四日目:非常識の洗礼3
夢を見ている。
美咲が現代世界にいた頃の夢だった。
小さい頃の夢だ。
その時の美咲は小学生で、家庭が苦しい経済状況だったこともあり、美容院よりも、母親に髪を切ってもらう事の方が多かった。
タオルを首筋に巻いて、櫛と鋏を両手を持った母親に髪を切ってもらうのが、美咲は好きだった。
普段は仕事で忙しかった母親が、唯一自分だけを見てくれる時間だったから。
頑張って起きていたいのに、最後の方は決まってうとうとしてしまって、髪を切り終わった母親に優しく揺り起こされるのが常で、起きた美咲が構って欲しさからもう一度切ってとせがむ。
そんな日常を、美咲は遠くから見ていた。
遠くで、小さな自分と母親のやり取りを見ていた。
もしかしたら、もう二度と会うことはないかもしれない母親を見ていた。
優しい手つきで、美咲の髪に鋏を入れている。
美咲の年齢は、小学校の高学年くらいだろうか。
懐かしい記憶だ。
それくらいになると、友人たちの中には一人で美容院に行って切ってもらっているという子も増えてきて、ちょうどその頃の美咲は、母親が髪を切るという行為が嬉しいのに、気恥ずかしさも相まって、反抗期のように生意気な態度を取ってしまっていた。
それでも美咲は母親が大好きだったので、むすっとした不機嫌そうな表情は長く続かず、表情はにまにまと崩れてきて、やがて眠気に襲われ、うつらうつらとし始め、母親に頭を固定されてハッと目が覚めるのだ。
本当に、懐かしい。今はもう過ぎ去った日々。
目の前の光景もまさに記憶の通りで、むっつりとした美咲の口が開いてきて目もとろんとしだしているのを鏡越しに見た母親が、苦笑しながら、でも愛おしそうに美咲を見つめている。
それは間違いなく、子どもを慈しむ、母の目だった。
(……お母さん)
今も昔も、母の眼差しは変わらない。
あの頃も、現在も、この世界に召喚される瞬間まで、美咲は幸せだった。
平和であることだけで恵まれていて、けれど自分はそれを少しだけ不満に思っていた。こんなことになるなんて、思ってもいなかった、退屈な日々。いつも、何かワクワクするようなことが起こらないか期待していた。いつだって、刺激を求めていた。両親に甘えていながら、それでいて両親の言うような、平凡な未来は嫌だと思っていた。
高校生になって、寮生活を始めた友人を、羨ましがったこともある。
今なら言える。寮生活が何だ。親元で暮らして、何が悪い。今は、心の底から、帰りたい。
退屈でいい。堅実でいい。スリルなんて要らない。母親と父親の三人で暮らし、高校を卒業して、大学に行くなり、就職するなりすることの何がいけないのか。冒険なんてしなくていい。普通の幸せを掴むことが出来れば、それは十分に幸福と言えるのだから。
それがよく分かる。何もかも手から零れていって、ようやく。
郷愁が胸に溢れる。鼻の奥がつんとした。
母親も父親も、元気にしているだろうか。
自分がいなくなったことで、悲しませていないだろうか。
ご飯はちゃんと食べているだろうか。
仕事で疲れて倒れてはいないだろうか。
(帰りたいよ)
両親に、無事な姿を見せたい。せめて、声を聞かせたい。
どんなに願っても、自分の身体に刻まれた呪刻が、お前を帰さないと告げている。
魔王が憎かった。
自分を召喚なんてしたエルナやそれを指示した王子も憎くないと言ったら嘘になるけれど、帰れなくなった原因を作った魔王がそれ以上に憎かった。
(……倒さないと帰れないなら)
その先を明確な形にする覚悟は、まだ美咲にはなかったけれど。
■ □ ■
首筋の涼しさと、首元に感じるちくちくとした痒みに、美咲は眠りの淵から引き上げられた。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
久しぶりに懐かしい夢を見て、記憶が錯綜して混乱している。夢を見ながら泣いていたのか、少し目が腫れぼったい気もする。もしかしたら、赤くなっているかもしれない。
ベッドから上半身を起こして、周りを見回した。
自分の部屋ではない、まるで中世を題材にしたファンタジー小説に出てくるような素朴な部屋。
合点がいった。
(ああ、そうだ。宿屋に泊まってたんだっけ)
思い出せば、思考は一気に夢から覚めて現実に帰ってきた。
頭を振って夢の残滓を追い払う。
今となっては涙が出るほど懐かしい夢だったが、いつまでも夢に浸っているわけにはいかない。
美咲には、やるべきことがあるのだ。
生きて元の世界へ帰還するために、やるべきことが。
たとえ命の危険があるとしても、必ず成し遂げる。
夢を見て、故郷を思う気持ちは強くなった。帰れるのなら、帰りたい。今すぐにでも。
それでも、今は帰れないのだから、現実を見るしかない。
「って、あれ? なんか臭いが……」
そこまで考えて、美咲はようやく異常に気付く。
懐かしくも切ない夢を見ていたせいか、気が高ぶっていて気付かなかったが、一度気がつけば、美咲の五感は一斉に異変を訴えてくる。
妙だ。
部屋の中に鉄錆のような臭いが満ちている。
目を凝らして部屋の中をみても、部屋の中にはろくな光源が無いので、暗くてよく分からない。
