩りやすい。
かといって安全というわけではなく、はぐれ魔物は大抵旅人などを襲って人肉の味を覚えている個体が多く、人間を見かければ食料と見なして積極的に襲ってくる。森ではゲオルベルの群れが襲ってきたのは最後の最後だったが、はぐれ魔物でゲオルベルがいれば、補足次第襲い掛かってくるだろう。
(……明日はクエストを受けて薬草の群生地に行こうかな。採集クエストにしては実入りがいいし、はぐれ魔物とも会えるかもしれないし)
そこまで考えた美咲は、ルアンのことを考えて気が重くなる。
(連絡、いつ来るんだろ)
ルアンの母親にルアンの死を伝えて、もう二日になる。葬式の日程はまだ決まっていないらしく、未だに音沙汰はない。
直接ルアンの死に様を見たわけではないから、もしかしたら生きている可能性もあるかもしれない。あるいはその可能性を探っているのだろうか。
(ゴブリンの洞窟に行ってみるのもいいかも)
考えた美咲は、ルアンの消息を確かめるついでにゴブリンの洞窟で魔物を探すのもいいかもしれないと思い立つ。
以前はゴブリンが居たからか魔物のまの字も見当たらなかったが、今はゴブリンは洞窟を捨ててヴェリートの街に篭っているので、洞窟には野生の魔物が入り込んでいる可能性が高い。もしかすると巣を作ってそこで暮らしている魔物もいるかもしれない。
どちらがいいか美咲は考える。
魔物に会える確立は、ゴブリンの洞窟の方が高そうだ。
何しろ薬草の群生地は薬草の需要が増した今、大人気の採集スポットになっている。はぐれ魔物が現れてもたちまち退治されてしまうだろうし、そもそもはぐれ魔物も不利を感じて近付こうとは思わない可能性が高い。
それに比べて、ゴブリンの洞窟は洞窟という性質上隠れる場所が多く、回りは草木が茂っており、またあそこでゴブリンが集団生活をしていた事実を鑑みると、ゴブリンの群れを維持できる程度には食料になるものが多いことが伺える。洞窟の周りは緑が豊かだったから草食の魔物なら住み着くだろうし、それを狙って肉食の魔物も寄ってくるだろう。
どちからといえば、ゴブリンの洞窟の方が魔物に出会える可能性は高そうだ。
何より、ゴブリンの洞窟なら地図がある。
(元気かな、グモ。今どこに居るんだろ)
地図を描いてくれたゴブリンのことを思い出して、美咲の顔が綻んだ。
ゴブリンも立派な魔物の一種だ。もしかしたら、彼なら魔物使いの笛を使うまでもなく、ミーヤを守ってくれるかもしれない。
もっとも、何処にいるか分からないのでどうしようもないのだが。
(……薬草の群生地とは違って、ゴブリンの洞窟は馬車じゃないと遠いんだよね。まずは徒歩で行ける薬草の群生地に行ってみて、駄目だったらアリシャさんを説き伏せてゴブリンの洞窟に連れて行ってもらおうかな)
明日の予定を立てた美咲は、ほっと一息ついて装備を外し、椅子に座って寛ぐ。一人部屋なので椅子は一つしかなく、ミーヤはベッドに座った。
「今日もちゃんとしたお部屋で寝れるね。ご飯も食べれるし、幸せー」
宿屋のベッドは羊毛布団や綿布団ではなく、藁の上にシーツを被せた藁布団でお世辞にも寝心地がいいとは言えないが、それでも野宿よりかは雲泥の差だ。
そのことを二週間足らずの経験でよく知っている美咲は、ミーヤの何気ない言葉に胸を打たれた。
ミーヤのような子どもですら、その日の食事に困るような暮らしを送らざるを得ない。美咲が知る世界では考えもつかないことである。他の国ならまだしも、美咲が住んでいた日本では、間違いなく少数派だろう。少なくとも、美咲は元の世界でそんな話を聞いたことはない。
「それはそうとしてお姉ちゃん、明日は何するの?」
無邪気な笑顔でミーヤが美咲に尋ねてくる。
先ほど立てた予定を思い浮かべながら美咲は答えた。
「アリシャさんにも確認しなきゃ確定できないけど、明日は冒険者ギルドで依頼を受けてお金稼ぎしつつ、ミーヤちゃんの魔物探しかな。朝早くなると思うから、早く寝ようね」
「はーい」
美咲が言うまでもなく、この世界の人間の就寝は、美咲の知る常識に比べてもかなり早い。
何しろ明かりを灯す手段が限られているので、日が暮れればできることはほとんどなくなり、それこそ寝るくらいになる。
