十二日目:初めての負傷1
激しい音とともに雨粒が馬車の幌を叩いているのを、美咲は茫洋とした意識で聞いていた。
手当てはしてもらったものの、腕の痛みは一向に引かない。当たり前だ。ライオンのように大きな魔物に噛み付かれたのである。相応に傷口は大きく、完治するのには時間が掛かる。おそらく、期間内には治らないだろう。美咲はこの先、腕の負傷を抱えて戦わなければならない。
不幸中の幸いだったのは、負傷したのは左腕で、利き腕ではなかったことか。幸い勇者の剣は軽いので、片手で振るうことには支障が無い。
御者席からうんざりしたアリシャの声がした。
「雨脚が強過ぎるな。霧も出てきたし、少し待とう。ミーヤ、幌を広げるから手伝ってくれ」
「やだ。アリシャが一人でやれば?」
ミーヤは美咲が怪我をした時にアリシャが助けなかったことを、未だに根に持っているらしい。
つーんとそっぽを向くミーヤに、御者席のアリシャは苦い顔をした。
「悪かったよ。私が助けることで、美咲が私に依存するようになっちまったらその方がまずいと思ったんだ。実際、今もその気はあるしな」
結局ゲオルベルの群れのほとんどはアリシャが始末したのだ。美咲が相手をしたのは一匹だけである。それで苦戦した挙句に大怪我を負ったのだから、事情を知るアリシャに言わせれば、美咲の前途は多難もいいところであった。
「とにかく手伝ってくれ。ワルナークを雨から守ってやらなきゃ。ワルナークが体調を崩したら、私たちがラーダンに帰れなくなるぞ」
「あの……手伝います」
「ミーヤがする」
見かねて立とうとした美咲を制してミーヤが立ち上がり、御者席に出て行く。
見送った美咲は、苦笑してふらふらと木箱を背に座り込んだ。
(さっきは、やらないって言ってたのに)
ふう、と美咲は重たげなため息をつく。
(なんだか、身体がだるいな……)
左腕の手当てをして気分は少しマシになったものの、断続的に鋭い痛みを発し続けていて、美咲が休もうと思っても邪魔をする。
大雨が降っている上に怪我をしているせいか、馬車の中で一人になった途端、美咲は落ち込んだ。
(早く治るかなぁ)
包帯が巻かれた左腕を見て、美咲は眉根を寄せた。
怪我をしたのは痛手だった。未熟さを痛感する。
(しかも、私の怪我のせいでアリシャさんとミーヤちゃんの仲が悪くなってるし……)
どちらも美咲のことを思って行動した結果なのがややこしい。
美咲としては、いつもでもアリシャに頼っているばかりでは強くなれないことは分かっているので、アリシャに文句を言うつもりは毛頭ないのだ。なんだかんだ助けてもらっているのだし。
しばらくすると、馬車の中にアリシャとミーヤが戻ってきた。どちらもずぶ濡れだ。
「すまないが、そこの木箱に身体拭き用の布が入っているから取ってくれないか。このままだと風邪を引いちまう」
アリシャが馬車の中の木箱の一つを指差した。
ぐっしょりと濡れたアリシャとミーヤは髪や服から水滴を滴らせていて、歩いてその水滴が辺りに飛び散ることを懸念しているのだろう。
左腕を心持ち庇いながら、美咲は言われるままに木箱を漁り、バスタオルのような大きさの布を二枚アリシャに手渡す。身体はだるいが、これくらいのことは美咲にもまだできる。
身体の水分を布で入念に拭き取ったアリシャとミーヤは、それぞれ替えの服を引っ張り出して着替え始める。
「ふう。やっと人心地ついた」
雨に濡れた服を空いている木箱に放り込むと、アリシャは美咲の隣にどっかりと座り込む。アリシャに対抗するように、着替えてとことこと近寄ってきたミーヤが反対側の隣に座り込んだ。
「お姉ちゃん、具合はどう?」
小さいミーヤは、美咲を見上げ、心配そうな顔で美咲の左腕に視線を移した。
「大丈夫だよ。でも、ちょっと身体がだるいかな」
微笑む美咲の顔色は少し赤い。
顔色を敏感に見て取ったアリシャが、何気なく美咲の額に手を当てる。
「ちょっと熱があるな」
鍛錬の結果か、肉刺やそれが潰れて硬質化しているアリシャの手のひらはごつごつとしていてがさついている。だが、先ほどまで濡れていたアリシャの手はひんやりと冷たく、美咲にはその冷たさが気持ちよかった。
「待ってろ。今毛布を出してやる」
立ち上がったアリシャが、木箱を漁って毛布を三枚抱えて戻ってくる。
一枚を美咲に、もう一枚をミーヤに渡すと、自分も毛布に包まった。
ぬくもりに、美咲は少しホッとする。
「……あったかいです」
「雨で、しかも霧まで出てるとなると、昼間でもかなり寒くなる。あると無いとじゃ大違いさ」
会話する美咲とアリシャの横で、毛布に包まったミーヤがあくびをした。
「なんだか、ミーヤ、眠くなっちゃった……」
「寝てていいぞ。美咲も無理せず休め。雨が止んだら起こしてやるから」
「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいますね」
疲れていた美咲は、アリシャの申し出を有り難く受けることにして、ミーヤと一緒に馬車の床に毛布に包まったまま横になる。
枕なんてないし、板張りの馬車の床は固くで寝辛い。
それでも疲労のせいか、腕の痛みを感じつつも、外の雨音を聞きながら、美咲は少しずつ意識をどこかに飛ばしていく。
美咲は睡魔に抗わず、波のように押し寄せる眠りに身を任せた。
■ □ ■
目覚めた瞬間、鐘ががんがん鳴り響くかのような頭痛に、美咲は顔を顰めた。
「……何これ。凄く、頭が痛い」
額に手を当てれば、美咲自身でも分かるほど、はっきりと異常な熱を帯びていた。どうやら本格的に熱が出たようだ。
外はまだ雨が降っているようで雨粒が幌や地面を叩く音が耳に入ってくる。音の大きさを見る限り、眠る前と雨脚の強さはあまり変わっていない。
(今何時かな……)
懐の砂時計を手にとって、美咲は時間を計り始める。
怪我をしたせいか、うっかり時間を確認するのを今まで忘れていた。
空白の時間があるから正確な時間は分からないが、何もしないよりはマシだろう。
ふと膝に重みを感じた。
目をやると、美咲の膝を枕にして、毛布に包まったミーヤが寝ていた。
眠る前は隣とはいえ別々に寝ていたはずだったが、気付いたらいつの間にかこうなっていた。
幼いミーヤを起こすのも忍びないので、美咲は微笑んで、はだけかけたミーヤの毛布を首元まで引き上げてやる。
(……あれ? アリシャさんは?)