ベッドから出れば、靴の裏に、何かねちゃりとした感触を感じた。その嫌な感触に顔を歪めながら、手探りで窓まで歩いて窓の落とし戸を開けようとした美咲は、そこでようやく頭の違和感に気が付いた。
いつもより軽い。もはや慣れて意識することもなかった頭を引き摺るような感覚が、無くなっている。
「あれ? あれ?」
首筋に手をやれば、いつもの髪の感触は無く、直接首筋に触れることができてしまった。
その意味することを悟り、美咲の顔から血の気が引く。
慌てて部屋を飛び出し、一階に駆け下りて受け付けの女将に声をかけた。
「鏡! 鏡貸して下さい!」
「貴族の館じゃあるまいし、鏡なんてありゃしないよ。水鏡なら用意できるけどね……。って、どうしたんだい、その髪は!?」
仰天した女将が水瓶から桶に水を汲んでくれたので、波紋が和らぐのを待って恐る恐る覗き込む。
思わず絶句した。
「……酷い」
辛うじて搾り出した言葉は、震えている。
案の定、美咲の髪は根元からばっさりと切られていた。
下手人はかなり乱雑にやったのか、切り口はばらばらでよく見れば首筋に細かい髪の毛が散っている。
こんなことをされて、気がつかなかったのだ。美咲は。前日が野宿だったからか、よほど深く寝入っていたらしい。
「こりゃあ、髪泥棒にやられたね」
女将が聞きなれない単語を発したので、美咲は振り向く。
髪泥棒なんて、元の世界では聞いたこともない。美咲が知識不足なだけかもしれないが、普通のこととは思えなかった。
「どういう、ことですか?」
この世界では一般的な知識なのか、女将は不思議そうな顔をしたものの、親切に説明してくれる。
「知らないのかい? 女の髪は高値がつくから、こうやって髪を切って盗んでく輩がいるのさ。大概は強姦とセットだったり、途中で目が覚めて殺されちまったりするから、命があっただけでめっけもんだよ。辛いだろうが、気を落としなさんな」
青褪めた美咲は、女将から身体を背けて色々確認した。特に乱暴されていた様子はない。身体に妙な痛みもない。本当に髪を切られただけのようだ。心の底から安堵した。
ホッとしつつも、自分の知らないところで命の危機が訪れていたことに美咲は戦慄する。
魔王と戦って死ぬならともかく、人間に殺されるなど、冗談ではない。確かに命の代わりに髪で済んだと思えば、軽い。納得は、あまり、出来ないけれど。
「ところで姿が見えないけど連れの女の子は大丈夫かい? 様子を見てきた方がいいんじゃないか?」
「そうだ、エルナ!」
同じ部屋に止まっていた少女のことを、美咲はようやく思い出した。自分がこんな目に遭ったのだ。エルナは無事だろうか。部屋の中は、美咲が立てるもの以外の物音はしなかった。不安が大きくなる。
美咲は礼を言って桶を女将に返し、部屋に戻った。
部屋の中にはエルナはいない。。
ただ、エルナのベッドは乱れており、何か不足の事態があったことを匂わせている。
鉄を思わせる嫌な臭いも、相変わらず漂っている。
蒼白な顔で唇を震わせながら、美咲は明るくして部屋の状況を確認しようと、きっちり閉められていた窓の落とし戸を開けた。
「何、これ……」
優しい日の光が、惨状を照らした。
きらきらと日の光が反射して宙を舞う埃が輝き、神秘的な光景を生み出している。
だからこそ、部屋の異常が一段と目立っていた。
部屋の床は夥しい量の血で汚れており、転々と血痕が部屋の外へ向かって続いていた。
目覚めてすぐに感じた鉄錆の臭いの正体に気付き、さあっと美咲の顔から血の気が引く。
昨日の夜に鍵をかけたはずなのに、美咲が外に出ようとした時鍵はかかっていなかった。昨日、酒場でやってしまった失敗のこともある。きっと、誰かに侵入されたのだ。
その上エルナが寝ていたベッドはもぬけの殻になっていて、血痕が外に続いている。
心当たりが無いとはいえない。昨日の今日なのだ。むしろ心当たりしかない。何かがあったとしか思えなかった。
再び一階に駆け下りて、女将に事の次第を伝えると、女将も顔を青くする。
「そりゃ大変だ。自警団の詰め所には私から連絡しとくから、あんたはもう一度部屋に戻って荷物で無くなっているものがないか確認してきな!」
「は、はい!」
頷いて、美咲は再び部屋に戻り、荷物を探した。
「な、ない! ないよ! エルナの荷物は残ってるのに、私の荷物と剣がない!」
脱いだ制服や防具は残っているのに、奇麗さっぱり道具袋と剣だけがなくなっている。
道具袋は中身もそうだが、袋そのものが高値がつく代物だし、剣も遺失武器だ。
髪、道具袋、遺失武器。見事に金目のものばかりがない。
他に残っているものといえば、元々この世界に来る時に持っていた携帯と財布くらいしかなかった。
美咲はショックを受けてふらふらとよろめきながら一階に下りる。
「女将さん、私の荷物と剣が無くなっています。それに、部屋の床が血だらけで……。もしかしたら、エルナは犯人に襲われて」
青ざめて今にも倒れそうな表情の美咲を女将が抱き止める。
「分かった、皆まで言うな! 自警団の奴らも探してくれるだろうから、ひとまず休みな!」
残された血の量からして、エルナが大怪我を負っていることは確実だ。
下手をすると、死んでしまったかもしれない。
女将の胸に顔を埋め、美咲は泣き崩れた。