明かりの燃料も限られているので、よほどのことがない限り、日が沈めば一部の店や宿屋を除いて店は閉まり、人々は寝る準備を始める。そして、日の出とともに起きるのだ。
最初のうちは美咲もこの生活リズムに慣れなかったが、今ではかなり慣れてきている。何しろ元の世界で暮らしていた頃に比べると、毎日とても体力を使うので、自然とぐっすり眠れてしまうのだ。
あまり美味しくないものでも、不味いとは思いながらも空腹のおかげで残すことも無くぺろりと平らげてしまう。美咲自身驚く思いだが、以前とは比べ物にならない。
荷物から歯ブラシを取り出した美咲は、ミーヤと連れ立って部屋を出る。トイレの隣に、洗面台と水が入った水瓶があるのだ。それに歯ブラシとはいっても、植物の繊維を一本一本裂いて作られている高級品である。
高級品の歯ブラシというわけではなくて、歯ブラシそのものが高級品なのだ。現に、ミーヤが持っているのは小さな木の棒に布を巻きつけたもので、とてもではないが歯ブラシには見えない。擦れればそれでいいのかもしれないが、とても磨きにくそうである。それにあれでは表面しか磨けないだろう。
(そういえば、荷物に予備があったっけ。あれ一本あげようかな)
途中で使い潰すことを想定していたのか、エルナの歯ブラシは一本ではなく、何本か用意されていた。
いったん引き返して部屋で歯ブラシを取って戻ってくると、ミーヤがきょとんとした顔を美咲に向けた。
「お姉ちゃん、忘れ物?」
「これを、ミーヤちゃんにあげようと思って。こっちの方が磨きやすいよ」
何気なくぽんと渡された歯ブラシを見て、ミーヤは目を剥いた。
「こんな高価なもの、もらえないよ!」
やはり、この世界において歯ブラシは高級品らしい。予想していなかったわけではないので、美咲とて驚きはしない。
「いいからいいから。こうやって、隅々まで磨いた方がいいよ。虫歯になったら大変だから」
美咲はミーヤに歯ブラシの使い方を教える。
何しろ美咲自身も、虫歯になったら大変なことになる身だ。何しろ、削って詰め物をするための機械や技術がこの世界にあるとは思えない。
「こ、こう?」
ミーヤも虫歯は嫌なのか、美咲の見よう見まねで歯を磨き始めた。
「そうそう、そんな感じ。上手いよ、ミーヤちゃん」
「むっふっふー」
褒められたミーヤが得意げな顔になった。
歯磨きを済ませ、うがいをする。
ペッと洗面台に水を吐き出し、口を濯いだ。
上水道は無いようだが下水道はどうなっているのだろうか。
そんなことを考える美咲だった。
■ □ ■
歯磨きを終えて部屋に戻ると、本格的にやることが無くなった。
外はすっかり暗く、喧騒に満ちていた昼間に比べ、とても静かだ。
ミーヤも眠いのか、時折うつらうつらしては目を擦っている。
(寝る前に、アリシャさんに明日馬車でゴブリンの洞窟に連れて行ってもらえるか聞いてみよう)
思い立った美咲は、美咲が立ち上がるのを見て起きようとするミーヤをジェスチャーで押し止める。
「お姉ちゃん、何処行くの……?」
問いかけるミーヤの声には隠し切れない不安が滲んでいる。
「ちょっとアリシャさんのところに行ってくるだけだから、そのまま寝てていいよ」
「ううん、ミーヤも行く」
ついていくとミーヤが言い張るので、美咲は仕方なくミーヤを連れて行くことにした。まあ気持ちは分かるし、元の世界では美咲だって夜更かしはよくしていた。ミーヤはまだ幼いが、少しだけなら構うまい。
「そう。じゃあ、おいで」
「……うん!」
差し出した手を、ミーヤが嬉しそうに顔を綻ばせて掴んだ。
少女である美咲と比べても、まだミーヤの手は小さい。
連れ立って部屋を出た美咲とミーヤは、アリシャが泊まっている部屋へ向かう。
宿泊の手続きは別々のタイミングだったので、アリシャの部屋は少し遠い。
風のせせらぎ亭は一階が酒場で二階が宿屋になっており、部屋は廊下を挟んで両側に等間隔に並んでいる。風呂は無く、トイレは共同だ。美咲の感覚ではどうしても不便を感じてしまうが、この世界ではこれでもマシな方だった。
右手に三部屋進んだ向かい側が、アリシャの部屋だ。
「まだ起きてますか……?」
ノックしてから、小さな声で問いかけると、しばらくしてアリシャがドアを開けて顔を出した。
