十日目:美咲の修行3
広場に戻ってきたアリシャは、美咲の横で自分の道具袋を漁ると、フックつきロープを取り出した。
美咲が持っているフックつきロープよりも頑丈な作りのフックで、繋がっているロープも太く、がっしりとしている。これなら、おそらく耐久性は抜群だろう。
「……何に使うんです、それ?」
「見てりゃ分かる」
鼻歌を歌いそうな暢気さで、アリシャは美咲の腰にロープを結んだ。
次にアリシャは回りを見回し、おもむろに広場の隅に鎮座している石に近付いていく。
鎮座という言葉が示す通り、大きな石だった。大きく、平べったく、さすがのアリシャであっても、とても持ち上がりそうに見えない。
小学生などの学習机と大体同じくらいの大きさだ。無論、学校で使う小さい机ではない。家庭用に販売されている、がっしりした作りの方の学習机である。
「んー、これがいいかな」
ロープを地面に広げたアリシャは、しゃがみ込んで両手を石に伸ばした。
まるで今からこの石を持ち上げますよ、といった風体だ。
腰を痛めないために、中腰ではなくきっちりと腰を下ろしている辺り、本格的である。
「もー、アリシャさんたら。いくらアリシャさんでも、そんなの一人で持てるはずが……げぇっ!?」
けらけら笑っていた美咲の口から、女にあるまじき驚愕の悲鳴が上がる。
アリシャの体中の筋肉が盛り上がり、ぱんぱんに膨れ上がって、大きな石を持ち上げていた。
「誰が持ち上げられないって?」
美咲を見て石を抱えたままにやりと笑ったアリシャは、ロープの上に石を落とすと、器用にロープで石を括った。
アリシャはどかりと石の上に腰を下ろす。
ロープのもう片方の先は、美咲に結び付けられている。
「それじゃ、また倒れるまで走り込みいってみようか」
何でもないことのように告げられた言葉に、美咲は目を剥いた。
走れと言うのか。この馬鹿みたいに大きな石を引き摺りながら。
本当に、美咲にそんな芸当が可能だと、アリシャは本気で思っているのだろうか。
「……はあ!? 無理無理、無理ですって! こんな大きな石引き摺って、さらにアリシャさんの体重も加えるなんて、重すぎです! アリシャさんムキムキでただでさえ重そうなのに!」
割と必死な美咲は、一言多かった。
「誰が重いって? 美咲はもう少し、女性の扱い方を覚えるべきだな」
「私も女性なんですけどおおおおおおお!?」
美咲への返答は、美咲目掛けてぶん投げられたアリシャの大剣だった。
「ぎゃああああ!」
直撃したら死にかねない。
死にたくなかった美咲は、反射的に大石を引き摺って走り出していた。
間髪入れず、美咲が立っていた場所に大剣が突き刺さる。
一拍でも遅ければ、美咲の脳天が串刺しになっていてもおかしくない角度だった。
というか、剣の大きさ的には串刺しというか、そもそも原型を留めなさそうだ。
「ほら、やればできるじゃないか。やりもしないうちに諦めるのは良くないよ」
大石に座ったまま、にやにや笑いながらアリシャはそんなことをほざき、美咲に引き摺られる大石の上で手を伸ばし、無造作に大剣を回収した。
火事場の馬鹿力で大石を引き摺るほどの力を出したまつりだったが、火事場の馬鹿力がそう長く続くはずも無く、美咲が走る早さは加速度的に遅くなっていく。
アリシャは美咲目掛けて容赦なく大剣を振るった。
「ほらほら、もっと早く走る! 急いだ急いだ!」
「ひいいいいいい!」
最低限の手加減ぐらいはされていると思いたいが、それでもアリシャの持つ大剣がぶち当たった日には、美咲の身体など簡単にぽっきりと二つに折れてしまいそうで、恐怖に駆られた美咲は必死になって走った。
文字通り倒れるまで走り込み、疲労困憊になってぶっ倒れた美咲を、アリシャは水をぶっ掛けて叩き起こす。
「ほら、またこれ飲んで」
美咲に手渡されたのは、あの辛い筋肉痛を引き起こす魔法薬。
魔法薬を受け取った腕が震えるのは、肉体を酷使したことによる疲労だけではないだろう。
「うう……またあの痛みを味わうんですね……」
それでも、強くなるためには、これを飲まなければならない。
涙ながらに魔法薬を飲み干した美咲は、今度は一度目を超える激痛に悲鳴も上げられず意識を飛ばした。
「……さすがにやばいか?」
白目を剥いた美咲は倒れると、陸揚げされた魚のようにビクンビクンと激しくのたうつ。
終いにはとうとう泡を吹いて小刻みに痙攣し始めた美咲を見て、引き攣った笑いを浮かべたアリシャはそそくさとロープを取り外すと、軽々美咲を抱え上げて宿屋に担ぎ込んだ。
■ □ ■
何度も三途の川を渡りかけた美咲が目覚めたのは、夕日が沈む間際だった。
目を開いた美咲の黒目が動いたのを見て、看病をしていたアリシャが美咲に声をかける。とはいっても、せいぜい宿屋のベッドに寝かせて様子を見ていた程度ではあるが。
「よし、目が覚めたみたいだね。じゃあ夕飯食べに行こうか」
自分でもやり過ぎたと思っているのか、ホッとした表情でアリシャが言った。あと若干早口になっている。実はアリシャも美咲が気絶して痙攣までし出したのを見て、慌てていたのかもしれない。
