十二日目:実戦訓練4
涙を浮かべて痛みに喘ぎながら、美咲は回りを見回した。
美咲は動けず武器も無く、無防備な状態だ。大した抵抗もできず、一瞬の後にはゲオルベルに左腕を噛み千切られるだろう。だがこの一瞬だけは、美咲は痛みさえ我慢すれば、戦いに神経を集中させる必要が無くなっていた。
何しろ、腕に噛み付かれているのだから、ゲオルベルは目と鼻の距離に居る。噛み付かれていなければ、呼吸の音さえ聞こえるだろう。今までのように大立ち回りする必要はなく、全ての意識を攻撃に回すことができる。
(考えろ、考えろ、考えろ……! この状況を、打破する方法……!)
ともすれば激痛で飛散しそうになる意識を繋ぎ止めながら、美咲は必死に頭を働かせた。
あまりの痛みで視界がスパークし、明滅している。危ない兆候だ。もう少しで美咲は気絶してしまうかもしれない。そうなれば、美咲はアリシャの期待に背くことになる。アリシャを落胆させることは出来ない。それに、美咲は強くなったのだ。それを、証明しなければならない。
(もう形振り構ってられない……! 大火力の魔法を、コイツに直接叩き込むしかない!)
とはいえ、美咲は魔法においてはまだ未熟だ。いや、他が特別成熟しているわけでもないのだけれど、それでも美咲が魔法一発でゲオルベルを仕留めるだけの威力を出すとなると、方法は限られる。生半可な魔法では仕留め切れず、美咲の腕の肉は喰い千切られるだろう。
そうなればもう、一日や二日休んでどうにかなるような怪我ではなくなる。残された期間を、美咲は寝込んで過ごすことになる。それは即ち、美咲の死を意味する。
必死で考えるものの、すぐには思い浮かばず、美咲の表情は歪み、涙と焦りで満ちていった。
(炎で焼き殺すのは!? ……駄目、万が一延焼したら、アリシャさんとミーヤちゃんを巻き込んじゃう! なら水は!? これも駄目、水で殺傷力を得られるほど、私は魔族語を知らない! 何か、何か他に無いの!?)
思い浮かんだ方法は、片っ端から美咲自身の理性によって否定されていく。
高火力の魔法は、威力に見合った広範囲になりがちだ。かつて戦争でルフィミアが魔族軍に放った炎魔法のように。
それを避けるためには、魔法の元となる自然現象をよく観察し、高火力狭範囲という、特別な条件を満たすものを見つけ出さなければならない。
いつの間にか晴天だった空には黒い雨雲がかかり、今にも雨が降り出しそうになっている。雷雲なのか、時折ゴロゴロという音がしていた。
倒れている美咲の目には、ゲオルベル越しに空模様が良く見えた。
思い立った瞬間、美咲は魔族語で叫んだ。
「オィケェアザァウトォイユゥ アゥチィ!」
腕に噛み付いているゲオルベル目掛け、一瞬の間で空から降り注いだ稲光が美咲諸共ゲオルベルを打ち据えた。
異世界人である美咲は何も感じないが、ゲオルベルはそうもいかない。上げた悲鳴すら落雷の轟音にかき消されたゲオルベルは身体を痙攣させ、体中から煙を噴出した。
数歩よろめくと、美咲の左腕をくわえ込んだままのゲオルベルは全身から力を抜いてくず折れた。それきり起き上がる気配はない。
美咲は浅い呼吸を繰り返しながら、震える手でゲオルベルの頭に手をかけて、左腕から牙を抜く。怖くて傷口を直視できない。
毛皮が無残に焼け焦げた死体に近付いたアリシャが、一瞥して首を横に振った。
「ぎりぎり及第点ってとこかね。天気を利用して雷を呼ぶ機転は良いが、威力が強過ぎる。土壇場でこれだけの威力を出せたのは褒めるべきところだけど、これじゃあ素材が何もとれない。怪我しただけで骨折り損のくたびれ儲けだ」
「……命があるだけでも僥倖ですよ。っていうか、左腕がものすごく痛いんですが、心配してくれないんですか?」