「何だ、こんな夜更けに。まあ、入りな」
アリシャはさすがに武装はもう解いていて、シャツにズボンというラフな服装になっていた。意外と胸が大きく、はちきれんばかりにシャツを押し上げている。
「でかい」
「入るなり君は何を言ってるんだ」
ぽろりと漏れた美咲の一言を聞いて、アリシャは呆れた顔をする。
思わず美咲が目を剥くほどの大きさだが、そもそもが美咲が見上げるような長身で、男顔負けに筋肉質な肉体のアリシャの胸なので、案外違和感がなく、全体的なシルエットは女性として綺麗に収まっている。
「とりあえず、ベッドにでも座って。眠れないなら何か飲むかい?」
別に眠れないからアリシャの部屋に来たわけではなかったが、好意に甘えて美咲は飲み物をいただくことにした。
「お願いします」
「ミーヤも欲しい!」
「はいはい。少し待ってな」
自分の荷物を漁ったアリシャは、木のカップを三つとビンを取り出してテーブルに並べる。
半透明のビンの中には、赤い果実で作られたらしきジュースがなみなみと入っていた。
ビンの栓を開けたアリシャは、三つのカップにジュースを注ぐ。
「わあ、ピエラジュースだ! 飲んでいいの?」
ジュースに気付いたミーヤの声が弾んだ。
「構わないよ。どうせ明日には開けるつもりだったんだ。何しろ酒と違って持たないからね」
「わーい!」
喜び勇んでミーヤがカップを手に取った。
「すみません、私の分まで……」
恐縮しながら美咲もカップを手に取る。なんだかんだいって美咲だってジュースは好きだ。それにピエラジュースなら飲んだことがあるので、そうと知らずに変なものを飲む危険もない。
「で、何の用だい?」
ちびりちびりとジュースを飲みながら、アリシャが美咲に尋ねた。
「あの、明日のことなんですけど、もし予定がまだ決まってなければ、私たちをゴブリンの洞窟に連れて行ってくれませんか?」
本題を伝えた美咲は、ジュースを一口飲んで答えを待つ。
(あ、美味しい)
気を紛らわせるために飲んだだけだったが、思いの他美味に感じ、美咲はもう一口ジュースを口にした。
甘みと酸味のバランスが絶妙で、実に瑞々しい。甘みの後に、さっぱりとした酸味が喉に抜け、甘いのに甘ったるさを感じさせない。
「すまないが、明日は私も予定があるんだ」
「……そうなの?」
返答を聞いたミーヤががっかりした顔になった。
「傭兵として仕事してた昔の仲間で、今じゃ冒険者になってる奴がいてね。そいつから指名が来てるのさ。大掛かりな依頼を受けてるらしくて、昔の好で手伝いに行くつもりなんだ」
「そうなんですか。なら、仕方ないですね。お仕事頑張ってください」
「悪いね。その代わり明日は美咲たちは一日オフにしてやるつもりだったから、休日を楽しむといい。二人で遊んできな。あ、小遣いもあげようか。ミーヤもいるしな」
「え、お小遣いくれるの!? やった!」
ミーヤが目を輝かせるが、美咲は微妙な顔になった。
相変わらず、アリシャは美咲もミーヤも人くくりにして子ども扱いしている。
「ほら。これだけあればいいだろ」
巾着から大銀貨を一枚取り出したアリシャは、何気ない動作でそれを美咲に放った。
思わず手を伸ばして受け取った美咲は、手のひらの大銀貨を見て目を見開く。
「こ、こんなに!? 良いんですか?」
「二人分だし、構わんさ。それに戦争の影響で物価が上がってるんだ。それくらい無いと楽しめないと思うよ。明日の依頼は報酬が破格だから、金に関しては気にしてない。これもはした金さ」
日本円に換算して約十万円をはした金と言い切ったアリシャに、美咲はアリシャがケチなのか気前がいいのか良く分からなくなった。普段はケチなのだが、ちょくちょくこんな風に、アリシャは妙に気前が良くなるのだ。
(……まあ、悪い気はしないよね)
ミーヤと二人で分けても、一人五レドである。これだけの大金があれば、美咲とミーヤだけでも何とかゴブリンの洞窟まで行けるかもしれない。
「用はこれだけかい? なら早く寝な。夜更かしして寝坊するんじゃないよ」
(私、そこまで子どもじゃない)
まるで母親のような小言を貰い、心中密かに美咲は剥れる。
結局、美咲とミーヤはピエラジュースを飲んで部屋に戻った。
怪我のことも忘れてぐっすりと寝た。