対する美咲の返事はない。ただの屍のようだ。
「……生きてるよね?」
アリシャは返事をせず動かない美咲が心配になったのか、美咲の顔に手を近付けて呼気を確認する。
「うん。呼吸はある。おーい、美咲、意識があったら返事しなさい」
「……アリシャさん」
やがて、美咲がぼそりと声を上げた。
年頃の娘らしくない、疲れきったしゃがれ声だった。
「身体がぴくりとも動きません」
起き上がろうと思っても、まるで神経を引っこ抜かれでもしてしまったかのように、美咲の身体はうんともすんとも言わない。ただ、筋肉痛の痛みだけが全身を支配している。
「あー……」
気まずげな顔で、アリシャは目を逸らし頬をかいた。
改めて、自分が美咲に課した内容を鑑みてみる。
倒れるまで走らせて、大剣を重り代わりに軽く身体を動かす程度のトレーニング。それから初心者だからとアリシャ基準でちょっと軽めの石を選んで、それを重りにしてさらに走らせた。そうやって身体中に一気に負荷をかけて追い込んでから、特別製の魔法薬で超回復させた。
自分ならば鼻歌交じりでこなせる内容なのだが、美咲ではまだこれでも早過ぎたかもしれない。
ようやくそのことに思い至ったアリシャは、ちょっとだけ反省した。
「やりすぎたかな。起きれるかい?」
「さっき動けないっていいませんでした? 起きれるわけないです」
首すら動かないのか、ベッドに寝転んだまま宙を睨む美咲を見て、アリシャは立ち上がる。
身体が動かなくても、文句を言う元気はあるようだ。ならば問題はない。
「何か買ってこよう。動けないほど反応が出てるってことは、それだけ美咲が頑張った証拠だ。明日になればまた身体に変化が訪れるはずだよ。数日続ければ短期間でもそれなりの筋肉がつくだろうさ。今は休んでな」
美咲の頭を不器用な手つきで撫でると、アリシャは廊下に出ていった。
ドアが閉められ、アリシャが階下に下りていく足音が聞こえる。
本人が言った通り、夕飯になるものを買いに出かけたのだろう。
一人きりになって、ベッドの中で、美咲は一日を思い返していた。
あっという間に一日が過ぎ去った。
(あんなに悲しい出来事があったのに。アリシャさんに扱かれてる間は、考える暇も無かった)
ルアンやルフィミアたちの最期を思い出すだけで、美咲の胸は今も締め付けられるくらい苦しくなる。でも、修行の最中はそれさえ忘れてしまっていた。
それだけ修行がきつかったということでもあるのだが、もしかしたら、アリシャは美咲に余裕を与えないことで、美咲が大事な人を立て続けに喪ったことで潰れないようにしてくれたのかもしれない。
必ずしも、それは美咲の精神の安定という意味では悪いことではないはずだ。しかし、美咲にとっては、何の慰めにもならない。
「私、薄情だ。絶対に、覚えてなきゃいけないことだったのに」
忘れてはいけない。
ルアンも、ルフィミアも、美咲を生かすために死んだのだ。ろくに戦えず、またその覚悟すらなかった美咲を、ただ守るべき弱者として扱い、当たり前のように死地に飛び込んだ。
弱い美咲を、守ろうとして。
「……もう、誰も私のためになんか死なせない。あんな目に遭うのは、もう嫌だ」
故に、強くならなければという強迫観念が美咲を突き動かす。
元の世界の常識は、この世界では通用しない。弱いということは、それだけで罪なのだ。強くなければ何も守れないどころか、時として他人を巻き込む。エルナやルアン、ルフィミアのように。
美咲は静かにベッドから起き上がった。
動けないほどに美咲の身体を苛んでいた筋肉痛は、アリシャがくれた魔法薬のおかげか急速に引いていっている。
ベッドから降りた直後はよたよたと頼りなく、何かに捕まらなければろくに歩けもしなかった美咲の足取りは、勇者の剣を掴んだ頃には支え無しに歩けるようになり、部屋を出た時には確かなものになっていた。
外は明るい夜だった。
街灯の無い異世界の地面を、煌々と満月が照らしている。ヴェルアニアの夜空にはたくさんの星が煌いていて、どこか幻想的な雰囲気を漂わせている。
昼間にアリシャと訪れた広場に、今度は美咲一人で立つ。
(強く、なりたい)
勇者の剣を構え、美咲は願った。
(今よりも、強く。誰にも負けないくらい、ずっと強く)
ただ、無心で剣を振るう。
以前ルアンに教わった剣の握り方。ルアンやルフィミアたちの戦い。その際に見た、彼らの間合いの計り方、攻撃の受け流し方。そんな目にした諸々を頭から引っ張り出し、目の前にあの蜥蜴男がいると想像した。想像上でも彼はとても強く、美咲の剣は一合とも持たずに弾き飛ばされた。
実際は、脆弱な握力が勇者の剣を保持出来ずに、手からすっぽ抜けただけだ。
唇を噛んで、剣を拾いに行く。
今までは、帰りたい一心だった。もちろん今も、その思いは変わらないけれど、そこに新たにもう一つ決意が加わった。
美咲は彼らの好意に何も返せなかった。ならばせめて、魔王を倒すことで、訪れる平和を彼らへの餞としよう。
そのためにはまず、魔族軍の手から要塞都市ヴェリートを取り戻さなければならない。
「強くなるんだ。絶対に」
その日。美咲は朝になるまで、剣を振り続けた。