魔物との戦いに生き残ったことで命の有り難味を知った美咲は、いの一番に収入の心配をするアリシャに、喰い付かれた左腕を庇いながら不満げな顔をする。
その間にも、傷口からはだらだらと血が流れ落ちていた。その様子を直視してしまい、美咲の顔色が青褪め、震え出す。
「戦いに怪我は付き物だ。生きてて再起不能じゃなけりゃそれでいいさ。これから先、また怪我を負うこともあるだろう。対処法を学ぶ機会とでも思えばいい」
傭兵という常に命の危険に晒す職種についているからか、アリシャの考え方はひどくドライだった。
「お姉ちゃん、大丈夫!?」
慌てた様子でミーヤが飛びついてきた。
身体は小さくても、勢いがついているとそれなりに衝撃がある。美咲は腹にタックルを受けた形となり、「ぐぇっ」とうめき声を上げた。
左腕の傷を確認したミーヤが悲鳴を上げる。
「酷い怪我……。大変! 手当てしなきゃ!」
馬を繋いでいた綱を木から解きながらアリシャが言った。
「薬草なら馬車に積んでる。包帯もあるから好きに使いな」
「分かった!」
ミーヤに無事な方の手を引かれて馬車に連れて行かれた美咲は、馬車の中でミーヤの治療を受ける。
治療を受ける間も、美咲の身体の震えは止まらなかった。
(怖かった……)
意識して深呼吸をしてゆっくり気持ちを落ち着かせると、無我夢中だった美咲の身体から、ようやく強張っていた力が抜ける。
ゲオルベルとの戦いは、美咲に怪我の恐ろしさというものを思い知らせた。
美咲の体質では、魔法で怪我を治療する、などという芸当は出来ない。手当てをしたら、自然治癒に任せるしかないのだ。しばらくは左腕は使い物にならないだろう。発熱だってあるかもしれない。
「お姉ちゃんをこんな目に合わせるなんて。ミーヤ、アリシャのこと見損なった」
手当てをしながら、ミーヤは口をへの字の曲げてアリシャへの不満を露にする。
苦笑した美咲は、ミーヤに笑いかけた。
「あんまりアリシャさんのこと、嫌わないでくれるかな。怪我をするのは承知の上で、私の方から頼み込んで修行をつけてもらってるんだし」
「……どうして、お姉ちゃんは強くなりたいの?」
ふと顔を上げたミーヤに問いかけられて、美咲は返す言葉を失った。
美咲が強くなりたい一番の理由は、魔王を倒して死出の呪刻を解き、元の世界に帰りたいからだ。でもそれを正直に伝えるのは憚られる。だから美咲は二番目の理由を告げた。
「私を守るためなんかに、誰かに死なれるのはもう、真っ平だから。誰かに守られるより、守る方の人間になりたいの」
静謐な口調に詳しい事情を知らずとも何かを悟ったのか、口を開きかけたミーヤは結局何も言わずに押し黙り、治療に集中する。
熱した短剣の刃で傷口を少し切り開き、煮沸消毒した水で洗浄して、しっかりと綺麗な布で傷口の中まで拭いた後、傷口が閉じないように薬草で蓋をする。
これは、閉じた傷口の中で雑菌が繁殖するのを抑えるためだ。
噛み傷は傷口の大きさに対して傷が深く、傷口の中で細菌が繁殖して膿が溜まり、それが体内に向かってしまうと様々な感染症を引き起こす原因となる。
そのため、後々出てくるであろう膿を外に排出し易くしておく必要があるのだ。
処置の最中、美咲は何度も悲鳴を上げそうになったけれど、ミーヤの手前、声を上げるのは堪えた。代わりに携えた勇者の剣の鞘を強く握り締め、息を止めて治療が終わるのを待つ。
おそらくは、美咲の声無き絶叫を、ミーヤは聞いていただろう。
何せ、麻酔もせずに傷口を開くのだ。ただでさえ痛んでいるのに、さらに痛みを追加するのだから、その苦痛は想像を絶する。
「お姉ちゃんは、凄いね」
