十二日目:初めての負傷6
ミーヤは馬車の中で水瓶の傍に蹲っていた。
水瓶の近くに水桶が置かれているが、水を汲んだ様子はない。
「あ……お姉ちゃん」
隣に座り込んだ美咲に気がついたミーヤは顔を上げ、一瞬嬉しそうな顔をしたが、すぐに俯いてしまう。
「お姉ちゃんも、ミーヤを置いてくの?」
俯きながらも、ミーヤが美咲を気にしていることを、美咲はミーヤの態度で感じ取った。
小さな手が、美咲の服の袖を恐る恐る掴んでいる。
「置いていきたくないよ。でも、危険なの。私についていったら、命を落とすかもしれないくらいに」
美咲はミーヤの体に手を回し、片手でそっと抱き寄せた。
不安げな表情で、ミーヤは美咲を見上げる。
「どうして……?」
微笑んだ美咲は、ルアンに貰った鎖帷子を脱ぐと、上半身をはだけた。
今でも見慣れない、異様な文様が刻み込まれた自分の身体。
目にするたびに違和感と、魔王に対する怒りが込み上げずにはいられない。
「これ、前も見せたことあったよね。実は、お呪いなんかじゃないの。何か分かる?」
「分からない。けど、なんだか怖い……」
文様を見たミーヤの服の袖を掴む手は、得体の知れないものを見た恐怖からか白くなるほど力が篭められている。
「死出の呪刻って言うんだって。これを刻まれると、三十日後に死んじゃうらしいよ。解く手段は、これを刻んだ術者を殺すしかない。でね、笑っちゃうことに、これを刻んだのは魔王なのよ」
ミーヤの目が見開かれた。
「何で、魔王がお姉ちゃんにそんなことをするの……?」
疑問はもっともだ。
事情を知らない人間から見れば、美咲はただの小娘に過ぎない。多少品があるように見えようが、育ちが良さそうに見えようが、魔王と因縁を持つような人間には見えないだろう。
本人ですらそう思うのだから、ミーヤが訝しがるのは当然だ。
美咲は魔族語を唱え、指先に小さな火を灯した。
召喚されたばかりの頃は、こんな些細なことすらできなかった。本当に、鍛えてくれたアリシャには頭が上がらない。
「私ね、魔法が効かない体質なのよ。ほら、見てて」
指先の小さな火を、美咲はもう片方の手に近付けた。
揺らめく炎が、手の甲に燃え移り、美咲の肌を焼いていく。
少しずつ燃え広がっていく火を、美咲は凪いだ瞳で見つめている。
「お姉ちゃん、手が……!」
「大丈夫。見た目だけだから。ほら、肉や脂が燃える臭いはしないでしょ?」
片手が燃えているというのに、美咲は冷静に水桶に水を汲み、手を入れる。
手を引き上げると火は消えていて、手には火傷一つ無い。
「燃えているように見えても、形だけなの。それが魔法で生み出された現象である限り、私を傷付けることはない。まあ、死出の呪刻みたいな、物理的な方法で肌に刻むことで、効果が発動するものは無理みたいだけど」
水に濡れた美咲の手を、ミーヤは目をまん丸に見開いて凝視している。
「多分、魔王は私の体質を危険視したんだと思う。魔族の戦闘力は、その大部分を魔法に依存してるらしいから。魔王と戦えば、私の頑張り次第では魔王を殺せるかもしれない。だから私の旅の目的は、魔王を倒すために魔王城に行くことなの。こんな危険な旅に、ミーヤちゃんを巻き込むわけにはいかない。それでも、ミーヤちゃんは私についていきたいの?」
ミーヤは口を開いたが、言葉は声にならなかった。
何度も何かを言おうとして、何も言えずに黙り込む。
美咲を見るミーヤの目は不安と恐怖で揺れていた。
当然だと美咲は思う。美咲だって怖いし、他に方法がないから仕方なく行くのだ。本心を言えば、誰かについてきて欲しい。けれど、美咲が魔王を倒すのは、どんなに心地よい言葉で言い繕ったって、最終的にはあくまで自分のためだ。色んな人の願いを背負うようになっても、それだけは変わらない。誰かのためじゃない。そんな利己的な理由による目的のために、誰かを巻き込むべきじゃない。
好き好んで死地に赴く人間なんていない。いるとしたら、もはやそれは狂人だ。正常な判断の結果だとは思えない。
思い留まって欲しいとすら美咲は思っていた。
「……アリシャは、お姉ちゃんについていってくれるの?」
尋ねるミーヤの視線が彷徨い、包帯が巻かれた美咲の左腕に止まった。
ゲオルベルとの一騎討ちで負傷した美咲の左腕の怪我は、決して浅いものではない。
アリシャが調合してくれた薬のおかげで熱こそ下がっているものの、傷口はまだ塞がり切っておらず、巻いた包帯には少量の血が滲んでいる。
質問に対し、静かに美咲が首を横に振った。
「ううん。ヴェリートの奪還までは付き合ってくれるかもしれないけど、そこから先は私一人。同行してくれる人もいないわけじゃなかったんだけどね。色々あって、私だけになっちゃった」
泣きそうな顔で、ミーヤは唇を引き結び、顔を上げた。
「じゃあ、行く。意気地なしのアリシャの代わりに、ミーヤがお姉ちゃんについていく」
「……そんなの、駄目だよ」
「絶対行く。だって、置いていかれる方が、ミーヤは嫌だから。痛くても、苦しくても、ミーヤは最後までお姉ちゃんと一緒に居る。……ねえ、お姉ちゃん。ミーヤがいると、迷惑?」