ふと気付いた美咲は馬車の中を見回す。
馬車の中は美咲とミーヤの他には誰もおらず、アリシャの姿が無い。毛布ごと無いので、毛布に包まったまま外にでも出たのだろうか。
確認したいが、立ち上がるには美咲の体調が少しばかり悪かった。
それに、よく寝ているミーヤを起こすのは忍びない。
迷っていると、御者席側の扉が開き、アリシャが馬車の中に戻ってきた。どうやら本当に外にいたらしい。
「起きたのか。まだ寝てていいぞ。雨は当分止みそうにない」
「……何してたんです?」
「ん? ああ、外の様子見と、ワルナークの世話をしにちょっとな。雨に濡れるのは防いでやれるが、寒風はどうにもならないから、しっかり飼い葉だけじゃなくて肉も食べさせて体力をつけてやらないと」
アリシャは手に持った木箱を掲げてみせた。どうやらワルナークに餌をやっていたらしい。
「雨、まだ止みませんか?」
「土砂降りだな。まあ、止んでも霧が晴れるまでは待機だが。そっちの体調はどうだ?」
聞き返され、美咲は苦笑いをする。
「なんとも無い、と言いたいところですが、熱が出てるせいか身体が凄くだるいです。頭も痛いですし」
「まあ、結構傷が深かったから仕方ないな。どれ、少し待ってろ。今熱冷ましを調合してやる。楽になるぞ。とても不味いが」
アリシャは木箱から何かの薬草らしき草の束を取り出すと、すり鉢でそれをすり潰し始める。
ごりごりと大きめな音がするが、寝ているミーヤは深く寝入っているのか起きる様子が無い。
すり鉢の中の薬草が原型を止めなくなるほどすり潰したアリシャは、次に黒い良く分からないものをすり鉢に投入した。
思わず美咲は目をこすった。
(なんか、今の、手足が生えてたような……)
美咲は自分の見間違いであることを願った。
黒い正体不明な手足つきの物体も完全にすり潰すと、アリシャはすり鉢に少量の水を加え、出来上がったものを木のカップに注ぎいれる。
「ほら、飲め」
手渡されたカップを受け取った美咲は、つい好奇心に負けて中身を確認してしまった。
なんてことはない、ただの青汁を十倍濃くしたような濃緑色でどろどろした液体である。
カップからは、すり潰された薬草の、ドクダミのような独特なえぐい臭いに混じって、なんだか良く分からないけどやっぱり臭い正体不明の臭いがした。
「……ええっと。これを、飲めと?」
「ああ。ほら、覚悟を決めてぐいっと飲め」
どうしてたかが熱冷ましの薬で覚悟を決めろと言われなければならないのか。
そこはかとなく美咲は不安になったが、まさかあのアリシャが薬と偽って変なものを飲ませはしないだろうと思い、決心を固める。
(うん、大丈夫大丈夫。全然大丈夫じゃない気もするけど、良薬は口に苦しっていうし、不味いならそれだけ効果があるはず。……あるよね?)
最後に少し不安が顔を覗かせたが、美咲は思い切ってカップの中身を呷った。ちびちび飲むと余計不味さを感じそうだったので、一気飲みである。
空になった木のカップが美咲の手から転がり落ちて、カラカラと音を立てた。
真っ赤だった美咲の顔色が、白くなり、青へと変色していく。
「……ぐふっ」
やがて無言でぶっ倒れた美咲に、「やっぱりな」という顔をしながら、アリシャは食料を詰めた木箱からピエラの果実を一つ取り出して、皮をむき始めた。
口直しにピエラの果実を一きれ放り込んでやると、どうやら意識はあるようで、美咲はもぐもぐと口を動かした。
「もう一つください」
「いいぞ。全部食え」
珍しく気前の良いアリシャからピエラの果実を譲ってもらった美咲は、鬼気迫る形相でもしゃもしゃ食べ終えると、深く息を吐いた。
「……想像を絶する不味さでした」
「その分良く効くのさ。ほら、終わったなら病人は寝た寝た。次に起きた頃にはそれなりに良くなってるはずだよ」
良くなってくれていないと、美咲としては倒れるほど不味い薬を飲んだ意味が無い。
美咲は毛布を被り直すと、再びミーヤに寄り添うように馬車の床に身を横たえた。
固い床の上は寝にくいが、それでも毛布があるだけマシである。
再び美咲は眠りの世界に旅立っていった。