やがて、ミーヤはぽつりと言った。
「……そうかな」
「凄いよ」
苦笑する美咲に、今度こそミーヤははっきりと言った。
「ミーヤだって、パパとママが生きてる可能性が低いことくらい、分かってる。パパとママのおかげで、ミーヤはまだ生きてる。だけど、一人だけ残されるのはとても辛くて、悲しい」
ひっくと、ミーヤが嗚咽を漏らした。
「でも、それが分かってても、ミーヤはお姉ちゃんみたいに強くなれない。戦うのは怖い。だって、死んじゃうかもしれないんだもの。だから、こうやって安全な場所で、お姉ちゃんの傷を治療することくらいしかできない」
「それでいいと思うよ。ミーヤちゃんはまだ子どもなんだから」
「お姉ちゃんだって、まだ大人じゃない! ミーヤと同じ子どもだよ!」
突然叫んだミーヤに虚を突かれ、美咲は黙り込む。
「ねえ、どうしてお姉ちゃんは戦うの? 戦うだけが、強くなる方法じゃないよ」
「……どうしてだろうね」
明確な答えを返せず、美咲はミーヤに曖昧に微笑みかけた。
戦うのは今だって嫌いだ。痛い思いはしない方がいいに決まっている。死ぬことは考えただけで恐ろしい。それでも戦うのは、それ以外他に方法が無いからだ。目を閉じ、耳を塞いで座して待っていても、時が来れば死出の呪刻によってどの道美咲は死ぬ。だから美咲は戦う道を選んだ。
死にたくないがために死地に身を置く。美咲自身、ふざけていると思う。だが、他に美咲が生き延びる道は無かった。
死出の呪刻さえ無かったら、美咲はとっくの昔に元の世界に戻っているだろう。
「……私、故郷に帰りたいの。そのためには、戦わなきゃ、いけないから」
美咲はミーヤに対して誠実に接した。
異世界から来たことはさすがに話せないが、帰りたい場所があることは隠さなかった。
「そういえば、お姉ちゃん、雷に打たれたのに、火傷が全然無いね」
傷口の治療を続けながら、ミーヤはぽつりと言った。
「体質なのよ。魔法が効かないの」
皮肉げに美咲は肩を竦めた。
異世界を渡った副作用はメリットが多いが、デメリットも多い。特に回復魔法が効かないというのが致命的だ。おかげで、こうして怪我の治療も魔法に頼らない方法で行わざるを得ない。安物の魔法薬は回復魔法を篭めて作っているため、使っても効果が消えてしまうのだ。
高価な魔法薬なら原料そのものの薬効がずば抜けているので美咲にも効果はあるが、その代わりに値が張るし、市場にもほとんど出回っていない。旅の序盤に道具袋ごと盗まれたのが、今更になって悔やまれる。
エルナのことを思い出して、美咲は少し泣きそうになった。
「そうなんだ……」
ミーヤは目を丸くして美咲を見た。
どうやら、ミーヤは異世界人についてあまり知らないらしい。魔法が効かないことを明かしても、ミーヤは美咲が異世界人であることを指摘することはなかった。
身構えていた美咲は少し拍子抜けしてしまう。いや、別に突っ込まれたいわけではなかったのだが。
「はい、これでおしまい」
最後に包帯で患部をぐるぐると巻き、ミーヤは治療を終えた。
すまなさそうな顔で、ミーヤは美咲を見上げる。
「ごめんなさい。傷口が深かったから、後で熱が出るかも」
「それは仕方ないよ。ありがとね」
苦笑した美咲は、ミーヤの頭を優しく撫でる。ミーヤが目を細めて美咲にしがみついた。
おずおずと手を伸ばしてくるミーヤと手を繋ぐと、ミーヤがぱあっと顔を輝かせた。
「治療は終わったか?」
御者席から馬車の中を覗き込んだアリシャに、ミーヤがべぇっと舌を出した。
「終わったみたいだな。なら出発するぞ。天気も怪しくなってきたから、早く帰ろう」
前を向いたアリシャが手綱を操ると、馬車はゆっくりと動き始めた。