断られるのを恐れているのだろうか。
不安げな表情で、ミーヤは美咲を見上げた。
己を見上げるミーヤを見て、美咲の唇が歪んだ。
ついてきて欲しくはなかった。けれど、独りで向かうのが恐ろしかったのも、確かなのだ。
嬉しいような、悲しいような、言葉にできない複雑な気持ちだった。
「迷惑なんかじゃない。駄目なのは私の方だよ。断らなきゃいけないのに、断れない。だって、嬉しいんだもの。ごめんね。ありがとう。一緒についていくって言ってくれて」
「……お姉ちゃん」
ミーヤが恐る恐る、美咲の顔に手を伸ばす。
嗚咽を堪えて、美咲は静かに泣いていた。
「これ、使って。アリシャさんから貰ったの。魔物使いの笛っていって、魔物を手懐けられるんだって。明日はこれで魔物を手懐けに行こう。そうすれば、ミーヤちゃんも最低限自分で身を守れるようになると思うから」
「うん。頑張る。ミーヤ、頑張るから」
渡された魔物使いの笛を、ミーヤは胸元で握り締める。
見詰め合った美咲とミーヤは、やがてどちらともなく笑い合った。
「そろそろ、戻ろうか。アリシャさんの手伝いしないと。食器を持ってくるのも頼まれてたんだった」
「……そういえば、ミーヤ、すっかり水汲みのこと忘れてた」
二人で水桶に水を汲み、木箱から食器を探して持ち出した美咲とミーヤは、馬車を出てアリシャの下へと戻った。
■ □ ■
美咲とミーヤがアリシャのところに戻る頃には、すでにこの日の夕飯は、アリシャによってあらかた形になっていた。
竈の上で、ぐつぐつと鍋の中身が煮えている。アリシャが蓋を持ち上げると、もわっとした湯気とともに食欲をそそる良い匂いが立ち込める。
「うわぁ、美味しそう」
目を輝かせて、ミーヤは今にもよだれをたらさんばかりの表情で鍋の中身を見つめている。
ミーヤの視線を受けて、アリシャが苦笑した。
「そう物欲しそうな顔をするな。今よそってやるから」
三人分の木の器に、アリシャが順番に鍋の中身をよそっていく。
「ほら、美咲の分だ。熱いから注意して食えよ」
差し出された器を、美咲は呆然として受け取る。自然と目が器の中身に吸い寄せられていた。
色にさえ目を瞑れば、美咲の知る米とこのプルーネという穀物は、似通っている。
「美味しい! これ美味しいね、アリシャ!」
「だろ? 今日は自分でも中々上手くできたと思ってるんだ」
竈の傍に座り込んで火で暖を取り、さっそくふうふうしながら食べ始めたミーヤが、顔を綻ばせてアリシャと話している。会話をしているアリシャも、賞賛されてまんざらではなさそうだ。
料理の見た目は、リゾットとお粥を足して二で割ったような感じだ。炒めた肉と野菜と一緒にスープで煮込んでいるから、雑炊に近いかもしれない。でも、米を炊くんじゃなくてそのまま入れて煮込んでたみたいだから、やっぱりリゾットが近いのか。
(……どっちでもいいか。いただきます)
使い慣れた言葉を心の中で転がして、美咲は木の匙で掬ってプルーネの雑炊を一口食べる。野菜や肉のうまみが溶け出したスープに、塩味のしょっぱさがちょうど良い塩梅になっていてとても美味しい。それに、プルーネを噛むとほのかに甘く、優しいご飯の味がする。
どこか、母親の手料理を彷彿とさせる味だった。
「うわっ、どうした!? もしかして、口に合わなかったか!?」
堪らず泣き出した美咲を、ぎょっとした顔でアリシャが見た。
「すみません。懐かしい味だと思ったら、急に涙が止まらなくなっちゃって。すぐ泣き止みますから。ごめんなさい、食事時に」
美咲は慌てて自分の目を擦る。いくら擦っても、一度緩んだ涙腺はなかなか締まってくれない。
アリシャの傍にいたミーヤが立ち上がり、美咲の傍に移動して腰を下ろした。
息を吹きかけて冷ましつつ一口雑炊を頬張ると、ミーヤはぽつりと言った。
「ミーヤも串焼きを食べてる時、お姉ちゃんみたいに急に泣いちゃう時あるんだ。帰りたくて、戻りたくて、出来ないって分かってるのに、どうしようもなくて。お姉ちゃんにとっては、これがそうなんだね」
はっとした顔で、美咲はミーヤを見る。
正に、その通りだった。
懐かしい味に触発されて、美咲は色々なことを思い出してしまった。
理不尽な現実に立ち向かうために、無意識に心の奥底に閉じ込めていた思い出たち。
例えば、母親はいつも夕飯が鍋の日は、次の日に雑炊を作ってくれていた。鍋の具材のうまみが溶け込んだスープがご飯に染み込んで、とても美味しかったのを覚えている。なのに、年頃の乙女らしく太ることを気にした美咲は、いつも文句を言って途中で残し、母親を残念がらせていた。
こんなことになるなら、もっとたくさん食べておけば良かったと美咲は思う。美味しい、ありがとうって、いっぱい言っておけば、母親を喜ばせることもできだだろうに。
どうしようもなくなってから、初めてその大切さに気付くのだ。
泣きじゃくる美咲の背を、ミーヤがぽんぽんとあやすように叩いた。
その様子を見て、雑炊を食べながらアリシャがぽつりと呟く。
「故郷、か……」
どこか寂しげな呟きは、竈の火がはぜる音に紛れ、二人には聞こえなかった。